和辻哲郎の「古寺巡礼」は、奈良周辺のお寺にある仏像の美しさに 心を魅かれた彼の想いとそれをベースとした古寺全体についての 時代的な流れについて書かれている。 ここでは、「仏像の問題」をそのような仏像を作った日本文化の 問題点、日本人の心の問題として考え、現代への意味として、考えてみる。 法隆寺の仏像は、飛鳥時代の精神、考えが客観化したものであり、この 表現されたものを通じて、その背後にある飛鳥時代の人間の生き方、 考え方、想いを理解する。 1)釈迦如来像 釈迦如来像が作られ始めたのは、550年ごろ、仏教の伝来とともに、 始まった。 そのため、釈迦牟尼仏を理解する必要があり、京都市上品蓮台寺などに 保管されている絵因果経は、わが国に残る仏伝を取り扱った最古の作品である。 生まれたばかりの釈迦は、32相80種好の異なる特色を具備していたという。 これは、釈迦仏、薬師仏、阿弥陀仏でも、同じく、32相80種好を具備するもの と規定している。 32相には、肉桂相や白豪相などがある。 仏陀の見分け方は、手の位置、指の曲げ方、などで、何仏かを決定している。 これを印相、印契と読んでいる。 涅槃像は、仏が入滅する時の姿勢で、最古の作品としては、貴重である。 そして、涅槃図の中には、1つの感情の動きがある。じっとその悲しみを 押し殺している弟子と慟哭し、嗚咽している一般民衆には、大きな差がある。 原始仏教(人生の苦の原因である愛欲を断ち切ること)から大乗仏教への進化 を考える必要がある。 大乗仏教では、もっぱら釈迦の存在を超歴史化、超人化して、人間とは違う 如来や薬師、大日、阿弥陀などの多くの仏を創りだした。これらのことにより、 仏教は、初めて宗教と言える形となっていった。 2)薬師如来像 どんな宗教でも、それが一般民衆に受け入れられるには、何らかの現世利益 的信仰の形が必要となる。人間の悟りの境地を最終目的とする仏教においても、 一般民衆をその振興に導くための方便として、様々な現世利益を 与える仏が出現して、その信仰を集めてきた。 薬師如来は、それの代表として、広く信仰を集めてきた。 日本でも、観世音菩薩がまず、信仰され、その後、教理的な位置付けとしては、 あまりされていないが、曼荼羅図にも描かれる薬師如来が広く一般民衆の 振興の対象となっていく。 最初は、7世紀ごろ、法隆寺の金堂像として、造立される。 旧いものでは、奈良法輪寺、京都神護寺にある。 戦前の日本では、功利主義や実用主義はほとんど思想として認められていなかった。 しかし、功利主義などを公の価値から排除することが薬師如来の評価 する場合には重要となる。 すなわち、この薬師如来崇拝からは、日本人の「合理的実利精神が 明確となる。 その具体的な事実として、「比叡山延暦寺の本尊が、「薬師如来」であるという ことを考える必要がある。そこには、日本文化の雑種的混合的な性格とその雑種性 混合性を統一するものが、現世利益の精神と思われる。 その人気の点では、現世に対する絶望と死に対する不安から、阿弥陀如来と なって行くが、やはり現世利益の薬師如来が一般民衆では、本尊とかんがえられ、 現世での薬師如来、来世での阿弥陀如来の二元崇拝となって行く。 しかし、法然、親鸞により、薬師による現世利益崇拝が主となる。 親鸞に、現世利益和讃と言うのがある。 南無阿弥陀をとなれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ 南無阿弥陀仏をとなえれば 十万無量の諸仏は 百重千重囲適して よろこびまもりたまうなり 要は、南無妙法蓮華経と唱えれば、この世においても幸福を得ることが出来る。 3)阿弥陀如来像 一如来は一浄土を開いているが、阿弥陀如来の極楽浄土が広く知られているため その有様は、「観無量寿経」に詳しく書かれている。 法隆寺の阿弥陀如来像(橘夫人念持仏)は白鳳時代の傑作である。 平安時代には、末世思想が広く信じられ、末法時代になるとの恐れもあり、 阿弥陀仏の信仰が「念仏するだけでこの末法時代から逃れられる」ことで、 阿弥陀如来像の造率やその仏画が多く作られた。 阿弥陀如来像の印相は、最も種類が多い。 一般に阿弥陀如来の印相は、両手ともに第1指と第2指とを捻して、 輪のようにしているものである。上品上生から下品下生の9種類がある。 多くの阿弥陀如来像は、丈6象が基本であり、京都法界寺、京都浄瑠璃寺 の本尊、京都宝菩提院本尊などが有名である。 また、陀如来堂には、2つの考えがあり、念仏を修行する場と極楽浄土 のような華麗絢爛な装飾で極楽浄土を現したものである。 来迎図にも、一尊、三尊、二十五菩薩来迎、聖衆来迎など様々な来迎図 がある。 京都知恩院の阿弥陀如来二十五菩薩来迎図、高野山の聖衆来迎図、滋賀の 西教寺の迅雲来迎図、京都泉湧寺の二十五菩薩来迎像などが有名である。 阿弥陀仏信仰は、藤原時代から急速に大衆化し、多くの信者が 増えた。このため、浄土の有り様を描いた画が多く書かれ、浄土曼荼羅 、浄土変相図として、その拡大の一端を担った。 特に、当麻曼荼羅、智光曼荼羅、清海曼荼羅の浄土三曼荼羅は有名である。 ■現代における阿弥陀の浄土と彼岸の世界 阿弥陀如来の「我々の死後、救済してくれるという」考えが現代人に 通用するか、はかなり疑問が残る。慈悲として釈迦如来、現世利益の 薬師如来、宇宙総括の大日如来は、感覚的にも納得の行く所であるが、 彼岸そのものがありえるのであろうか。 しかし、平安時代以降、阿弥陀如来の以外の仏教美術は、その多くが 消えたり、影響を受けたりして、日本文化の核となって行く。 そして、阿弥陀の極楽浄土を深く知るには、日本文化や」日本人の心を 知るには、「観無量寿経」への理解が必要となる。 観無量寿経は、父と母を殺そうとする太子が幽閉の身にする。そこで、 母は、釈迦に極楽浄土へ行く方法をおしえてもらう。「定善と散善である」 これにより、幾つかの散善の方法により、極楽浄土に9品のレベルで、 いけるようになる。 しかし、その教えである浄土教は、思想的な変化をして行く。往生要集の 源信から法然、親鸞となり、民衆へと更に広がる。 阿弥陀を本尊とする浄土教が「現世への絶望や死への不安、美や善への 憧憬」を単に彼岸への約束だけで、実現できるものではない。 ここに、阿弥陀如来を基本とする教えの限界があるかもしれない。 4)大日如来 大乗仏教が本格的に広まり、お釈迦様が仏としての釈迦如来の意味づけが 強くなると、上救菩薩下化衆生の具現化のために、様々な仏が出現する。 阿弥陀如来、薬師如来などであり、夫々が具体的な性格を持って出現した。 そして、釈迦如来を1つのものに統一する思想が濾巡那仏を仏教の本源の 仏と考えるようになった。その仏があらゆる世界に釈迦として出現する と考えた。 この教義を具体的に展開したのが、真言密教である。 このため、大日経、金剛頂経の両経典ともに、基本は同じであるが、 大日如来の姿は印相を含め、かなり違う。また、大日如来像は、 王者の風格を現そうとしているためか、他の如来と違い、多くの 装飾をつけている。曼荼羅が重要な位置を占め、胎蔵界と金剛界 の両界曼荼羅を1対のものとして扱うのが通例でもある。 神護寺の紫綾地金銀泥両界曼荼羅図が有名である。 仏像では,案祥寺五智如来像、高野山竜光院の本尊、法勝寺の 四面大日如来、渡岸寺の胎蔵界大日如来像、唐招提寺の濾巡那仏 坐像などがあるが、諸仏、諸菩薩を統一する中心本尊として の仏であり、大衆信仰の対象としては、あまり出てきていない。 ■大日如来の日本社会での位置付け 大衆信仰として、大日如来の存在はそれほど高いとは思えない。 そのりゆうとしては、 ・真言密教の本尊であり、浄土宗、浄土真宗、禅宗日蓮宗の多さに 比べて、天台宗とともに、その数が少ない。 ・大日如来が智の仏であり、「情」を基本とする日本人の心性、 日本文化の性格に合わないことがある。 しかし、大日如来が根源となり、ほかの如来や菩薩の崇拝を育てた のではないだろうか。 更に、これらの背景に華厳思想があることを忘れてはならない。 曼荼羅の基本は、大日経に基づく胎蔵界曼荼羅と金剛頂経に基づく 金剛界曼荼羅を2対1組とする両界曼荼羅であるが、結局は絶対の仏 である大日如来に統一されていく。 例えば、現在の胎蔵界曼荼羅である中台八葉院略図では,13の院 に分かれており、この院を囲んで、持明院、遍智院、蓮華院、金剛手院 が囲み、第2、第三重に多くの仏が配置されている。 そこには普賢菩薩、文殊菩薩など8つの菩薩との関係を上手く描いている。 両界曼荼羅は、一目で、仏教の深遠な思想が理解されるようになっている。 例えば、第3層の釈迦院はたにんん救済に向かうし、文殊院は、自己深化、 自己向上へ向かう。 ■日本人の生命観と密教との関係 日本人は、古来から自然の中に、生ける神の姿を観る民族である。 このため、自然崇拝に適した仏教が日本では受け入れやすかった。 また、在来からの神道とも同じである。 智を基本とする大日如来は、観音、弥勒などの「情」を基本とする ような仏に対しては、やや馴染みにくい。 5)観音菩薩像 菩薩は、大乗仏教の中で、発展し、密教の広がりとともに、特に その数が増えた。これは、「上救菩薩、下化衆生」の仏教の境地 を示す。特に、観世音菩薩への大衆信仰の大きさは凄い。 観世音菩薩の国内での広がりは、観音霊場三十三箇所を巡拝する 風習も始まった。 その始まりは、500年ごろの陀羅尼雑集12巻と思われる。 更に観音像は、十一面観音、如意輪観音などに拡大していく。 観音信仰は、日本書紀の記述では、天武天皇時代にもあり、その 始まりはかなり古い。 十一面観音の規定は、正面の三面が菩薩面、左三面が槇面(憤怒) 右三面は菩薩面に似て狗牙が上に出ている顔につくり、後ろの一面は 大笑面、頂上に仏面を創ることになっている。 次に出現した不空賢索観音がある。この観音は、多くの寺に安置 されたとあるが、現在は、広隆寺、興福寺、東寺などに僅かに残るのみ。 次の千手観音では、正式には、大阪葛井寺の観音のように、四十八手 を大きく作り、残りの9百本以上を光背のように、背後に広げたように 配列する。これを好く現しているのが、京都三十三間堂である。 更には、馬頭観音、准禎観音、如意輪観音、聖観音などがある。 なお、観音信仰の著しい典型的な例としては、西国三十三箇所の 観音である。千手観音が16体、11面と如意輪観音が6体、 聖観音が2体などとなっている。 観音が大乗仏教の慈悲の精神そのものを表現していることもあり、 その信仰対象になったのであろうが、美的な面では、ややグロテスクな 千手観音にその信仰が集まるのは、何故か? 人間は、複雑であり、怪奇的な面をも持つという多面性を現すことが 重要と考えられたのであろう。更に、人間の苦行の叫びを聞く だけではなく、直ちに救済を行うための実践隣、それが千本の手 となる。 観音経では、大火、大水、羅刹鬼、刀杖、悪人、拇械枷鎖、怨賊 などの七難から衆生を救い、三毒、淫欲、槇志、愚痴などの 内面的な毒から衆生を救う現世利益の力がある。更に、観音は、 三十三身に変化して、民衆を救う。 このような観音を信じることにより、安心、希望、畏怖、 感謝の心を持つことになる。 観音信仰は、「あらゆる生けるものの中に観音の現われを見る」 思想であるが、これは、全てのものは、可能性として、この宇宙の 大生命を宿していることにもなるが、工業社会の進化は、 「世界は我々の支配」と言う間違った考えが支配している。 6)地蔵菩薩 地蔵菩薩は、村の入り口、畑の横など常に我々の生活に溶け 込んでいる仏であり、ほかの菩薩とは違い、頭上に宝冠を 頂くことなく、袈裟と衣を着用した普通の僧侶の姿が基本である。 経典には、実を作り出す「地」は偉大であり、同じくこの菩薩は 全ての衆生を救済する力を持っている、と言っている。 更に、平安時代以降、死んだ人も救済すると信仰されたこともあり、 多く造られた。 これを具体的な形にするため、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、 天道を救うため、六地蔵菩薩として、安置している。 地蔵菩薩は、ほかの観音菩薩などと同じく、現世利益を説いて いるが、更に、過去に死去した人の罪を救済し、解脱へと導く 菩薩としても信仰されている。 地蔵菩薩は、民衆の生活に深く根付いた仏でもあり、その証 として、多くの和歌、狂歌、歌謡曲などに無数に登場する。
2016年5月31日火曜日
「仏像」から見る日本人の心、日本文化(ブログ向け
2016年5月25日水曜日
「鉄から読む日本の歴史」その他
------------ 「鉄から読む日本の歴史」より 29 日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。 古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、 「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本 書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて 日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを 用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に かなり具体的になっている。 この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに 進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。 30 弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存して 天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく 粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、 叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。 日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた かのように述べてもいる。砂鉄を還元するために火力を少しでも強くしようと、 火吹き竹のような素朴な道具を工夫することは、世界各国の原始製鉄民族で 共通なことである。この一枚皮を利用した吹子が存在したかはわからない。 、、、、、 この時代の鉄器文化はごく一部の王侯貴族などの特権階級のみのもので、 一般民衆はまだ石器文化、木器文化の段階にとどまっていた。そして鉄器文化は 国家機構が整備されるにしたがって充実し、大陸から朝鮮半島を経由して 移植されたのであるが、その反面、石器や土器のような物質文化としての 浸透の柔軟性はまったくなくなり、政治的、地域的な制約をもったものとなっており、 同一の地域内でも鉄器を有するものと有さないものとで、文化水準に 大きな差異を生じ、つねに治者階級の威容を示すものとなっていった。 44 農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、 つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの 統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。 それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。 鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、 農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の 副葬品が増えてくる。 弥生期から古墳期にかけての鉄器文化は、刀剣を通じて大陸文化を吸収し、その進歩 を遂げた思われやすい。だが、むしろ狛の剣の名が示しているように、これらは 完成品の輸入が先で、国産化は農工具のような小型鉄器が主である。これが刀子 などの製造となり、やがて頭推剣のようなものまで自給できるように進歩 したものと想像される。したがって、狛の剣はあくまでも優美で貴族の風貌 を誇示する性格を持ち、デザインなども韓土美術工芸の粋をつくしているが、 これに反して頭推剣は装飾も少なく実戦的な刀剣になっている。「神功紀」の 竹内宿祢のはかりごとにより忍熊王が瀬田済わたりで敗れて死んだときの 「かぶつちのいたでおわずば」yぽうような記載も、この剣が儀仗的なものでなく、 実用の武具であったことを示す。 また防御武具についてみると、仁徳帝の13年甲申7月に、高麗より鉄楯の 献上があり、盾人宿祢がこれを射た記録がある。「史記」の鉄幕と同一物で あろうが、この時代になると鋭い鉄鎚が普及したので、それにともなって楯が 木製や革製のものから一部は鉄板製のものへと変わったことが想像できる。 93 播磨、美作、備前、備後のあたりの山中においては、古代から製鉄が行われていた。 「播磨風土記」に見られる鉄に関する記載が非常に古い伝承、たとえば製鉄技術 をもって韓国から渡来した天日槍という神の事跡について記していることも、 その創始の古さを物語っている者と言えよう。また、造山、作山、月の輪、金蔵山 などの巨大な古墳を築造した経済力も、その背景には大陸遠征のための兵器生産用 としての鉄の増産とそれによってもたらされた富の蓄積があったからであろう。 123 鉄器生産に従事した工人機構には、鍛治司かぬちのつかさのほかに典鋳司いものつかさ 等があった。、、、、 このころの鉄製品の主要な生産地は、藤原明衡の著した「新猿楽紀」に記載されている 。 それによると、越前の鎌、但馬の鉄、播磨の針、能登の釜、河内の鍋、備後の鉄 等が著名であった。 大和と河内の鋳造は特に盛んであり、「主計式」によれば、調に鍋を納めている。 「宇津保物語」には鋳物師と鍛冶の作業状況を記している。鋳物師の作業場は 「これはいもじのところ、男子ども集まりタタラ踏み、物の御形鋳などす。 銀、黄金、白蝋などをわかして旅籠、透箱、割籠、海、山、亀など色を尽くして出す」 とあり、当時の鋳物師は素材によってわかれておらず、銀、金、銅、鉄など なんでも用いて鋳造していた。 199 古墳時代ごろの製鉄は山腹の傾斜地を利用し、自然の強い風力にいぞんして、砂鉄を 盛り上げた上に薪木を積み上げて幾日も火を燃やし続け、わずかな鉄塊を得ていたので ある。その後、吹子を使う高温溶解の技術が導入され、年を追って本格的な操業をする ように なった。しかし、奈良平安時代はようやく盛んになってきた鉄の需要に生産が追い付か なく まだまだ貴重品扱いにされていた。そうしたところに、鎌倉時代に至って元寇に あい、鉄の大増産が要求されることで、野タタラの技術に対する大幅な改善が 必要となった。文永年間(1264から75年)になると、炉の上に大きな建屋 を創る工夫がされ、室内で天候に左右されずに操業できるようになった。 こうして、それまでは長年の鉄山師の勘で「百日の照りを見て野炉を打つ」 というように雨が降り出せば中途で操業を放棄しなければならなかったのが、 その憂いがなくなった。そしてふいごを強大化して、炉の内容積を大きくしていった。 しかし、炉の大型化は失敗に終わった。真砂砂鉄で鉧押し法をする大型タタラ は、はじめから鉧塊を創るのが目的であったから、多量の燃料と砂鉄、そして、人力を 使って巨大な鉧塊を造ってしまった。そのため、小割のできない代物になって しまった。 たとえば、水心子正秀の「剣工秘伝志」には、「銑鉄ばかり流しとりといえり、 ゆえに自然釜底に流れ残りて、人力も及びがたき大いなる鉄となりて、今に至るまで 鉄山古跡のタタラ跡の地中に、牛の背のような塊あり」と書かれている。 