2016年8月17日水曜日

食の交わり

渋谷からビル街を避けながら進むが時折、忘れ去られたような世界が目の前に現れる。
でもそれは食を通じた懐かしい思いがこもっていた。
高層ビルがそびえるオフィス街の谷間、本通りの裏路地にある、まるで小津映画の舞台
にでもなりそうな風情ある木造二階建ての家並みを見ると、東田さんと尾崎さんの顔を
思い出す。
東田さんは銀座で数件のクラブを持つオーナであった。だが彼との出会いはほとんど覚
えていない。どういうわけか彼に気にいられたようで関西に移る数年間、色々と夜の探
訪とこの世界の常識的な教えを受けた。特に、彼の行きつけの店には、文人的な人の出
入りもあり、食というものを彼らがどのように感じているか、少しわかった気がした。
もっとも彼の好きな店はやはり昭和の味がする店であった。
彼の事務所から少し離れたところに西洋料理を日本人好みに仕立てた〝洋食屋〟の「た
いめいけん」があった。〝昔は洋食屋といえば軒や亭がつくもの。「けん」と名乗る以
上は昔の洋食屋の心意気は守っていく〟という先代からの付き合いだそうだ。伊丹監督
がひいきにしていたオムライスの中身は、創業当時からのシンプルなハムライスだった
。卵三個と、たっぷりのバターを贅沢に使った王道の逸品とか、美味しかった。気軽に
〝昭和の洋食〟が食べられる、そんな店だと東田さんの言葉が、当時六十歳は超えてい
ただろうが黒髪に黒縁眼鏡の奥のあった優しいまなざしと百八十センチはありそうな大
きな体とともに、今も思い出される。
尾崎さんは新橋の近くの事務所に大阪に移る二年間ほどお世話になった上司であった。
すでに白髪となった髪も両脇にすがりつくように残っているが、そのしもぶくれした顔
はみんなから布袋様と呼ばれていた。だが、彼は中々の通人であった。よく出先や仕事
の後の一杯では、思わぬ場所に連れて行かれたのを覚えている。事務所からあまり離れ
ていないビル街の一角にいかにも昭和です、
といった風情の飲み屋や飲食の店があった。そこが焼き鳥屋の「伊勢廣」だった。昭和
初期から当時では珍しい焼き鳥屋をはじめたそうだ。小さな店だったが、毎朝にわとり
を丸ごとさばくため、品質と鮮度はどこにも負けない。しかも鶏肉以外の食材にもとこ
とんこだわり、ねぎは千住のねぎ専門問屋からしいたけやししとうは築地の料亭に卸す
八百屋で、塩も自ら探した静岡の職人による塩を使ったという。すべての食材を鶏肉の
水準に合わせた最高級のものに揃え評判となった。小津安二郎がここの常連だったそう
だ。いつも静かに召し上がって、静かに帰えったという。隣で尾崎さんに話を聞きなが
ら味わった。
一本目は火の通りが早くて客を待たせずに出せるお通し代わりの笹身、上にのせたおろ
したてのわさびの香りが鼻に抜けていく。そしてレバー、砂肝、ねぎ巻き、団子、かわ
、もも肉、合鴨、手羽と続く。飲んでいるうちに、常連に愛され受けている理由がわか
るような気がした。普段はよくしゃべる尾崎さんも終始無言、焼き鳥の味をゆっくりと
あじわっているようであった。
さらには、仕事で浅草の近くまで出向いたとき、ちょっと蕎麦の美味しい店が
あると誘われその店に入った。やや古さを感じる店構え、これも年代のわかるテーブル
と上がり畳の席、少し前の東京をしのばせるうつわ、それが「並木藪蕎麦」であった。
従業員の、きりりとした白い上っ張りと三角巾姿が小気味用動いていた。尾崎さんの話
では、そば好きで知られた池波正太郎が懇意にしていたという。
彼の文にもそれがある。
「平日の午後の浅草へ行き、ちょっと客足の絶えた時間の、並木の
〔藪〕の入れ込みへすわって、ゆっくりと酒をのむ気分はたまらなくよい。、、、、
そして、女中たちの接待もまた、ここは、むかしの東京を偲ばせるにたる」
と、そんな思い出話までしてくれた。そこには普段の布袋様ではなく、食の通人がいた
。この店は、濃いそばつゆが特徴。厚削り(鰹節)を一時間半煮詰めるというだしと、
油と砂糖を寝かせた「かえし」を合わせ、うまみが強いそばつゆになっていると説明さ
れた。黒く滑らかなつゆが私の持つ手に合わせゆったりとゆれ、少し灰味を帯びた蕎麦
が私ののど越しを過ぎていく。私の好きな味であった。さらに、焼き海苔は「海苔箱」
と呼ばれる白木の箱に入ってくる。箱の中には、底が和紙で貼ってある懸け籠(かけご
)があって、下には小さな炭が。炭の熱で海苔がしけるのを防ぐ仕組み、「海苔はぱり
っぱりじゃないと」という人が喜ぶが、これ見てここの主人も本当の蕎麦好きなのだと
思った。ここには、その後数回行ったが、ざるそばは、ざるの上にさらりとのっていて
歯切れの良さは言うまでもない。そば湯は、当世風にそば粉を入れて風味を足したりな
い、昔ながらのもので、必ず味わった。外に色々な店を教わった。
わずか二年であったが、尾崎さんや東田さんの食通の覚え、そして昭和の味へのこだわ
りは関西に行っても変わることはなかった。
人の本性は変わらぬが、その行動は変わる。単なる技術バカであった私もそうであった
。関西では、仕事のことあり、多くの大企業、中堅企業の役員と食事を共にすることが
多くなった。大阪の北や南の有名料亭などでの会席も増えた。また個人の食へのこだわ
りを垣間見ことも多々あるようになった。懇意にしてもらった社長はワインが好きで毎
年のワイン年鑑なるもので、その年のワインの味をかみしめていた。彼に言われたこと
がある。
「ワインも単に高いだけのものではその味わいは十分とは言えない。その値段の多寡に
惑わされるのは本当のワイン通ではない」、と。
それはいみじくも彼と行ったスペインの場末で証明された。日本円で数百円ほどの一杯
のワインの味のすばらしさは、この私にでもわかった。
またよく仕事で使った長堀のてんぷら専門店、目の前で揚げるてんぷらを見ながら、芝
エビ、穴子などの旬の素材やその揚げ方について色々と聞くのが楽しみであったが、思
い出すのが、浅草で食べた大きな「かき揚げ」であった。店の造りも鯉が泳ぐ池の周り
に数寄屋造りの離れが並ぶ静かな佇まいであった。この「雷神揚げ」と呼ばれる大きな
かき揚げも、芝海老と青柳の貝柱がふんだんに入り、胡麻油の香りに包まれた風味豊か
な逸品だった。
また、ある時、その店のあるじに言われた。
「てんぷらは汁ものをつけて食べるのは愚の骨頂、少し塩などをつけててんぷらの味を
残して食べるのが常道である」
と、もっとも私は天つゆにつけるてんぷらが一番好みではあるが、これは今も変わらな
い。またてんぷら油は一回使うと味が落ちるので、この店では一回使ったあとは一般の
てんぷら料理の店に回すのだという。何と贅沢な、私も単なる庶民にしか過ぎないと思
ったものだ。さらには、夏の鱧は大阪では天神祭り京都では祇園祭までが最高の味と、
大阪南の料亭や祇園の専門店の主人に言われた。鱧はあの小骨をいかにうまく処理する
かが料理人の腕でもある。小骨を一本一本抜いていくか、包丁で細かく砕いていくか、
その腕が問われる。
鱧の炭火焼、塩をうった鱧を炭火で十秒ほど焼くと、白い可憐な花となる。
中々の味だった。神戸の牡蠣料理の専門料亭は晩秋から春先までしかやって
いなかったが、様々な調理の妙を味合わせてもらった。好きな蕎麦も滋賀はもちろん、
京都、大阪で美味いと評判の店に行ったものだ。京都の尾張屋本店の宝来そばは
小皿に違う薬味で味わえて何回行っても飽きない。大阪北お初天神の瓢亭の
夕霧そばは、そばの淡白な味と柚子の優雅な香りが織り成す風味の良さに加え、
薄黄色を帯びた蕎麦は五感すべてに感ずるものがあった。

