インターネットが生活に入り込み始めて10年ほど、その速さは今までのメディアでは 考えられない浸透の速さである。 そして、この広がりの大きさと速さは今までの社会的なつながりを変え始めてもいる。 ネットの功罪はこの浸透の深さや広がりが強まるほど増えてくる。 そしてその罪の方に重点を置いて、警鐘も含めて書かれたのが、東浩樹氏の「弱いつな がり」と思っている。 「ネットには答えがある」という思いが強まるにつれて、その弱点を忘れてしまう人も 多くなる。 「ネットには情報があふれているということになっているけど、全然そんなことは ないんです。むしろ重要な情報は見えない。なぜなら、ネットでは自分が見たいと 思っているものしか見ることが出来ないからです。そしてまた、みな自分が書きたいと 思うモノしかネットに書かないからです」 と彼は言う。さらには、 「僕にとって、検索は「経路を無くすもの」です。 人が物事を調べる時には、本来は必ずなんらかの「経路」があります。例えば図書館 に行って棚で本を探す。この一見すると無駄な途中の過程、これこそが「経路」です。 実はその経路の途中で、何か発見があることが多いのです。だから、検索によって経路 が無くなると、人間のクリエーティビティーは下がるのではないかというのが僕の根本 的な問題意識です。僕はカーナビもニュースキュレーションサービスも同じように 「経路」が無くなるので好きではありません。カーナビで目的地まで走るよりは、 カーナビに頼らず自分で調べながら運転したい。ニュースキュレーションにしても、 毎日新聞なら毎日新聞のサイトに行ってクリックするという経路が大事なのです。 そこで目的の記事以外をクリックする可能性があるからです。事前に登録した記事 だけが自動で配信されてきても、それ以上の発展がありません」と喝破している。 さらに彼は、上っ面の訪問であっても、現場に行くべきという。 「旅に行くべきだ 行くことそのものが目的なのだから。現地を見ても、ネットと 大して変わらないこともあるし、単に事実関係を調べたいだけなら今後もグーグルアー ス(http://www.google.co.jp/intl/ja/earth/)のような技術が発展するだろうし、 現場までわざわざ行く必要はない。そうではなくて、僕が大事だと言っているのは、 現地に行くというプロセス=「経路」なのです。 旅をするとは時間の投資です。一定の時間が投資され、その間無駄なことを考える。 実はそれこそが大事だということなのです。だから、ネットの発展で究極の バーチャルリアリティーが実現されたとしても、僕は旅に行くべきだと思っています。 行くことそのものが目的だからです」 彼は表面的な撫ぜることだけの観光であっても、「どこかへ行く」というのは、 それだけで決定的な経験を与えてくれることがある、とも書いている。 確かに私個人の経験でも、同じ場所に行くにしても、ネットの情報では、その発信者 の思惑の情報であり、自分の知りたいことが載っていない場合が多い。 さらに写真で見ても、現地の実体験ではその肌感覚から受ける感情は全く違う。 例えば、殺人現場を写真で見てもそれは単なる殺人のあった光景の情報に過ぎないが、 その地の木々や土の肌触りなど体感的なものは得られない。写真などネットの情報は その多くを欠落させながら、我々の体に届くだけだ。 さらに、面白い指摘もしている。 「ネットにはノイズがない。だからリアルでノイズを入れる。弱いリアル、それは 「身体の移動であり旅であり偶然の出会い」なのだが、があって、初めてネットの 強さを活かせるのです。 と序文でいい、そして、「ネットは強い絆をますます強くする世界で、そこにノイズ 入れるためにリアルがあるのだ、と言いました。 その点で考えると、人間に「性」があるということはとても重要です。なぜなら、 性の欲望はまさに人生に「ノイズ」を入れるものだからです。一晩過ごしたという 関係性が親子や同僚といった強い絆をやすやすと超えてしまう。そう言った 非合理性が人間関係のダイナミズムを生み出している。もし人間に性欲がなかったら、 階級はいまよりもはるかに固定されていたことでしょう。 