201 鉄山の立地条件について、「鉄山必要記事」は、簡単に次のような要点を述べている。 1)に粉鉄(よい鉄)、2)に木山(薪炭材の条件)、3)元釜土(炉体用の 良い粘土)、4)に米穀下値(食料品の安いこと)、5)に船付け近 (水陸の輸送に便なこと)、6)に鉄山師の切れ者(技術者に人を得ること)、 7)に鉄山諸役人の善悪也(役人に悪がいないこと)と重要な順に述べている。 ーーーーーーーーーーーーーー 和邇部氏 志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、 ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地 東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団 でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。 また、和邇部氏も、製鉄に関係していたようである。小野神社の祭神である「 米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)タガネツキ大使主命は、元来、鍛冶師の神 であり、鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと 思われる。 「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。 「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには 餅搗の神と思われていたとされる。 和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇 大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、 和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。 中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を 利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権 での地位を高めたと思われる。 .小野神社について 祭神は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)であり、 米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、 この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。 ーーーーーーー 志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より 平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。 北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、 谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠 入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、 栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。 更に総括として、 「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。 比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則 としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も 炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり 均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも 考えられる」。 地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。 なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。 P56 小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事 全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年 であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。 だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した としても不思議ではない。 武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。 P65 国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。 そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」 とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい 等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の 比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。 しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、 湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。 「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。 鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場 まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り 崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が 必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い) 砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、 大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、 最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。 また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。 1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと 考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも ありました。 たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったから です。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めること ができます」。 ただ、これは、荒れた山野をいかに修復し、保全するといった先人の努力の結果 でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では 百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと 言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。 多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきたことにより、 この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。 ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。 比良でも多くの山間から数十条の煙がたなびき、広く伸びる 低い草木の上を琵琶湖へと流れていく光景が見られたのではないだろうか。 ーーーーーーーーーーー 古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。 鉄鉱石精練 日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法とし て大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が 行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。 滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められてい た。 滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられ るという。 伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、と しています。 1 大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む) 2 西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ?鉄鉱石を使用 3 高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ?鉄鉱石を使用 このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して 現地で製鉄して いたと考えられる。 マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある 天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し 貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族た ちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記していま す。 天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたよ うで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。 野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原 恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅 井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であった ことが知られます。 鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度で あるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の 技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金 生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。 岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀 が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊して いたという言い伝えがある。 当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。 砂鉄精練 砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄 製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂 鉄製錬と同義といってよい。 岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退してい ったとみられる。 砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂 鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。
錬鉄 七枝刀
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添付ファイル |
柔らかい個人主義から
30年前の本から思う,柔らかな個人主義の誕生
この本は、1984年に刊行され、60年代と70年代についての分析が中心であり、 著者の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に通用する内容ではあるが、 個人的には組織の中で一途に仕事に打ち込んでいた自分にとっては、これからの社会 への自分個人の関わり方の示唆として読み取ったものだ。しかし、30年ぶりに 読み返せば、あの時、これらの内容をもう少し深く実践の想いで読めば、少し違う 今の自分が存在した、かもしれない。 池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた60年代の日本社会が、 その目的を遂げた後、どのように変化していったのか。70年代に突入して増加し 始めた余暇の時間が、それまで集団の中における一定の役割によって分断されていた 個人の時間を再統一する道を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは 勤労を、という決められた役割分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて 本来の自分自身の生活を取り戻す可能性が開けたということである。 こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の結果、個人は 大衆の動向を気にかけるようになる。 以前は明確な目的を持って行動できた(と思っていたが)人間は、70年代において 行動の拠り所を失う不安を感じ始める。こうして、人は、自分の行動において他人 からの評価に沿うための一定のしなやかさを持ち、しかも自分が他人とは違った存在 だと主張するための有機的な一貫性を持つことが必要とされる。 それを「柔らかい個人主義の誕生」と考える。今読み返しても、その言葉を なぞっても、決してその古さを失っていない。 だが、 個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固執する ものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一 する能力だといえよう。皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、 まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失う ことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い 存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ個人の人生を励ましてくれる 劇的な存在ではなくなった、といふことであった。 いわば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人 (ノーボディー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、 それがひとしく尊重され、しかし、ひとなみにしか扱はれない「誰でもよい人 (エニボディー)」に変った、といへるだらう。、、、、 これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かである人(サムボディー)」 として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会がうまれつつある、 といへる。確実なことは、、、、、、ひとびとは「誰かである人」として生きる ために、広い社会のもっと多元的な場所を求め始める、ということであろう。 それは、しばしば文化サービスが商品として売買される場所でもあらうし、 また、個人が相互にサービスを提供しあう、一種のサロンやボランティア活動の 集団でもあるだらう。当然ながら、多数の人間がなま身のサービスを求めると すれば、その提供者もまた多数が必要とされることになるのであって、結局、 今後の社会にはさまざまなかたちの相互サービス、あるいは、サービスの交換 のシステムが開発されねばなるまい。 インターネットが普及し本格化したのは、2010年ごろからだ。そして、社会 の動きは彼の指摘するような形で進み、さらに深化している。今読んでも、この 指摘に全然古さのないことにただ感心するのみだ。「誰かである人 (サムボディー)」として、自己の存在を誰かに確認しようとし、その欲求を 更に高めている。さらに彼は、言う。 もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとが それにより深くかかわることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係 における表現というものの価値が見なほされる、といふことである。 すなわち、人間の自己とは与へられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に 表現されたときに初めて存在する、といふ考へ方が社会の常識となるにほかならない。 そしてまた、そういふ常識に立って、多くのひとびとが表現のための訓練を身に つければ、それはおそらく、従来の家庭や職場への帰属関係をも変化させることであら う。これで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいえば、より柔らかで、 小規模な単位からなる組織の台頭であり、いいかえれば、抽象的な組織のシステム よりも、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。 そして、将来、より多くの人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を 見ながら生き始めた時、われわれは初めて、産業化時代の社会とは歴然と違う社会 に住むことになろう。 この30数年前に語られた言葉がインターネットの深化に伴い、現在起きている ことであり、それに対する個人の生きる指標でもあるようだ。この老いた人間にも わかる。巷ではバブルの崩壊が囁かれる様になっていたし、どこかで、「己の 幸せは何」という気持が漠然と働いていたのであろう。その中で、個人の 意識変化とそれを起点とした社会の構造、意識の変化が如実になっても来ていた。 この本では、消費の視点を重視し、その変化を見ているが、結果的には社会構造 そのものの変化を指摘した。眼前の忙しさにかまけている中にも、世の中の変化 は多方面で迫ってきていた。週休一日が半ドンを入れての週休二日になり、働く 事への後ろめたさが漂いはじめていた。そして60歳定年制が同じ頃話題となった。 社会とは不思議なものだ。この60歳定年が、私が55歳になる頃また55歳へ と戻ってくるのだ。12年ほど前の年寄り不要論に振り回されて会社の中で右往 左往する自分たちの姿を思い出すにつけ、苦い思い出が走馬灯のように私を 駆け巡る。 さらには、派遣の女性社員が私の周りにも増えてきた。彼女らの不満 や相談に乗る時間も増えてきた。我々の時代、終身雇用が当たり前だと思って いたが、それが砂浜が侵食されるように徐々にその姿が変わってきた。 派遣社員の増加となり、職場の雰囲気も変わってきた。ワーキングプア、この 存在し得なかった言葉が当たり前の時代になっている現実は夢の世界なので あろうか。働く事でその成果が年々見えていた時代、今思えば、なんと幸せな 時代を過ごせたのであろうか、これは老人の郷愁なのだろうか。 だが、「誰かである人(サムボディー)」として個の主張はより広く表現できる ようにはなったが、何故か、個の存在がだんだん薄くなっている、そんな気持ち が次第に強くなっている。
