2016年10月1日土曜日

モモ、時間泥棒との闘い

ある人の書評から、ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話を読んだ。
だが、これは童話ではない、人生への道標のようなものと思った。
もっとも、現役引退の身にとっては、悔悟の方が似合うようだが。

1.モモについて
この本は、時間貯蓄銀行という時間泥棒とモモの戦いの話だった。
ある日、平和な街に灰色の男たちがやってきて、「みなさん、時間は
どこから手に入れますか」と聞き、「それは倹約するしかないでしょう」と
説得しまわっていく。計算と数字も見せる。すべてを損得勘定で説明で
きる連中である。時間銀行の銀行員は「時間をあずけてくれたら五年で同額を
利子として払う」と言い、時間の節約の仕方を説明する。
やがて人々は、仕事はさっさとすます。老いた母親は養老院に入れて、自分の時間
を大事にする。役立たずのセキセイインコの世話の時間ももったいないから、
捨てる。とくに歌を唄ったり、友達と遊ぶのを避ける。
このようにして時間を節約したぶん、幸福が確実にたまっていく。そう、思っていく。
住人たちは次々に時間が倍になって戻ってくることに狂喜する。新しいが画一的な
街がどんどん建っていく。きれいな服装をし、美味しいものを食べらられる日々、
それを人々は幸福と思う。だが、やがてそれは不幸であることを知るようになる。
エンデは、「時は金なり」の裏側にある意図、それは「時間の意識化」、を
ファンタジックにしてみせた。
いずれにしろ、一度は読んでみてもらいたい。何か生き方のヒントが湧いてくる、
そんな本だ。

2.自分への反省
まさに30代から50代初めの自分がそうだった。時間を節約することで、幸せを
掴めると思っていた。だが、その後60代はこの物語に似た思いが続いている。
余裕のない生活と無意味な人生だったのか、へと変わっていた、そんな思いは強い。

時間の国に住むマイスター・ホラがモモに語った言葉は中々に考えさせられる。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全
ながらもまねてかたどったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くため
には耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないも
おなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の
聞こえない人にはないも同じようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて
鼓動しているのに、なにも感じ取れない心を持った人がいるのだ」

これを読んだとき、心に大きな重しが出来た。悔悟というそれだった。
私も、滋賀に来た当初は、家からこの道路を一時間ほどかけてかけて
道の駅から近くの温泉へと、直行便の如く走り抜けていた。狭い道路沿いの川の
流れに、比良山系ってその深さは凄いね、と感じ、迫り来る杉の黒さとその圧倒的な
緑の群れの中の自身の小ささを感じさせた情景を思い出す。
だが、足で歩いていたら全く違う情景もあったはずだ。
昔、鯖街道と呼ばれて敦賀から京都へと鯖を運んだというこの山並みに沿った道は通る
人々に同じ情景を与えたのかもしれない。しばし、きれいに整備された道路の横に車を
止める。杉木立の下まで上ると杉と杉のあいだには、端正な黒い沈黙がきっちりとはま
っていた。生き物の気配はどこにもない。斜面を歩いて、そこからわずかに明るくなる
雑木の疎林に入った。すると突然、足元から数羽の鳥が飛び立った。そしてまた静寂が
あたりをおおう。さらに先には暗く重い影と軽やかな明るさを持つ影が四方を照らして
いた。樫の木や柊の木などの広葉樹の明るい林と常緑樹からなる厚い葉におおわれた森
が併存している世界だった。歩くことで見えた情景であった。

何処へ、誰とでも行っても、点と点の行動の中で、ただひたすら走るのみの時代、
社会の大きな流れの中で我を知らず、富と生活の豊かさを享受することが唯一の目標
であった時代。誰もが、それを人生と思っていた時代、懐かしさと儚さが、頭の中で、
去来する。しかし、その歩みを停める訳には、行かなかった。それは、己が人生を逝く
ときでもあるのだから。右の足を前に出し、左の足を前に出す。その単調さが、
全てであった。