人は性欲があるからこそ、本来なら話もしなかった人に話しかけたり、交流を 持ったりしまうのです」 これを一様に受け入れられないが、「性」の持つ不可思議性には、納得できる。 以前に「不寛容社会」というテーマで、NHK特集があった。 SNSなどでの炎上が過去5年で10倍以上、色々と過剰な反応の時代となっている。 教科書の表紙の昆虫の写真が気持ち悪いという一部の人で指摘でやめになった事例、 不倫という流言が出ただけでやめたCM、企業もきちんとした姿勢もなく、顧客迎合? 誤ったものも多いはずだが、の状態がある。 それはスマホの保有台数やツィターなどでの反応の激化が一層強まっているように 見える。ネットが個人の手元に降りてきたことがそれを助長させているようだ。 不寛容についての皆さんの意見はあまり関心がなかったが、 この中で出ていた以下の状況にはその指摘を含めて考える必要がある。 ・1995年のネット元年と言われてから急速に個人の参加が可能となり、沈黙の 子羊が勝手に声を上げ始めた。過剰反応の時代である。1つには社会の隅で己の存在を 確かめられない人が「認知欲求」を満足させるため、自身の正義のためという理屈で 参加する。 ・日本人の同質性と今までもあった不寛容の行動がネットという存在で加速度的に 皆の前に出てきた。 ・これらを助長する1つに、インターネットの特質がある。勝手に個人の意見は 表明できるが、それらの声をコントロールするようなコーディネータ的機能と 相互で聞きあう機能が弱い。言ったまま、聞きたくないのは無視するなどの 行動が容易にとれる。 ・人間の本質的な機能、もともと不寛容が基本であり、同じグループ内での 同質性の強化がある。これはデータでも出ているが、反対意見のグループと 別な意見のグループ間の相互のやり取りはほとんどされない。また、同じグループの 中でも違う意見を出すとそれは悪とみなされグループから除外される、これにより 一層の同質な塊となっていく。 ・社会的な不安状況が高まっていることも大きい。イライラする人、すぐに怒りを 発する人など増えている。 ・今回は不寛容を助長しているのが、ネットだという論点が垣間見られたが、 もともとメディアは自分たちの論点を決めてその方向にもっていく傾向が強い。 公明公正なスタンスを期待するのは無理なのである。つぶやきの中にそれらが 多く見られたのについてはNHKは今回何も提示していない。 NHKのやや偏った志向があったものの、この社会傾向はさらに強まるのであろう。 これは、東氏の言う「言語のメタ化機能のやっかいさ」なのであろう。 仲間との議論で、初めは具体的な内容であるが、次第に抽象化し、議論が初めの 目的からどんどんずれていく。例えば、「お前がやっていることは正義ではない」 という非難に対して、「そもそも正義とは何か」「正義は定義できるのか」 の抽象化レベルとなり、炎上となるようなものです。 ネットの拡大に伴い、彼の言う「弱いつながり」はますます増えていく。 さらに、グローバル化という言葉に代表される世界の均質化がさらに進む。 最後に彼の言っている点は十分考える必要がある。 「世界は今急速に均質化しています。20世紀には旅で全く異なる他者、 全く異なる社会に出会うことが可能でした。けれでも21世紀は世界中の ほとんどの人が皆同じような服をまとい、同じような音楽を聴き、同じ ようなファストフードを食べる、そういう光景が現れると思います。、、、、 人はそれをコピーだらけの旅だと批判するかもしれません。しかしそれは 偶然や出会いがないことは意味しません。観光もツーリストの行動によって それぞれが全く異なる顔を見せるからです。世界中が均質になったからこそ、 その均質さを利用してあちこち行って、様々な人と出会い「憐みのネットワーク」 を張り巡らせるべきだと思います。ネットの強みを活かすには、弱いリアル を導入しなければならないと序文で書きました。 同じようにグローバル化の強みは、観光客として無責任に「弱い絆」をあちこちに 張り巡らすことで初めて生きてくるのです」
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