ーーーーーーー
柔らかい個人主義データ
・1970年代は時代を飾るはなばなしい標語もなく、時代全体の記念碑となるやうな祝祭
もなく終始する10年となった。たしかに、新しい十年を予告する標語として「猛烈から
ビューティフルへ」といふ流行語が聞かれたことはあったが、この感覚的なスローガン
はかへって時代のつかみにくさを物語ってゐた、といへる。
・さうした複雑な変化のなかで、いま振り返ってもっともわかりやすいのは、たぶん、
国民の意識に落す国家のイメージの縮小、といふことであらう。現実の政治制度として
の国家は、もちろん、今日もその役割をいささかも失ってはゐないが、個人にとってそ
れが存在するといふ感触の強さは、70年代を通じて急速に減少し始めたといへる。
・皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代
にはいると国家として華麗に動く余地を失ふことになった。そして、そのことの最大の
意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個
人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、といふことであった。
・労働省の「労働時間制度調査結果概要」によれば、1970年に、集久一に知性の職場が
全体の71.4パーセントを占めていたのにたいし、十年後の1980年には、それが23.7パー
セントに激減している。
・いはば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディ
ー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重
され、しかし、ひとしなみにしか扱はれない「誰でもよい人(エニボディー)」に変っ
た、といへるだらう。(中略)これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かであ
る人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会
がうまれつつある、といへる。
・確実なことは(中略)ひとびとは「誰かである人」として生きるために、広い社会の
もっと多元的な場所を求め始める、といふことであらう。それは、しばしば文化サーヴ
ィスが商品として売買される場所でもあらうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供
しあふ、一種のサロンやヴォランティア活動の集団でもあるだらう。当然ながら、多数
の人間がなま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必要とされる
ことになるのであって、結局、今後の社会にはさまざまなかたちの相互サーヴィス、あ
るいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。
・もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとがそれに
より深くかかはることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係における表
現といふものの価値が見なほされる、といふことである。すなはち、人間の自己とは与
へられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に表現されたときに初めて存在す
る、といふ考へ方が社会の常識となるにほかならない。そしてまた、さういふ常識に立
って、多くのひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従来の家
庭や職場への帰属関係をも変化させることであらう。
・だが、これよりももっと大きな変化は、豊かな社会の実現が人間の基礎的な欲望を満
足させるとともに、結果として、消費者自身にも自分が何かを求めながら、正確には何
を欲しているかわからない、といふ心理状況をつくりだしたことであらう。
・ここれで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、より柔らかで、小
規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも
、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多く
の人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われ
われは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。
・カルヴィニストにとって、信仰のもっとも重要な中心はこの「合理的なシステム」で
あって、それに完全に身を委ね、いはば神の機械の部分品になりきることが、宗教的な
つつしみの表現だったといへる。そして、その「合理的なシステム」の具体的な現われ
が、ほかならぬ人間の職業の組織であり、したがって、真の信仰はそれぞれの職業に献
身することにある、といふことになる。そのさい、神の富を増やすことは美徳であるか
ら、蓄財そのものはもちろん許されることにあんり、ただそれを快楽のために消費する
ことだけが罪悪視された。
・17世紀のプロテスタントが行ったことは一種の逆説であり、神を極端にまで絶対化す
ることによって、逆に世俗の活動を正当化するといふ手品であった。
・けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固
執するものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一
する能力だといへよう。
は、まさにいま訪れている段階だと思います。これを30年前に書くとは、すごい人って
いるんですねぇ…。 いやはや、見事な予言書ですね。「より柔らかで、小規模な単位
からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも、個人の顔
の見える人間関係が重視される社会」というのは、まさにいま訪れている段階だと思い
ます。これを30年前に書くとは、すごい人っているんですねぇ…。
来年で80歳になる方ですが、まだ作品は書き続けておられます。色々読みあさってみよ
うと思います。
第二章「顔の見える大衆社会」の予兆
ここではこの時代が示す特色の社会学的な意味づけをしているそうだ。
ざっくり言うと産業化社会から情報化社会への変遷。
この時代を表すキャッチが
「モーレツからビューティフルへ」だそうだ。
量的拡大からゆとりへ。
十数年前に聞いたような話だ。
一言で情報化と言っても、
人間があつかう情報には
「プログラム的な情報」と「非プログラム的な情報」があり、
60年代から70年代は前者から後者へ比重が変化したと言える。
前者は明確な目的遂行のための手段と方法を効率化したもの。
言い換えれば、一つの商品製造のための効率的な方法。
それに対し、
後者は明確な目的がなく目的自体を求めるもの。
商品作りの方法ではなく、時代と人が求める物を探り出す。
これを「情報」という単語で表すのはどうかと思うが。
日本が得意としていた物創りでも、
こんな意識転換が図られた時代。
この変化によって人間の相互関係にも変質がきたされる。
それが、新しい個人主義だという。
余談だが、
産業化社会を創ったのは禁欲的なプロテスタントだという
ウェーバーの
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は興味深い。
二章の「時代が示す特色」の
美学的な説明にあててるそうである。
あとがきでは
「社交が成立する必然性を消費の本質から説明する」
と要約されてる。
この要約を詳細に正確に知りたいなら、
本著を読むことをオススメする。
第二章までで
産業社会から消費社会に移行した経緯が
つらつらと述べられており、
第三章では、
その消費社会の中で人びとが形成した自我について興味深い記述がある。
「他人をうちに含んだ自我」
「自我の成立そのものが他人の存在を必要とする」(以上158頁抜粋)
言われてみればその通りで、
自我を自覚するためには
自分以外の他人が必要。
この自我は
物質的欲望と精神的欲望の拮抗で成立する。
簡単に言うと、
自分の好きな物を持っているだけでは、
人は完全には満たされない。
自分が持っている物が如何に素晴らしいか、
同じ価値観を共有する他人に、
自分が所有する物の価値を認めさせ、
さらにそれを所有する自分を認めさせる。
所有という急ぎの欲望の次に、
その満足を確認という作業で引き延ばす欲望を満たす。
そこまでしてようやく、自我確立だそうだ。
(以外抜粋)
個々の人間が
欲望の十分な満足を味はふとき、
彼はつねに自分の内部に
ひとりの「他人」を生み出し、
その目に眺められることによって
満足を確実なものにしてゐる、
と説明することができる。
いふまでもなく、
この「他人」は
われわれの自我の一部なのであって、
当然、それは
威圧したり競争する相手ではなく、
われわれが
全面的な信頼を寄せることのできる相手である。
(以上159~160頁)
ここ、興味深い。
自分で自分を認めてこそ、
自我の確立と言ってる。
つまり、
他者と比較して満足を得ているうちは、
本当の自我は確立してないってことか。
しかも、
自分で自分を認める作業は
孤独で不安な作業だから、
消費することで成り立つ自我には、
どうしても自分の外に他人が必要だ。
消費社会とは、
他人ともたれ合う必要のある社会
なのかもしれない。
それが「消費の社交性」なのか。
だから人は酒宴や喫茶などの、
共同の場で物を消費することを好む。
「共同作業による生産とは違って、
共同の消費には
なんらの合理的な利点もないばかりか、
むしろ、
純粋な物質的快楽を味はふうへでは
妨げとなる」(161頁)
この奇妙な行動は、
消費行動を一定のリズムに保つためらしい。
人はこうでもしないと
自分でリズムを保つことが出来ないのか、
それとも、
これが社会に必要なのか。
必要なのだとすれば、
それは定期的に消費をさせるためのリズムか。
世界はたくさんの波紋に満ちており、
その波の余波をくらって動いてる。
消費のためのリズムの波は、
何が何のために起こしているのか。
消費する上では、
考えておくといいかもしれない。
「不安の徴候としての自己顕示欲」
(以外抜粋)
自我の内部の「他人」は、じつは
自分自身を十分に知らない存在なのであり、
消費をどのように楽しみ、
どの程度に楽しめばよいかについて、
ひとりでは確信を持ちえない存在だといへよう。
この点でも、
人間の自我についての西洋的な通年は不正確なのであって、
少なくとも欲望の満足にかかはるかぎり、
自我は最初から他人と共存し、
その賛同を得てはじめて
自分自身を知りうる存在だ、
と見るべきであらう。
(162頁抜粋)
この後、
「大衆の変質」「硬い自我の個人主義」
「柔らかい自我の個人主義」と続き、
「『無常』の時代の消費」で終わる。
産業社会から消費社会への変質に伴い、
均質的であった大衆が消費という個を求めてそれを失い、
それに反する個人主義の孤立するエリート精神も揺らぐ時代を迎えた。
それは変化する自己の不安を生み、
新しい自我の意味を捉え直す必要に迫られた。
でも、
その自我が何を求めているのか分からなかった。
山崎氏はもちろん書いてないが、
分からないまま、あの95年を迎え、
日本は大きな震災をいくつか経験し、
物と消費、そして情報と消費について、
考え直す機会を何度も与えられて
今にいたっていると私は考える。
では、どういう変化が望ましいか。
1984年の山崎氏は、
「まだかつてのサロンのような社交の場を持たず」
「個人が一つの安定した行動の作法を作るには、
あまりにも激しい風俗の変化の波に洗はれてゐる。」
と書いた。
2013年の今はどうだろう。
サロンかどうかは知らないが社交の場は存在し、
その中で新しい文化が生まれてる。
そして、
社会の状況がどうであれ、
自分の信念の元に行動する個人も存在する。
いやいや。
これは今に限ったことではない。
そんな集団・個人はずっと存在していたんだ。
ただ、
それを大衆というその他大勢が
視界に入れていたかどうかということ。
すごく勉強になったこの本。
結局、
いつの時代も人間は変わらないんだな。
1984年に刊行された本書であり、60年代と70年代についての分析が中心であるが、著者
の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に通用する内容が多々ある。池田内閣の所
得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた60年代の日本社会が、その目的を遂げた
後、どのように変化していったのか。70年代に突入して増加し始めた余暇の時間が、そ
れまで集団の中における一定の役割によって分断されていた個人の時間を再統一する道
を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは勤労を、という決められた役割
分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて本来の自分自身の生活を取り戻す可能
性が開けたということである。著者も引用している森鴎外の言葉が印象的だった。
一体日本人は生きるといふことを知つてゐるだらうか。小学校の門を潜つてからといふ
ものは、一しょう懸命に此学校時代を駆け抜けようとする。その先きには生活があると
思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を成し遂げてしま
はうとする。その先きには生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないの
である。(『青年』)
また、60年代以降に生じてきた、商品のデザインに対する関心の急速な高まりは、購買
における物質的な欲望よりも、精神的な欲望を消費者に引き起こした。例えば、肌を覆
うためのTシャツ買い物をするとき、Tシャツの素材の価値は百円程度であるが、そのデ
ザインに消費者は何千円ものお金を投じる。このデザインに対する精神的欲望が欲する
モノは、「何か美しいもの」という漠然としたイメージでしかなく、それがどんな色と
形からなっているかを明言することはできない。したがって、現代の購買行動は、「商
品との対話を通じた一種の自己探求の行動に変った」と筆者は主張するのである。つま
り、自分の美しいという基準を充たす商品を目の前にして初めて私達の精神的欲望が欲
するモノが具体化されるため、購買活動の中で多種多様な商品を通じて自分自身の欲望
を精査するしかない。この購買活動の変化は、欲求の自由を個人に与える一方で、その
方向と適切さに対する自信を失わせることになる。
そして、著者の優れた分析眼の最たるものに、「消費」という言葉の定義がある。一般
に認識されている「消費」の意味とは、「生産」の対極にあり、物質の価値を消耗させ
ていく行為という程度ではないだろうか。しかしながら、ものの消耗として理解するか
ぎりにおいて、「消費」と「生産」が本質的に同義であると著者は説く。つまり、「消
費」するという行為は、同時に何かを「生産」している。食物を消費して明日の労働力
を、紙を消費して普遍なる知識を、森林を消費して電力や住居を、といった具合に、「
消費」は同時に物質的・非物質的なモノを生産する。こうした「消費」と「生産」の関
係性に加えて、「消費」という行為が、物質的欲望を最大効率的に満たそうとするので
はなく、物質的欲望を直接に満たすこと自体を引き伸ばしているという事実を挙げる。
例えば、食事においても、人は一片の牛肉を食すにあたって、目の前の牛肉にすぐさま
かぶりつくのではなく、時間をかけて調理し、綺麗な器に飾り付け、厳かな手つきで口
に運ぶ。こうした時間を消費する過程は、食欲を純粋に満たす上で非効率であるのは明
らかだ。以上の事実から、著者は、「消費」を「ものの消耗と再生をその仮りの目的と
しながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動だ」と定義し、「生
産」を「過程よりは目的実現を重視し、時間の消耗を節約して、最大限のものの消耗と
再生をめざす行動」と定義するのである。そして、この「充実した時間の消耗」という
モノの消耗における非効率性は、70年代以降の社会に見られる購買活動において、物質
的な価値よりもデザインに大金をはたくという非効率性に通じるのである。
こうした余暇の増加、購買の欲望の自由化とモノの消耗の非効率化の結果、個人は大衆
の動向を気にかけるようになる。以前は明確な目的を持って行動できた人間は、70年代
において行動の拠り所を失う不安に耐え切れず、周囲の目を気にし出すのである。こう
して、人は、自分の行動において他人からの評価に沿うための一定のしなやかさを持ち
、しかし、同時に自分自身を他人とは違った存在だと主張するための有機的な一貫性を
守ることが要求される。それが「柔らかい個人主義の誕生」なのである
もなく終始する10年となった。たしかに、新しい十年を予告する標語として「猛烈から
ビューティフルへ」といふ流行語が聞かれたことはあったが、この感覚的なスローガン
はかへって時代のつかみにくさを物語ってゐた、といへる。
・さうした複雑な変化のなかで、いま振り返ってもっともわかりやすいのは、たぶん、
国民の意識に落す国家のイメージの縮小、といふことであらう。現実の政治制度として
の国家は、もちろん、今日もその役割をいささかも失ってはゐないが、個人にとってそ
れが存在するといふ感触の強さは、70年代を通じて急速に減少し始めたといへる。
・皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代
にはいると国家として華麗に動く余地を失ふことになった。そして、そのことの最大の