3.さらに、深く考えると、
ミヒャエル・エンデがすごいのはもう一段上のレベルの概念、「時間とは意識
である」ということを子供に語りかけるような言葉で説明していることだろう。
例えば、食事時間を節約するためにファーストフードで10分で食事を終える
ことは、一見すると時間を節約しているように思えるが、
その10分が心や意識に残らない10分ならば存在しないのと同じ。
そういう時間のすごし方で30年を重ねたとしたら、物理時間は節約できた
かもしれないが、意識のレベルでは何も残っていない。
しかし、食事に30分かけたとしても、記憶に残る食事を経験できたのであれば、
それは意識を大事にできたということであり、つまりは時間を大事にしたという
ことだ。

ついでにえば、道元の教えに以下のようなものがある。
「時は即ち存在であり、存在はみな時である。
今という時の一日について考えよ。阿修羅像はそのまま現在の時である。
阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。
一日24時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人は
これを一日と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりした
ものであるから人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って
知っているわけではない。
このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らない
から、また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって
「疑い」であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを
持った今の「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで
実は知らないということも、定まらないままの形相としてやはり時である
ほかはない」と。
たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、
「寝たときの今」と「起きたときの今」を「配列」してできた認識である。
換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした
「物語」を産むことで時間を認識し、また自己存在を認識することになる。
エンデの示したおとぎ話の時間見える世界、難しい言葉を並べて同じ時間と
存在の意識化を進めた道元、どちらも悔悟の想いと残る人生への新しい見方
への期待がある。

しかし時代は容赦なく進んでいるようだ。
工業化の時代に企業は、効率と生産性を上げることで自分たちの時間を最大限活用
していた。それは「モモ」の時代に近い。だが、今日ではそれでは不十分に
なりつつある。
今や組織や体制が顧客や市民の時間を節約しないといけない。
つまりリアルタイムでやり取りできるように最大限努力しなくてはならない時代
に踏み込んでいる。
スマホで物を購入でき、個人の行動や嗜好をその人がプロセスした行動から判断し、
個人が意識する以前に提供しうる環境となっている。
「モモ」の中では、人の意識変化が社会を変えていったが、リアルタイムという
人間の時間のもつ資源を社会が主導し、人を変え始めている。
「モモ」の時代よりより一層の変化が始めっている。
しかもそれは、良い方向とは思えない。時間貯蓄銀行に無意識にため込まれていく
時間を多くの人がその使い方がわからず、目標さえ存在しない。
そんな社会になっていく、この危惧が当たらなければ、幸いだ。

