2017年6月13日火曜日

書について

白い紙に残る墨の濃淡はときに力強く、ときにたおやかに躍動しているかのような「書」。書いてあることや作者を気にすることなく、素直に向き合ってみると、日本の「書」はモノクロームの中に多彩な美が秘められていることに気がつきます。今回はそんな「書」の歴史を紐解いていきましょう。-2014年和樂5月号より-

日本の歴史は、書の歴史そのもの

今から3000年よりはるか昔、殷(いん)時代の中国で漢字の祖となつ甲骨(こうこつ)文字が生まれました。漢字はその後、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)といった書体を経て、4世紀の東晋時代、書聖と呼ばれた王羲之(おうぎし)によって草書や行書が完成。さらに、7世紀の唐時代には王羲之にならって欧陽詢(おうようじゅん)が楷書を極めます。

王羲之『定武蘭亭序』(ていぶらんていじょ)
日本への漢字の伝来は弥生時代で、古墳から出土した銅貨の篆書文字(てんしょもじ)にその跡が認められますが、その後の飛鳥時代にもたらされた仏教の写経によって書は盛んに行われるようになります。

ですが、単に漢字を書くだけでなく、より美しい書体を追求するようになっていた中国の「書」が本格的にもたらされたのは奈良時代になってからのことです。

唐の新しい文化の吸収に夢中になっていたこの時代の書をリードしていたのは、みずから遣唐使として唐に渡った空海(くうかい)や橘逸勢(たちばなのはやなり)、そして空海のよき理解者であった嵯峨天皇。流行の先端を行く唐様を能(よ)くした3人の能書家は後に三筆(さんぴつ)と称されるようになりました。

空海『風信帖』(ふうしんじょう)
平安時代中期になると遣唐使は廃止され、中国文化を日本独自に発展させた国風文化が隆盛を迎えます。それまで漢字のみだった文章には、漢字を音で表す万葉仮名が用いられ、万葉仮名をより一層簡略化した平仮名や片仮名の文字がつくられます。これらの文章の誕生とともに宮廷を中心とした国風文化は最盛期を迎えるのです。以前の唐様に対して和様(わよう)と呼ばれたのがこの時代の書。その担い手が、三蹟(さんせき)と呼ばれる小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)でした。
武士が支配する鎌倉時代になると、宋(そう)時代の中国で成立した禅宗が最新文化としてもてはやされます。書においても和様の対極をなす質実剛健な禅様である墨跡(ぼくせき)が好まれるようになり、武士の世であることが書にも表れるようになります。

仙厓『◯△□』(まるさんかくしかく)
江戸時代を迎えると、平穏な世を謳歌(おうか)する待ち人文化の隆盛とともに書は多様化。寺子屋では宸翰様を受け継ぐ御家流(おいれりゅう)が教えられるようになり、武家から庶民まで書が広がります。また、禅僧の墨跡や知識人が用いた唐様など、書は文化の爛熟(らんじゅく)とともにそれぞれに発展を見せたのです。

良寛『天地二大字』(てんちにだいじ)
そして明治時代に文明開化を迎えた日本は、西欧の文化を貧欲に取り入れます。そんな風潮の中で、書にも新たな息吹が生まれます。それは、これまで門戸を閉ざしていた中国との交流が自由になり、原点回帰によって生まれたもの。明治の書家は中国へ渡り、これまで目にすることができなかった篆書や隷書、王羲之などの古い書を改めて学び直し、後世に残る書法を編み出していきました。

榊莫山『女Ⅰ』
このようにして書は、日本の歴史と密接にかかわりながら、今日まで伝えられてきたのです。

石川九楊『般若心経』(はんにゃしんぎょう)

『書』特設美術館!

●空海『風信帖』
国宝 紙本墨書 平安時代 28.8×157.9㎝ 東寺(教王護国寺)蔵
●小野道風『継色紙』
重要文化財 紙本墨書 平安時代中期 右13.4×13.3㎝/左13.5×13.0㎝ 五島美術館蔵
●『平家納経 薬王菩薩本事品』
国宝 紙本着色 全33巻 平安時代後期 26.0×376.1㎝ 厳島神社蔵
●仙厓『◯△□』
紙本墨書 江戸時代 28.4×48.1㎝ 出光美術館蔵
●榊莫山『女Ⅰ』
紙本墨書 平成5年 41.0×54.3㎝ 三重県立美術館蔵
●石川九楊『般若心経』
紙本墨書 平成25年 48.0×63.0㎝

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