意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個
人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、といふことであった。
・労働省の「労働時間制度調査結果概要」によれば、1970年に、集久一に知性の職場が
全体の71.4パーセントを占めていたのにたいし、十年後の1980年には、それが23.7パー
セントに激減している。
・いはば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディ
ー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重
され、しかし、ひとしなみにしか扱はれない「誰でもよい人(エニボディー)」に変っ
た、といへるだらう。(中略)これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かであ
る人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会
がうまれつつある、といへる。
・確実なことは(中略)ひとびとは「誰かである人」として生きるために、広い社会の
もっと多元的な場所を求め始める、といふことであらう。それは、しばしば文化サーヴ
ィスが商品として売買される場所でもあらうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供
しあふ、一種のサロンやヴォランティア活動の集団でもあるだらう。当然ながら、多数
の人間がなま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必要とされる
ことになるのであって、結局、今後の社会にはさまざまなかたちの相互サーヴィス、あ
るいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。
・もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとがそれに
より深くかかはることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係における表
現といふものの価値が見なほされる、といふことである。すなはち、人間の自己とは与
へられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に表現されたときに初めて存在す
る、といふ考へ方が社会の常識となるにほかならない。そしてまた、さういふ常識に立
って、多くのひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従来の家
庭や職場への帰属関係をも変化させることであらう。
・だが、これよりももっと大きな変化は、豊かな社会の実現が人間の基礎的な欲望を満
足させるとともに、結果として、消費者自身にも自分が何かを求めながら、正確には何
を欲しているかわからない、といふ心理状況をつくりだしたことであらう。
・ここれで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、より柔らかで、小
規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも
、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多く
の人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われ
われは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。
・カルヴィニストにとって、信仰のもっとも重要な中心はこの「合理的なシステム」で
あって、それに完全に身を委ね、いはば神の機械の部分品になりきることが、宗教的な
つつしみの表現だったといへる。そして、その「合理的なシステム」の具体的な現われ
が、ほかならぬ人間の職業の組織であり、したがって、真の信仰はそれぞれの職業に献
身することにある、といふことになる。そのさい、神の富を増やすことは美徳であるか
ら、蓄財そのものはもちろん許されることにあんり、ただそれを快楽のために消費する
ことだけが罪悪視された。
・17世紀のプロテスタントが行ったことは一種の逆説であり、神を極端にまで絶対化す
ることによって、逆に世俗の活動を正当化するといふ手品であった。
・けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固
執するものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一
する能力だといへよう。
は、まさにいま訪れている段階だと思います。これを30年前に書くとは、すごい人って
いるんですねぇ…。 いやはや、見事な予言書ですね。「より柔らかで、小規模な単位
からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも、個人の顔
の見える人間関係が重視される社会」というのは、まさにいま訪れている段階だと思い
ます。これを30年前に書くとは、すごい人っているんですねぇ…。
来年で80歳になる方ですが、まだ作品は書き続けておられます。色々読みあさってみよ
うと思います。
第二章「顔の見える大衆社会」の予兆
ここではこの時代が示す特色の社会学的な意味づけをしているそうだ。
ざっくり言うと産業化社会から情報化社会への変遷。
この時代を表すキャッチが
「モーレツからビューティフルへ」だそうだ。
量的拡大からゆとりへ。
十数年前に聞いたような話だ。
一言で情報化と言っても、
人間があつかう情報には
「プログラム的な情報」と「非プログラム的な情報」があり、
60年代から70年代は前者から後者へ比重が変化したと言える。
前者は明確な目的遂行のための手段と方法を効率化したもの。
言い換えれば、一つの商品製造のための効率的な方法。
それに対し、
後者は明確な目的がなく目的自体を求めるもの。
商品作りの方法ではなく、時代と人が求める物を探り出す。
これを「情報」という単語で表すのはどうかと思うが。
日本が得意としていた物創りでも、
こんな意識転換が図られた時代。
この変化によって人間の相互関係にも変質がきたされる。
それが、新しい個人主義だという。
余談だが、
産業化社会を創ったのは禁欲的なプロテスタントだという
ウェーバーの
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は興味深い。
二章の「時代が示す特色」の
美学的な説明にあててるそうである。
あとがきでは
「社交が成立する必然性を消費の本質から説明する」
と要約されてる。
この要約を詳細に正確に知りたいなら、
本著を読むことをオススメする。
第二章までで
産業社会から消費社会に移行した経緯が
つらつらと述べられており、
第三章では、
その消費社会の中で人びとが形成した自我について興味深い記述がある。
「他人をうちに含んだ自我」
「自我の成立そのものが他人の存在を必要とする」(以上158頁抜粋)
言われてみればその通りで、
自我を自覚するためには
自分以外の他人が必要。
この自我は
物質的欲望と精神的欲望の拮抗で成立する。
簡単に言うと、
自分の好きな物を持っているだけでは、
人は完全には満たされない。
自分が持っている物が如何に素晴らしいか、
同じ価値観を共有する他人に、
自分が所有する物の価値を認めさせ、
さらにそれを所有する自分を認めさせる。
所有という急ぎの欲望の次に、
その満足を確認という作業で引き延ばす欲望を満たす。
そこまでしてようやく、自我確立だそうだ。
(以外抜粋)
個々の人間が
欲望の十分な満足を味はふとき、
彼はつねに自分の内部に
ひとりの「他人」を生み出し、
その目に眺められることによって
満足を確実なものにしてゐる、
と説明することができる。
いふまでもなく、
この「他人」は
われわれの自我の一部なのであって、
当然、それは
威圧したり競争する相手ではなく、
われわれが
全面的な信頼を寄せることのできる相手である。
(以上159~160頁)
ここ、興味深い。
自分で自分を認めてこそ、
自我の確立と言ってる。
つまり、
他者と比較して満足を得ているうちは、
本当の自我は確立してないってことか。
しかも、
自分で自分を認める作業は
孤独で不安な作業だから、
消費することで成り立つ自我には、
どうしても自分の外に他人が必要だ。
消費社会とは、
他人ともたれ合う必要のある社会
なのかもしれない。
それが「消費の社交性」なのか。
だから人は酒宴や喫茶などの、
共同の場で物を消費することを好む。
「共同作業による生産とは違って、
共同の消費には
なんらの合理的な利点もないばかりか、
むしろ、
純粋な物質的快楽を味はふうへでは
妨げとなる」(161頁)
この奇妙な行動は、
消費行動を一定のリズムに保つためらしい。
人はこうでもしないと
自分でリズムを保つことが出来ないのか、
それとも、
これが社会に必要なのか。
必要なのだとすれば、
それは定期的に消費をさせるためのリズムか。
世界はたくさんの波紋に満ちており、
その波の余波をくらって動いてる。
消費のためのリズムの波は、
何が何のために起こしているのか。
消費する上では、
考えておくといいかもしれない。
「不安の徴候としての自己顕示欲」
(以外抜粋)
自我の内部の「他人」は、じつは
自分自身を十分に知らない存在なのであり、
消費をどのように楽しみ、
どの程度に楽しめばよいかについて、
ひとりでは確信を持ちえない存在だといへよう。
この点でも、
人間の自我についての西洋的な通年は不正確なのであって、
少なくとも欲望の満足にかかはるかぎり、
自我は最初から他人と共存し、
その賛同を得てはじめて
自分自身を知りうる存在だ、
と見るべきであらう。
(162頁抜粋)
この後、
「大衆の変質」「硬い自我の個人主義」
「柔らかい自我の個人主義」と続き、
「『無常』の時代の消費」で終わる。
産業社会から消費社会への変質に伴い、
均質的であった大衆が消費という個を求めてそれを失い、
それに反する個人主義の孤立するエリート精神も揺らぐ時代を迎えた。
それは変化する自己の不安を生み、
新しい自我の意味を捉え直す必要に迫られた。
でも、
その自我が何を求めているのか分からなかった。
山崎氏はもちろん書いてないが、
分からないまま、あの95年を迎え、
日本は大きな震災をいくつか経験し、
物と消費、そして情報と消費について、
考え直す機会を何度も与えられて
今にいたっていると私は考える。
では、どういう変化が望ましいか。
1984年の山崎氏は、
「まだかつてのサロンのような社交の場を持たず」
「個人が一つの安定した行動の作法を作るには、
あまりにも激しい風俗の変化の波に洗はれてゐる。」
と書いた。
2013年の今はどうだろう。
サロンかどうかは知らないが社交の場は存在し、
その中で新しい文化が生まれてる。
そして、
社会の状況がどうであれ、
自分の信念の元に行動する個人も存在する。
いやいや。
これは今に限ったことではない。
そんな集団・個人はずっと存在していたんだ。
ただ、
それを大衆というその他大勢が
視界に入れていたかどうかということ。
すごく勉強になったこの本。
結局、
いつの時代も人間は変わらないんだな。
1984年に刊行された本書であり、60年代と70年代についての分析が中心であるが、著者
の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に通用する内容が多々ある。池田内閣の所
得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた60年代の日本社会が、その目的を遂げた
後、どのように変化していったのか。70年代に突入して増加し始めた余暇の時間が、そ
れまで集団の中における一定の役割によって分断されていた個人の時間を再統一する道
を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは勤労を、という決められた役割
分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて本来の自分自身の生活を取り戻す可能
性が開けたということである。著者も引用している森鴎外の言葉が印象的だった。
一体日本人は生きるといふことを知つてゐるだらうか。小学校の門を潜つてからといふ
ものは、一しょう懸命に此学校時代を駆け抜けようとする。その先きには生活があると
思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を成し遂げてしま
はうとする。その先きには生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないの
である。(『青年』)
また、60年代以降に生じてきた、商品のデザインに対する関心の急速な高まりは、購買
における物質的な欲望よりも、精神的な欲望を消費者に引き起こした。例えば、肌を覆
うためのTシャツ買い物をするとき、Tシャツの素材の価値は百円程度であるが、そのデ
ザインに消費者は何千円ものお金を投じる。このデザインに対する精神的欲望が欲する
モノは、「何か美しいもの」という漠然としたイメージでしかなく、それがどんな色と
形からなっているかを明言することはできない。したがって、現代の購買行動は、「商
品との対話を通じた一種の自己探求の行動に変った」と筆者は主張するのである。つま
り、自分の美しいという基準を充たす商品を目の前にして初めて私達の精神的欲望が欲
するモノが具体化されるため、購買活動の中で多種多様な商品を通じて自分自身の欲望
を精査するしかない。この購買活動の変化は、欲求の自由を個人に与える一方で、その
方向と適切さに対する自信を失わせることになる。
そして、著者の優れた分析眼の最たるものに、「消費」という言葉の定義がある。一般
に認識されている「消費」の意味とは、「生産」の対極にあり、物質の価値を消耗させ
ていく行為という程度ではないだろうか。しかしながら、ものの消耗として理解するか
ぎりにおいて、「消費」と「生産」が本質的に同義であると著者は説く。つまり、「消
費」するという行為は、同時に何かを「生産」している。食物を消費して明日の労働力
を、紙を消費して普遍なる知識を、森林を消費して電力や住居を、といった具合に、「
消費」は同時に物質的・非物質的なモノを生産する。こうした「消費」と「生産」の関
係性に加えて、「消費」という行為が、物質的欲望を最大効率的に満たそうとするので
はなく、物質的欲望を直接に満たすこと自体を引き伸ばしているという事実を挙げる。
例えば、食事においても、人は一片の牛肉を食すにあたって、目の前の牛肉にすぐさま
かぶりつくのではなく、時間をかけて調理し、綺麗な器に飾り付け、厳かな手つきで口
に運ぶ。こうした時間を消費する過程は、食欲を純粋に満たす上で非効率であるのは明
らかだ。以上の事実から、著者は、「消費」を「ものの消耗と再生をその仮りの目的と
しながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動だ」と定義し、「生
産」を「過程よりは目的実現を重視し、時間の消耗を節約して、最大限のものの消耗と
再生をめざす行動」と定義するのである。そして、この「充実した時間の消耗」という
モノの消耗における非効率性は、70年代以降の社会に見られる購買活動において、物質
的な価値よりもデザインに大金をはたくという非効率性に通じるのである。
こうした余暇の増加、購買の欲望の自由化とモノの消耗の非効率化の結果、個人は大衆
の動向を気にかけるようになる。以前は明確な目的を持って行動できた人間は、70年代
において行動の拠り所を失う不安に耐え切れず、周囲の目を気にし出すのである。こう
して、人は、自分の行動において他人からの評価に沿うための一定のしなやかさを持ち
、しかし、同時に自分自身を他人とは違った存在だと主張するための有機的な一貫性を
守ることが要求される。それが「柔らかい個人主義の誕生」なのである
2016年5月18日水曜日
志賀、湖西の古代の鉄生産(ブログ)
自身の住む土地が世の中の何かに貢献していたと思うのは、何事に 寄らず、嬉しいことだ。その点で、製鉄の持つ歴史的な意義も含めてその 残り香に逢うことは、1千年前への想いを高める。 1.志賀町製鉄関連遺跡 遺跡詳細分布調査報告書(1997)より 平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。 北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、 谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠 入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、 栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。 更に総括として、 「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。 比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則 としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も 炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり 均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも 考えられる」。 今でも、このいくつかの遺構では、赤さびた鉄滓が探し出すことが出来る。 僅か流れでも1千年以上前の残り香を嗅げる。 なお、小野氏が関係するたたら遺跡については、以下のような記述がある。 小野石根が近江介(その職務は国守を補佐して、行政、司法、軍事などの諸事 全般を統括する立場)にあった時期は、神護景雲3年(769)のわずか1年 であるが、この期間に本町域で石根が活動した史料は残っていない。 だが、氏神社のある小野村や和邇村を受領として現地を支配に自己の裁量を ふるい、タタラ谷遺跡や2,3の製鉄炉が同時に操業し、鉄生産を主導した としても不思議ではない。 さらに、 武器生産の必要性、滋賀軍団の成り立ちから湖西での製鉄の必要性の記述もある。 国府城の調査から、大規模な鉄器生産工房の存続が認められる。 そして、武器の生産、修繕に必要な原料鉄は、「調度には当国の官物を用いよ」 とあることや多量の一酸化炭素を放出する製鉄操業のの場を国府近くに置きにくい 等を勘案すると、国府から直線距離で20キロ離れている本町域、即ち滋賀郡北部の 比良山麓製鉄群で生産されたケラや銑鉄が使われていたとしても不思議ではない。 これに関しては、志賀町史でも指摘がある。 古代の湖西の地方には、2つの特徴がある。 交通の要所であることと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト政権や ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことに関係する。、、、 古代近江は鉄を生産する国である。 