この殺風景な街中を皆に白い目で見られながらも私がいる。
そしてその苦痛を紛らわすのは、食への思いが一番なのかもしれない。
今は関係ないと一蹴される様な想いが照り映える歩道の歩みに合わせるかのように浮か
んでは消え、消えてはまた不快な想いとあわせ現れてくる。
普通に考えれば、大企業の役員なのであるから美食で食べ物三昧と思いがちであるが、
大分違うことが分かった。多くの役員が個人的に行く店は、少し外れた寂しい場所にあ
る、何の変哲もない店が多い。付き合いのあった役員はよくそのような店に行くと、梅
干しとお茶漬けで至極美味しそうに食べていてことを思い出す。さらには、食とその人
の人格なるものが結構関係あることも特に大阪での二十年弱でなんとなく分かった。余
るほどの饗応を受けたがるのは、その人の地位に関わらず心の卑しさが垣間見られる人
たちだった。何とも寂しい話だが、よくあることだ。また、店もそうだ。古い店を壊し
、ぎんぎらの新しい店にしたところはおおむね数年でダメになる。それは金銭意識が高
まり、料理を味わってもらうという本来の気持ちが薄くなるからであろう。
さすがに東田さん、尾崎さん、幾多のなじみのあった人の教えてくれた店は違っていた
。横を素通りする人の合間を縫うかのように東田さんと尾崎さんがちょっといいところ
があるよ、そんなことを言っているようだ。あるとき、尾崎さんがぼっそといった一言
が何かを食するとき、痛烈に浮かんでくる。
「料理は、舌だけでなく五感すべてで味わうものだよ、特に心で味わうもの。
作った人の心、食べる人の心」
すでに俺もあの人たちの歳を超えてしまった。悔悟の念、黒く重たい何かが足元からジ
ワリと体を抜けていく。

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