湖西や湖北が特に深くかかわっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的 地方支配の拠点が置かれていたことにより、七世紀末以後には大津市や草津市 等の湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから湖北、湖西では 鉄生産がおこなわれていた。技術が飛躍的に向上するのは五世紀後半であろう。 それを説明するには、この時期の日本史の全体の流れをみわたさなければならない。 鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。 それだけではなく、稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していた ばかりか、威光と信望とを現す力をもつものとされていた。権力の世界でも 生産の次元でも、すでに四世紀代に鉄の需要は高かった。当時の製鉄方法の 詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くからおこなわれていた。 しかし、ヤマト政権にかかわる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が朝鮮半島 洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入されてた慶尚道の鉄延であったと みられる。三世紀なかばのことを書いた魏志東夷伝に、慶尚道地方の「国は 鉄を出す。韓、わい、倭皆従いてこれを取る」とある。ところが、五世紀の 初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、軍隊を朝鮮半島の南部まで駐屯 させ、金海の鉄市場まで介入したことから、鉄の輸入が難しくなった。五世紀 なかごろにヤマト政権に結びつく西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動する のは、鉄の本格的な国産化を必要とする時代となっていたことを示す、という。 2.古代の豪族たち、和邇部氏と小野氏 農耕経済を中心とする弥生文化が急速な発展をとげ、全国的に鉄器が行き渡る ようになると、農産物の生産量が増大して経済力が強まり、民衆と司祭者、 つまり首長との生活水準の隔たりが大きくなる。各地に豪族が発生し、それらの 統一に向かって原始的な国家の形態へと発展していく。 それがヤマト政権として更なる発展拡大していった。 鉄器は県、矛、鏃などの武具として生産される一方、農耕具として発達し、 農作物の大幅な増大に寄与していって。日本書記にも、依網よきみの池、反折さかおり の池などの用水掘りの構築が進んだと記述されている。多くの古墳にも、鉄器の 副葬品が増えてくる。 鉄が武器となり、農耕具としてその活用が高まるのは、それなりの集団が形成 されているからである。この周辺では、和邇部氏と小野氏を考えておく必要がある。 1)和邇部氏 志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、 ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地 東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団 でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。 和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇 大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、 和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。 中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を 利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権 での地位を高めたと思われる。 以下の記述は、和邇部氏が鉄素材を運んだルートの想定としても面白い。 和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。 そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、 椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。 それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。 琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。 椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門か または服属する族長と思われる。 そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。 2)小野神社 和邇部氏も、製鉄に関係していたようであるが、小野氏の小野神社の祭神で ある「米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ)は、元来、鍛冶師の神であり、 鉄素材(タガネ)を小割にして、和邇部氏の後、和邇臣配下の鍛冶師に供給していと 思われる。「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。 「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには 餅搗の神と思われていたとされる。 米餅搗大使主命(たかねつきここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、 この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれない。 火が信仰の対象となったり、古事記や日本書紀にあるように剣がその伝説と なったり、代表的な金屋子信仰にあるように鉄に対する信仰はあったはずであり、 この地では、小野神社がそれの役割となった気もする。 3)日本の神話の中には、製鉄についての事跡が、しばしば伝えられている。 古事記によれば、天照大神が天岩屋戸にこもられたとき、思金神の発案で、 「天金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求め来て、伊斯許理度売命いしこり どめのみことに科せて、鏡を作らしめ」ており、同じようなことが「日本 書記ではもう少しくわしく「石凝姥をもって治工となし天香山の金を採りて 日矛を作らしめ、また真名鹿の皮を全剥にはぎて、天羽ぶきに作る。これを 用いて作り奉れる神は、是即ち紀伊国に座す日前神なり」とあって、技術的に かなり具体的になっている。 この天羽ぶきの記載からすると弥生期の製鉄はすでに吹子を使用するほどに 進歩し、粗末な溶解炉もあったと想像できる。 弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山間の沢のような場所で自然通風に依存 して天候の良い日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やし続け、ごく 粗雑な鉧塊を造っていた。そしてこれをふたたび火中にいれて赤め、打ったり、 叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのだろう。 日本書紀の中には、鹿の一枚皮でふいごを造り使用したことをあたかも見ていた かのように述べてもいる。 この比良山系にも、何条もの煙が山間より立ち上り、琵琶湖や比良の高嶺に 立ち昇っていたのであろう。 3.古代近江の鉄生産 古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。 日本における精練・製鉄の始りは 5世紀後半ないしは6世紀初頭 鉄鉱石精練法 として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が 日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製鉄遺跡と言われている。 滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が 始められていた。滋賀県埋蔵文化財センターでは、7世紀から9世紀の滋賀県 製鉄遺跡が3地域に分けられるという。 伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、 としている。 ①大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む) ②西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓の鉄鉱石を使用 ③高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓の鉄鉱石を使用 このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を 使用して現地で製鉄して いたと考えられる。 マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある 天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を 専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる」の文があり、近江国で有力な 官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山を めぐる争いを記している。 天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占して いたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っている。 野坂山地の磁鉄鉱は、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、 「大師藤原恵美朝臣押勝に、近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との 記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも 高品質の鉄鉱石であったことが知られている。 鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度 であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定 は至難の技だった)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者 の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒した といわれている。岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法 で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。 しかし、この隆盛も、鉄原料の不足からだろうか、備前、備中などの砂鉄を基本 とする製鉄勢力に奪われて行ったのだろうか。 砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀 には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国 近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。 岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退 していったとみられる。 砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と 良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。 しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、 湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。 「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。 鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場 まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り 崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が 必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い) 砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、 大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、 最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。 また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。 1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと 考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でも ありました。たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を 満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、 たたら製鉄の面影を認めることができます」。 ただ、現在の棚田や山林の景観は、荒れた山野をいかに修復し、保全すると いった先人の努力の結果でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、 雨量の少ない地域では百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。 さほど雨量が多いと言えない湖西では、仏閣建設の盛んだったころ、その伐採を 禁じた文書もあるくらいであるから、近世までこのような製鉄事業ができたか、 は疑問だ。多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきた こともあり、この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。 ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。
2016年5月15日日曜日
和邇氏と鉄生産メモ
【鉄を制するものが天下を制す】
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い。
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。
五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。
須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。
出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。
大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
★日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのは
(日立金属HPより)
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
★6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
(日立金属HPより)
『古事記』によれば、
応神天皇の御代に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝した」とあり、
また、敏達天皇12年(583年)「新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けた」と記されている。
その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。
ブログ☞古代日本の渡来人
5世紀以降、九州地方では見られなかった横穴式石室が出現、そこから騎馬用馬具が出土している。これらは伽耶移住民の大量進出による。
6~7世紀は韓人が中心で、背景には加耶諸国(562年)、百済(660年)・高句麗(668年)それぞれの滅亡がありました。
鉄の覇権をめぐって朝鮮 諸国との連携や大量の渡来人の流入が生じる中、鉄の覇 権を握った大和が次第に日本諸国を統合して日本骨格を作っていく。大和は同時に渡来人の技 術をいち早く吸収し、鉄の自給についても、早くから大規模精錬を開始し、この鉄の力をもって諸国を 統一し、7 世紀初頭には律令国家を作り上げ、飛鳥・奈良時代を作ってゆく。大和朝廷の勢力の源泉と なったのが、朝鮮からの鉄の移入と同時に吉備国の鉄とこの近江国での鉄自給と考えられている。
【和邇氏と息長氏】
近江は和邇氏の本貫地でもあり息長氏の本貫地でもある。
和邇氏・息長氏は、諸氏族のなかでも際立った性格をもつという。
和邇氏・息長氏は、格段の多さで「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」である。(雄略~敏達)
▶初期ヤマト政権の和邇氏・息長氏
ブログ☞「初期ヤマト政権~山辺の道~」で書きましたように、和爾氏の氏神「和爾下神社」の社殿は和爾下神社古墳と呼ばれる前方後円墳の後円部上に建っている。
和邇氏は早く奈良市の東南端の和邇下神社から春日大社へといたる間に居地をもち、
息長氏は、平城京の北西部に居地をえている。
三輪山裾の出雲氏・尾張氏・吉備氏等と同様、弥生時代に倭国の王都近くへその集落を移し、国政に参与した。おそらく弥生文化の母胎となる初期漢・韓人の渡来時、一斉に各地に配置された枢要の人々がその地域を代表する形で大和の地に拠地をえている。
▶河内政権の和邇氏・息長氏
ブログ☞「飛鳥時代~「河内飛鳥」~」で書いた、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古市古墳群は、(4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。)和邇氏・息長氏に出自する皇后をもち、この地域が和邇氏・息長氏の河内での氏地であることから皇妃・皇子・皇女墓を含めて、この地を「奥津城」としている。
◉息長氏
近江水系を支配した息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。
天武天皇の八色姓においては応神天皇系の真人であり、重要な氏族。真人は、八色の姓の最高位の姓で基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられたと言われているが実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えた。
息長氏と継体天皇
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
応神天皇系 息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系 三国真人・酒人真人
宣化天皇系 多治比真人・為名真人
敏達天皇系 大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系 当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系 三嶋真人
天智天皇系 淡海真人
天武天皇系 高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上真人
『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏
という事は、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていた。
応神天皇
|
若野毛二俣王
|
意富富等王
|
|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。
『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)を 弔辞したという。
舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)
|
敏達天皇ーーー広姫
|
押坂彦人大兄皇子
|
舒明天皇
|ーー|
天智 天武
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の皇后・広姫である。
意富富等王の後裔が名のったという「息長」を冠する名前は、それ以前にも見られる。
倭建命
|
息長田別王
|
杙俣長日子王 ( くいまた ながひこのみこ )
|
息長真若中比売ーーー応神天皇
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若野毛二俣王
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意富富等王
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|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
開化天皇
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日子坐王
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山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
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迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
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息長宿禰王ーーー葛城之高額比売
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大多牟坂王
息長帯比売命(神功皇后)
虚空津比売命
息長日子王
「開化天皇の系統」と「倭建命の系統」とは結局の所意富富等王でつながるという事だ
開化天皇 倭建命
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日子坐王 息長田別王
| |
息長帯比売命(神功皇后) |
| |
応神天皇ーーーーーーー息長真若中比売
|
若野毛二俣王ーーーー百師木伊呂弁(長真若中比売の妹)
|
意富富等王
塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は
山代之大筒木真若王山背国綴喜(つづき)郡
迦邇米雷王山背国蟹幡(かむはた)郷
などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の一族(集団)」であるとした。
また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住していた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であったと推測している。
また、息長氏については「天之日矛」が一時期滞在したという伝承をもつ「坂田郡阿那郷付近」に居住していた「天之日矛」の人物と、若野毛二俣王・意富富等王系の人物との婚姻によって生まれてきた可能性を指摘している。
近江水系を支配した息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。
天武天皇の八色姓においては応神天皇系の真人であり、重要な氏族。真人は、八色の姓の最高位の姓で基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられたと言われているが実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えた。
息長氏と継体天皇
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
応神天皇系 息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系 三国真人・酒人真人
宣化天皇系 多治比真人・為名真人
敏達天皇系 大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系 当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系 三嶋真人
天智天皇系 淡海真人
天武天皇系 高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上真人
『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏
という事は、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていた。
応神天皇
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若野毛二俣王
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意富富等王
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|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。
『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)を 弔辞したという。
舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)
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敏達天皇ーーー広姫
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押坂彦人大兄皇子
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舒明天皇
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天智 天武
息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫「敏達天皇」の皇后・広姫である。
意富富等王の後裔が名のったという「息長」を冠する名前は、それ以前にも見られる。
倭建命
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息長田別王
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杙俣長日子王 ( くいまた ながひこのみこ )
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息長真若中比売ーーー応神天皇
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若野毛二俣王
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意富富等王
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|-三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君
|-筑紫末多君・布施君
|-継体天皇
開化天皇
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日子坐王
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山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
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迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
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息長宿禰王ーーー葛城之高額比売
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大多牟坂王
息長帯比売命(神功皇后)
虚空津比売命
息長日子王
「開化天皇の系統」と「倭建命の系統」とは結局の所意富富等王でつながるという事だ
開化天皇 倭建命
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日子坐王 息長田別王
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息長帯比売命(神功皇后) |
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応神天皇ーーーーーーー息長真若中比売
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若野毛二俣王ーーーー百師木伊呂弁(長真若中比売の妹)
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意富富等王
塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は
山代之大筒木真若王山背国綴喜(つづき)郡
迦邇米雷王山背国蟹幡(かむはた)郷
などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の一族(集団)」であるとした。
また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住していた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であったと推測している。
また、息長氏については「天之日矛」が一時期滞在したという伝承をもつ「坂田郡阿那郷付近」に居住していた「天之日矛」の人物と、若野毛二俣王・意富富等王系の人物との婚姻によって生まれてきた可能性を指摘している。
◉和邇氏
【若狭から大和への経路】
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門かまたは服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。
石原氏によると
ワニが古代朝鮮で剣あるいは、鉄をいみするところから製鉄に関わった氏族であり、琵琶湖の和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っていると述べている。
ブログ☞近江国~近江の豪族~
真野郷を除く滋賀郡三郷に百済系漢人らが勢力を張ったのは6世紀以降のことで、それ以前はこの郡内全域に和邇氏の勢力が及んでいたと考えられる。と書いた。
近江では上古の早い時期からかなり強固な基盤を築き、滋賀郡を中心に繁衍を見せる。
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族であり、出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある。
本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
5世紀後半から6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。
春日・帯解・櫟本には、和邇氏及びその同族氏族が多く居住していた。
北から春日・大宅・小野・粟田・櫟本・柿本の各氏族が連なって居住していた。
遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族
「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。
和邇氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらしひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。
『古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記されています。
東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下 伝承地道, ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族。
和邇氏の一族には、水運・港津管掌、近江統轄といった職 掌がみられる。
【若狭から大和への経路】
和邇氏は、琵琶湖沿岸に栄え、朝貢するカニを奉納する事を仕事としていた。そのルートは、敦賀から琵琶湖湖北岸にでて、湖の西岸を通り山科を経て、椿井大塚山古墳のある京都府相楽郡に至り、大和に入るというものであったという。
それは、若狭湾→琵琶湖→瀬田川→宇治川→木津川の水運を利用した経路だった。
琵琶湖西岸には、和邇浜という地名が残っている。
椿井大塚山古墳の被葬者は木津川水系を統治するものであり、和邇氏一門かまたは服属する族長と思われる。
そのルートは、カニを奉納するだけのものではなかった。
石原氏によると
ワニが古代朝鮮で剣あるいは、鉄をいみするところから製鉄に関わった氏族であり、琵琶湖の和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っていると述べている。
ブログ☞近江国~近江の豪族~
真野郷を除く滋賀郡三郷に百済系漢人らが勢力を張ったのは6世紀以降のことで、それ以前はこの郡内全域に和邇氏の勢力が及んでいたと考えられる。と書いた。
近江では上古の早い時期からかなり強固な基盤を築き、滋賀郡を中心に繁衍を見せる。
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族であり、出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある。
本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)、また添下郡。
5世紀後半から6世紀頃に春日山山麓に移住し、春日和珥臣となる。
春日・帯解・櫟本には、和邇氏及びその同族氏族が多く居住していた。
北から春日・大宅・小野・粟田・櫟本・柿本の各氏族が連なって居住していた。
遣唐使、遣隋使を多く輩出している典型的な海人系の氏族
「天皇家に多くの后妃を送り出した 豪族」大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。
和邇氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたらしひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。
『古事記』孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記されています。
東大寺山古墳(竹林) 櫟本高塚遺跡(公園) 和爾坐赤坂比古神社 和爾坂下 伝承地道, ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏は櫟本一帯を本拠地としていた古代豪族。
和邇氏の一族には、水運・港津管掌、近江統轄といった職 掌がみられる。
【近江を制するものは天下を制する】
「近江を制するものは天下を制する」
と言われ、権力者の争奪の的となった。
古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っている。
◉鉄鉱石精 練
日本における精練・製鉄の始りは 5 世紀後半ないしは 6 世紀初頭 鉄鉱石精練法として大陸朝鮮から技 術移転されたといわれ、吉備千引かなくろ谷遺跡等が日本で製鉄が行われたとの確認が取れる初期の製 鉄遺跡と言われている。
滋賀県では7世紀はじめ(古墳時代後期)にすでに鉄鉱石を使って製鉄が始められていた。
滋賀県埋蔵文化財センターでは、7 世紀~9 世紀の滋賀県製鉄遺跡が 3 地域に分けられるという。
伊吹山麓の製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、としています。
大津市から草津市にかけて位置する瀬田丘陵北面(瀬田川西岸を含む)
西浅井町、マキノ町、今津町にかけて位置する 野坂山地山麓 ☜鉄鉱石を使用
高島町から志賀町にかけて位置する比良山脈山麓 ☜鉄鉱石を使用
このうち、野坂山地と比良山脈からは、磁鉄鉱が産出するので、その鉄鉱石を使用して現地で製鉄して いたと考えられる。
マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡がある
天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、近江国 で有力な官人・貴族たちが、公民を使役して私的に製鉄を行っていたという鉄鉱山をめぐる争いを記しています。
天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
野坂山地の磁鉄鉱は、、『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条に、「大師藤原恵美朝臣押勝に、 近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」との記載があり、浅井郡・高島郡の鉄穴に相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であったことが知られます。
鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山(美濃赤阪)の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれている。
岐阜県垂井町の南宮(なんぐう)神社には、そのときの製法で造った藤原兼正氏作の刀が御神体として納められている。(同町の表佐(垂井町表佐)には通訳が多数宿泊していたという言い伝えがある。
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれてる。
ブログ☞美濃国一宮 南宮大社(なんぐうたいしゃ)
◉砂鉄精練
砂鉄製錬は6世紀代には岩鉄製錬と併行して操業されていたが、9~10世紀には岩鉄製錬は徐々に姿を消していった。したがって9~10世紀移行の我が国近代製錬は、砂鉄製錬と同義といってよい。
岩鉄鉱床は滋賀県、岡山県、岩手県などの地域に限定され、貧鉱であるため衰退していったとみられる。
砂鉄製錬は6世紀代で砂鉄製鉄法が確立され、中国地方では豊富な木炭資源と良質な砂鉄を産出し、古代から近世にかけて製鉄の主要な拠点となった。
【継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住】
継体天皇といえば、6世紀初頭、越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、息長氏、和邇氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。
近江国高島郡
継体天皇の父 彦虫人(ひこうし)王が居住していた。
三尾君氏、都怒山臣(君)氏
熊野本古墳群(新旭町)、田中大塚古墳群(安曇川町)
鴨稲荷山古墳
古墳の築造時期は6世紀前半と位置づけられている。当地で生まれたとされる継体天皇(第26代)を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した豪華な副葬品の中には、朝鮮半島の新羅王陵のそれとよく似ていものがあり朝鮮半島との強い交流が見られる古墳である。
『日本書紀』継体天皇即位前条によると、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたという。
継体天皇の在位は6世紀前半と見られており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことにも見える。そうした『日本書紀』の記述から、本古墳の被葬者としては三尾氏の首長とする説が広く知られている。
近くには白髭神社がある。
【滋賀県高島郡の鉄生産の特徴】
1、古墳時代後期(6世紀)
2、奈良時代には鉄生産が盛んに行われていた
3、製鉄原料として、主に鉄鉱石を使用している
4、墳圏史料に高島郡の鉄生産に関連する記事が記載されている
5、奈良時代の鉄生産に当時の有力者が関与している(藤原 仲麻呂)
6、製鉄遺跡群が存在していること
1、古墳時代後期(6世紀)
2、奈良時代には鉄生産が盛んに行われていた
3、製鉄原料として、主に鉄鉱石を使用している
4、墳圏史料に高島郡の鉄生産に関連する記事が記載されている
5、奈良時代の鉄生産に当時の有力者が関与している(藤原 仲麻呂)
6、製鉄遺跡群が存在していること
高島郡マキノ町のマキノ製鉄遺跡群
北牧野と西牧野の二つの古墳群が大規模である。
鉄生産と神々メモ
鉄と神
2012年 11月 20日
鉄と神
人間と鉄との出会い
隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。
製鉄のはじまり
鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。
日本の製鉄のはじまりの通説
日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。
古代製鉄の条件
1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
それでもろく風化しやすい。
結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
(関岡正弘)
2、森林が多い!
朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
司馬遼太郎はいっているが、
日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。
3、風通しのよい丘陵!
鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。
4、水が多い!
鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。
鉄の発見
砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。
餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)
高師小僧(たかしこぞう)
愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた
スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。
うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら!?」という意味である。
湛え神事
諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。
諏訪大社
祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。
古代鉄関連地名・関連語
砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)
錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐)
鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷
ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)
穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)
踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説
吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田
鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖斐川)
朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)
溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)
葉山―羽山―羽黒―鉄漿
芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら)
別所 : 浮囚 、製鉄地
百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)
砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。
金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
中国地方各地に伝説があり、村下となった。
一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。
他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。
鉄・鍛冶の神
稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)
稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷
蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社
蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社
金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)
金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)
一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)
風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)
風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)
天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)
火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)
百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)
東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮
経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)
山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)
小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏
河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮
巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。
跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)
吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社
吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)
丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)
八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)
天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社
鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)
吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神
一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)
坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い
湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)
朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)
木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社
お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)
修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線
水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)
毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)
妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)
不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院
虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)
東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)
参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一
隠された古代:近江雅和
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武
鉄の民俗史:窪田蔵郎
神々と天皇の間:鳥越憲三郎
杉山神社考:戸倉英太郎
古代山人の興亡:井口一幸
弥生時代のはじまり:春成秀爾
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁
古代の製鉄:山本博
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子
靖国刀:トム岸田
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音
まぼろしの鉄の旅:倉田一良
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二
鬼の日本史:沢史生
鶴見川流域の考古学:坂本彰
空海と錬金術:佐藤仁
空海の風景:司馬遼太郎
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾
日本神話の謎がわかる:松前健
HP:中央構造線と古代史を考える
伊太祁曾さんの風土記
博物館ニュース
坂東千年王国
日立金属 和鋼博物館
ウイキペデイア
2016年5月7日土曜日
正義についてメモ
正義へのアプローチ ある社会が公正かどうかを問うということは、我々が大切にするもの、 収入、財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉、がどう分配されるを 問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。 つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。 難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを 問うときである。 そして、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。 つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について 異なる考え方を示している。 我々の議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが 何を意味するかについて見解の相違が表れている。 48 ベンサムがこの原理に到達したのは次のような一連の論法によってだ。 我々は快や苦の感覚によって支配されている。この2つの感覚は我々の 君主なのだ。それは我々のあらゆる行為を支配し、さらに我々が行うべき ことを決定する。善悪の規準は「この君主の王座に結び付けられている」 のである。 誰もが快楽をこの身、苦痛を嫌う。功利主義哲学はこの事実を認め、 それを道徳生活と政治生活の基本に据える。効用の最大化は、個人だけでなく 立法者の原理でもあるのだ。どんな法律や政策を制定するかを決めるにあたり、 政府は共同体全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきである。 コミュニティとは結局のところなんだろうか。ベンサムによれば、それらを 構成する個人の総和からなる「架空の集団」だという。市民や立法者は したがって、みずからにこう問うべきだ。この政策の利益のすべてを足し合わせ すべてのコストを差し引いたときに、この政策はほかの政策より多くの 幸福を生むだろうか、と。 51 功利主義のもっとも目につく弱みは個人の権利を尊重しないことだ。 満足の総和だけを気にするため、個人を踏みつけにしてしまう場合がある。 功利主義にとっても個人は重要である。だが、その意味は個人の選好も 他のすべての人々の選好とともに考慮されるべきだということにすぎない。 したがって、功利主義の原理を徹底すると、品位や敬意といった我々が 基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱い方を認める ことになりかねない。 例えば、拷問の是非について、功利主義の点からは、「一人の人間に 烈しい苦痛を与えても、それによって大勢の人々の死や苦しみが防げる のであれば、道徳的に正当化される」が導かれる。しかし、人間の権利 や尊厳は効用を超えた道徳的基盤を持っていると主張する人もいる。 数は重要で、多くの人が危機にさらされるならば、我々は尊厳や権利についての 心の痛みに目をつぶることもいとうべきではないというならば、道徳は 結局コストと利益の計算の問題だということになる。 57 功利主義は、道徳の科学を提供すると主張する。その土台となるのは、幸福を計測し、 合計し、計算することだという。この科学が人の好みを測る際、それを評価 することはない。すべての人の好みを平等に計算するのだ。道徳の科学の 魅力の大半はこの評価しないという精神に由来している。道徳的選択を一つの科学 するというこの展望は、現代の多くの経済的議論に共通している。しかし、好みを 合計するためには、それを単一の尺度で測る必要がある。ベンサムの効用 という概念はこうした一つの共通通貨を提供するものだ。 だが、道徳にまつわるあらゆる事物を計算の過程で何も失わずに、単一の価値の 通貨に換算することは可能だろうか。 ベンサムは人命の価値を含め、我々が大切にしている多種多様な物事を単一の 尺度で厳密にとらえるために、効用と概念を考え出したのだ。 67 ミルの「自由論」の中心原理は、人間は他人に危害を及ぼさないかぎり、自分の 望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだというものだ。政府は、 ある人を本人の愚行から守ろうとしたり、最善の生き方についての多数派の 考えを押し付けようとしたりして、個人の自由に介入してはならない。 人が社会に対して説明責任を負う唯一の行為は、ミルによれば、他人に影響を 及ぼす行為だけだ。自身の身体とこころについて、人は主権を持っているのである。 、、、、 効用は個別の問題ごとではなく長期的な観点から最大化すべきとミルは考えており、 自由論と幸福の最大化はこれにより同一の基盤で考えられる。 80 リバタリアン(自由至上主義者)は、経済効率の名においてではなく人間の 自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアン の中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利、他人が同じことをする権利 を尊重する限り、みずからが所有するものを使って、自らが望むいかなることも 行うことが許される権利、を有するという。 そのため、近代国家の活動の多くは不法であり、自由を侵害するものだ。最少国家 契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持する国家、だけがリバタリアン の権利理論と両立する。これを超える行為を行う国家は道徳的に正当化されないのだ。 一般的に制定している3つのタイプを拒否する。 ・父権的温情主義の拒否 国家には、個人が自分の命と体でドンリスクをとるかを支持する権利はない。 ・道徳的法律の拒否 法制的な強制をもって多数派の持つ美徳の概念を奨励することなどを反対する。 ・所得や富の再配分の拒否 他人を助けるためにある人々にそれを要求する法律を拒否する。 例えば、幇助自殺はリバタリアンの考えでは、正当化される。それは、自分の命が 自分のものならば、命を捨てるのも自由なはず。自分の死に手を貸してくれる 誰かと自発的に合意に至れば、国家がそれを干渉する権利はない。 105 例えば、三つの兵士の集め方、徴兵制、身代わりを雇っていいという条件付き徴兵制、 志願兵制(市場による)でここでは検証している。 リバタリアンでは、徴兵制は不公平で、強制であり、志願兵制が望ましいと考える。 功利主義では、三つの選択肢の中では、これも志願兵制が最も優れているとしている。 人々は提示された報酬に基づいて兵役につくかどうか自由に決められるから、自分の 利益が最大化される場合のみ兵役に就くことが出来る。 しかし、いくつかの反論があることも重要だ。1つ目は、階級差別による不公平と 経済的に恵まれないために若者が大学教育やその他の利益と引き換えに自分の命 を危険にさらす時に生じる強制である。 更には、市民道徳と公益という点での反論である。 兵役はただの仕事ではなく、市民の義務である。それにより、国民は自国に奉仕 する義務があるという。これを明確に言っているのが、ルソーの「社会契約論」 であり、市民の義務を市場に任せるような商品的な考え方は、自由を広げる どころか逆に損なうことになるという。 「公共への奉仕が市民の主な仕事でなくなり、彼らが自分の身体ではなく、金銭で 奉仕するようになると、国家の滅亡は近い」。 また、同様の議論を「金をもらっての妊娠」でもしている。代理出産についても、 それを正当化する以下のような判決がある。 「両者とも取引において一方的に優位な立場にいるわけではない。どちらも それぞれ相手が欲しいものを持っていた。お互いに履行するとしたサービス の価格は合意のもとに決定され、取引は成立した。一方がもう一方を強制 したわけではない。どちらも、相手に不利益を及ぼす力があったわけではない。 また、どちらかの交渉力が相手を上回っていたわけでもない」。 功利主義、リバタリアンによる論拠は、「契約は全体の幸福を促進している」、 「選択の自由を反映している」からだ。 もっとも、これには「不合理な同意」「赤ん坊や女性の生殖能力を商品として 扱うことへの誹謗」という反論もある。 139 カントは人間の尊厳を重んじたが、これはこんにちの普遍的人権の概念にも 通じる。さらに重要なのは、自由についてのカントの解釈が正義を巡る現代の 議論にも頻繁に登場することだ。本書の導入部で、私は正義へのアプローチ を3つ上げた。一つ目は功利主義のアプローチで、福祉、すなわち社会全体の 幸福を最大に化するする方法を考えることで、正義を定義し、なすべきことを 見極める。二つ目のアプローチは、正義を自由と結び付ける。これはリバタリアン を例に考えるとわかりやすい。リバタリアンは、完全な自由市場で財とサービス を自由に交換することが、収入と富の公正な分配につながると考える。市場を 規制することは、個人の選択の自由を侵すことになるので公正ではない。 三つ目のアプローチは、道徳的な観点から見て人々にふさわしいものを与えること。 美徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義とみなす。美徳に基づく アプローチは、正義を善良な生活に関する考えと結びつく。 カントは、一つ目のアプローチ(幸福の最大化)と三つ目のアプローチ(美徳の奨励) を認めていない。彼の考えでは、どちらも人間の自由を尊重していないからだ。 彼が勧めるのは、正義と道徳を自由に結びつける二つ目のアプローチだ。 しかし、カントが定義する自由は厳格だ。市場でものを売買する際の選択の自由よりも 厳しい。カントに言わせれば、大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと 考えているものは真の自由ではない。なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも 自分自身が選んだものではないからだ。 145 カントの言う他律的な決定とは、あることをするのは、別の目的のためであり、 その目的を実行するのはまた違う目的のためというように延々と続いていく。 他律的に行動するというのは、誰かが定めた目的のために行動するという ことだ。その時、われわれは目的を定めるものではなく、目的を達成する 貯めの道具にしか過ぎない。この対極にあるのがカントの自律の概念だ。 自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその 行動のためにその行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、 誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する 能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を 隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、 人格そのものを究極の目的として扱うことだ。 245 目的論的思考 古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢であった。 プラトンとアリストテレスは、炎が立ち上るのは本来の場所である 空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である 地面に近づこうとするとするからだと考えた。自然には意味のある秩序が あるとみられていた。自然を理解し、その中に占める人間の居場所を理解するのは、 自然の目的と本質的意味を把握することだった。 近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序とみる見方は影を潜めた。代わって、 自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると 見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連付けて解釈するのは 無智のゆえの擬人化した見方とされるようになった。だが、そうした変化にも関わらず 世界を目的論的秩序と目的を持つ相対と見たがる傾向は完全になくなったわけ ではない。そうした見方は、とりわけ、世界をそのように見ないよう教育される べき子供たちに、根強く残っている。 アリストテレスの指摘によれば、分配の正義の論理はすべて差別的だ。問題は、 どの差別が正義かである。その答えは、問題とされる活動の目的による。 したがって、政治的権利と権威の分配法を決めるためには、まず政治の目的を 検証しなければならない。 「政治的共同体は何のためにあるのか?」を問わねばならない。 今日、われわれは政治を特有の本質的目的をもつものとは考えずに、市民が 支持できる様々な目的に開かれているものと考える。だからこそ、人々が集団的に 追及したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのだろう。 政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民が自ら 決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値 を押し付けられるおそれもある。我々が政治的に明確な目的や目標を付与する のに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表れだ。 しかし、アリストテレスは政治をそのように見ない。彼にとって政治の目的は 中立的な権利の枠組みを構築することではなく、良き市民を育成し、良き人格 を養成することだ。 312 カントとローズにとって、正しさは善に優先する。人間の義務と権利を定義する 正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに中立でなければ ならない。 道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならない と、カントは主張する。ロールズの持論では、正義について考えるためには、 特定の目的、愛着、善の構想を脇に置いておかねばならない。それが、無知の ベールに包まれて正義を考える際の重要な点だ。 正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方とは相いれない。彼は、 正義の原理は善良な生活に関して中立でありうるとも、あるべきだとも考えていない。 逆に、正しい国制の目的の1つは、善い国民を育成し、善い人格を培うことにあると 主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできない と彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。 335 第3の考え方である、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含 まれる。 、、、、、 功利主義的な考え方には欠点が2つある。1つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の 対象としていることだ。2つ目は、人間のあらゆる善をたった1つの統一した 価値基準にあてはめ、平らにならして、ここの質的な違いを考慮しないことだ。 自由に基づく理論は、1つ目の問題を解決するが、2つ目の問題を解決しない。そうし た 理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。 自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的功利に優るかという点では一致しない ものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では、一致する。 、、、、 私には、これは間違っていると思える。 公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障するしたりするだけでは、 達成できない。公正な社会を達成するするためには、善良な生活の意味をわれわれが ともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さななくてはい けない。 公正な社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、全体への配慮、共通善 への献身を市民の内に育てる方法を見つけなければならい。公共の生における 市民の姿勢と性向、いわゆる「心の習慣」に無頓着ではいけない。 336 正義にはどうしても判断が関わってくる。議論の対象が金融救済策や代理妻、 兵役であれ、正義の問題は名誉や美徳、誇りや承認について対立する様々な 概念と密接に関係している。 正義は、物事を分配する正しい方法にかかわるだけでない。 ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。 現代の最も驚くべき傾向に数えられるのが、市場拡大と以前は市場以外の基準に 従ってきた生活領域での市場志向の論法の拡大だ。これまでの議論では、 国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者へ委託する場合であり、公開市場で 腎臓を売買する、移民政策の簡素化など様々だ。そうした問題で問われるのは、 効用や合意だけではない。重要な社会的慣行、兵役、出産、犯罪者への懲罰、移民 等の正しい評価方法も問われる。社会的慣行を市場に持ち込むと、その慣行を 定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、市場以外の規準のうち、 どれを市場の侵入から守るべきかを問わねばならない。それには、善の価値 を判断する正しい方法について、対立する様々な考えを公に論じることが必要だ。 市場は生産活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が 市場によって変えられるのを望まないのであれば、我々は、市場の道徳的限界を 公に論じる必要がある。 ーーーーー 地域の活動をしていると、人の多様性、意見の多様性を 感じざるを得ない。また、その多様性が、組織を活性化させる 場合もあり、低迷、消散させる場合もある。企業の活動の中では、 それを覆い隠し組織の方向性を高める必要性もあるが、頑張っている 企業の多くは、この多様性を容認し、如何に、個人と組織の方向性 を保つか?に工夫されている様である。 また、前回の衆議院選挙やチョット前の「アラブの春」に見られた みんなの意見や集合知的対応が招いた結果としての是非のあり方もある。 IT活用を企業に進める立場の人間としても、「人とITの融合」に この多様性や集合知を活かすことが重要と思っている。 政治家とは、かなりの高度な智慧と先見性を持つべきなのであろうが、 最近の知識も智慧もない政治屋と言われる人間が多く国の施策に 関われるのは、彼らを代弁者として選んだ国民が悪いのか、制度的な 問題なのか。 「みんなの意見は案外正しい」(ジェームズ・スロウィキー) 「多様な意見はなぜ正しいのか」(スコット・ペイジ) 「集合知とは何か」(西垣 通) を読み返している。 インターネットの拡大に伴い、多くの人たちが、自分の感じ方や考え方を 公開している。それら無数の声を自動的に集めてきて、人々の集合的な意見 を吸い上げ、政策に生かしたり、ビジネスに役立てたりできるという話 が多くある。当然、インターネット上の「集合知」がすばらしい働きをする ことはある。でも、うまくいくのは、条件が整備された課題に限られる。 たとえば、これからの政治をどのように運営していけばいいかをネット上 の集合知にまかせたとしても、混乱をまねくだけであろう。 また、意外とみんなの意見を集約すると正しい場合も多い。しかし、その場合は、 すべて「基本的に正しい答えが存在」「回答者が充分に傾向が分散している」 「それを推定することができる」といった場合である。 たとえば「日本の少子化を止めるには?」といった絶対的な答えがでない問い を、集合知で解決することは出来ない。 ①「みんなの意見は案外正しい」からのポイント 以下の記述が気に入っている。 「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意 や妥協から生まれるのではない」 これは、多様性の重要性を説く「多様な意見はなぜ正しいのか」も同様のベースを 持つものではないか。 また、「解決すべき問題は、認知、調整、協調」の3つであり、集合知が機能する ためには「多様性、独立性、分散性、集約性」という条件が満たされなければ ならない」と言っている。 ・認知 正しい答えが必ず見つかる問題 ・調整 他人の行動も加味する必要のある問題 ・協調 自己利益だけ追求すると全体の利益を損なう問題(地域活動ではよくある) そして、 ・多様性 集団の中のそれぞれの人間が自分の私的な情報とそれに基づく意見を 持っており、突飛なものも含め色々な意見がある状態 ・独立性 周囲の人の意見に影響されずに集団の中の人がそれぞれ意思決定 できる状態 ・分散性 集団の中のそれぞれの人間がローカルで具体的な情報に基づき意思決定 をする状態 ・集約性 多様な情報や意見を集め、うまく集約する仕組やプロセスがある状態 これらの条件は、現在のソーシャルメディア拡大の要件ともなっている。 ②「多様な意見はなぜ正しいのか」からのポイント 「多様性が一様性に勝る」「多様性が能力に勝る」を明確に説いている。 そのため、まず集合知を4つのツール要素に分解する。 ・多様な観点 状況や問題を表現する方法 ・多様な解釈 観点を分類したり分割したりする方法 ・多様なヒューリスティック 問題に対する解を生み出す方法 ・多様な予測モデル 原因と結果を推測する方法 群衆の叡智や多数決が万能という意味ではない。むしろ限定的である。 ここでは、集合知の働く条件を以下のように結論している。 ・問題が難しいものでなければならない ・ソルバーたちが持つ観点やヒューリスティックが多様でなければならない ・ソルバーの集団は大きな集合の中から選び出さなければならない ・ソルバーの集団は小さすぎてはならない 以上の条件が満たされれば、ランダムに選ばれたソルバーの集団は個人で 最高のソルバーからなる集団より良い出来を示す。専門の科学者達が解けないで いる問題を、多様なツールボックスを持つ非専門家集団が解いてしまうことが ありえる。 地域での活動での組織作り、企業での組織の活性化、いずれにおいても 色々な気付きが出てくる。 ③「集合知とは何か」からのポイント 発想として考えさせられるのが、「生命体を機械化していく」のでは なく、「生命体を機械でサポートする」形こそが重要である。主観的な知で 構成されている「閉鎖システム」である人間と、開放されパターン化さ れた入出力を持つコンピュータのような「開放システム」とでは、 その融合化は難しいとのこと。 システムはすっかりと根をおろしており、その有用性はすでに広く知れ 渡っている。問題は「システム」そのものにあるのではなく、システムを つかって「システム的な世界を構築すること」にある。 提示される「集合知を支援するIT」とは、その最も本質的なところでは 個人同士、集団同士をむすび、コミュニケーションの密度をあげ、活性化 していくものになる、そしてその為の方法としては、人間の暗黙知や 感性的な深層な「人間の主観的な部分」をすくいあげ、明示化するため にITを使う。 ウィキペディアとグーグルからアマゾンやイーベイでの集合的相互評価 システムもあり、リナックスを例に集団的創造の話題に触れ、Twitter や YouTube とブログを組み合わせて新しいジャーナリズムのあり方がある。 企業内コミュニケーションに悩む企業やソーシャルメディアの活用に 逡巡する企業でも、その原点に立ち返り、単なる表面的な解決では 済まさず、今後の進め方を考えて欲しいものである。