ーーーーーーーー

ミヒャエル・エンデ「モモ」という童話から見るかっての自分。
モモというみなしごの少女が大きな街の古びた廃墟のような円形劇場に
住みついている。
そのモモのところに「灰色の男」たちがあらわれる。「時間貯蓄銀行」からやってき
た灰色の男たちは、人々から時間を奪っていくのが専門の職業になっている。時間を節
約して、時間貯蓄銀行にその時間をせっせと預ければ、利子が利子を生んで人生の何十
倍もの時間をもつことができるというふれこみだ。モモはこれは時間泥棒だと思う。
 けれどもその街の人々は時間泥棒たちの言葉巧みな説得に誘導されて、しだいに余裕
のない生活に追い立てられていく。気がつくと時間とともに人生の意味も失っている。
モモは盗まれた時間を人々に取り戻すため、カメやカシオペイアとともに灰色の男たち
との戦いに挑んでいく。そういうお話である。
モモにも親友が二人いる。道路掃除夫のベッボ爺さんは自分で建てた煉瓦とブ
リキの小屋にいる。どんな話にもにこにこ笑えるが、自分ではほとんど喋らない。観光
ガイドの若者ジジは何でもよく喋る。けれどもほとんどが空想で、この街の神話を勝手
に作っている。つまりはこのモモを含めた3人は、何も所有していない無所有者たちな
のである。当然、無産者でもあった。
そこへ時間貯蓄銀行の灰色の男たちがやってきて、「みなさん、時間はどこから手に
入れますか」と聞き、「それは倹約するしかないでしょう」と説得しまわっていく。た
くさんの計算と数字も見せる。すべてを損得勘定で説明できる連中である。時間銀行の
銀行員は「時間をあずけてくれたら5年で同額を利子として払う」と言い、時間の節約
の仕方を説明する。
仕事はさっさとすます。老いた母親は養老院に入れて、自分の時間を大事にする。役
立たずのセキセイインコの世話の時間ももったいないから、捨てる。とくに歌を唄った
り、友達と遊ぶのを避ける。このようにして時間を節約したぶん、幸福が確実にたまっ
ていく。そう、言うのだ。住人たちは次々に時間が倍になって戻ってくることに狂喜す
る。だが、これは、単に失った時間を取り戻したという話ではない。「時間」を
「幸福」と見立てたのでもない。エンデはあきらかに時間を「貨幣」と同義とみなした
のである。
「時は金なり」の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ。
まさに30代40代の自分がそうだった。時間を節約することで、幸せを掴めると
思っていた。だが、その30年後はこの物語の通りとなった。
余裕のない生活と無意味な人生へと変わっていた、そんな思いは強い。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全なが
らもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳がある
のとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその
心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」
気にかかるフレーズだ。
この言葉をさらに突き詰めていくと、「時間系列が曖昧になった人間にとって
自己の存在はありうるのだろうか」という疑問も出てくる。
たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝た
ときの今」と「起きたときの今」を「配列」してできた認識である。
換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした
「物語」を産むことで時間を感じ、また自己存在を認識することになる。
これは正法眼蔵の有事の巻にも通ずるのでは、と思う。

「時は即ち存在であり、存在はみな時である。
今という時の一日について考えよ。三頭八ひの阿修羅像はそのまま現在の時である。
阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。一日
二十四時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人はこれを一日
と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりしたものであるから
人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って知っている
わけではない。
このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らないから、
また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって「疑い」
であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを持った今の
「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで実は知らない
ということも、定まらないままの形相としてやはり時であるほかはない。

 客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅
師は云う。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有
時なり」
 私は「有時」を理解するために、「物語」という言葉を使ってみた。
 たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝た
ときの今」と「起きたときの今」を「排列」してできた認識である。換言すれば「昨日
寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした「物語」を産むことで
時間をあらしめ、また自己存在を認識することになる。
 むろん「排列」する際には省略も含む。たとえば「最近私はとても調子がわるい」と
いう時間と自己を提出しようと思えば、たまたま調子がよかったことは全部省き、美味
しかった夕食もはずし、面白かった映画や彼女との会話も削ぎ落としてようやく成立す
る「物語」なのだと知るべきだろう。つまりあらゆる時間もそこでの自己存在も、厳密
な意味ではフィクションなのである。
 過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学
んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでお
り、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。この「経歴」こそ、「排列」か
らさらに複雑化した「物語」と云えるだろう。一つの「物語」を語るために、我々は無
数の「有時」を如何様にもアレンジし、改変すると云うのだ」。

貧しいが、のほほんとした温かい生活を送っている村人たちのところに、効率こそ大事
だとささやきながら、無駄なことをどんどんやめさせようとする灰色の男たち、時間ド
ロボウがやってくる。
おっとりしたモモが、そんな時間ドロボウから奪われた時間を取り返して村人の生活を
元通りにするために立ち上がるといったストーリー。
70年代に書かれた本であるが、時間に追われる現代人と資本主義の行く末を暗示するか
のような世界観が描かれている。本当に大切なもの、幸せってなんなのか、そもそも無
駄なことってなんなのか、
立ち止まってじっくりとそういうことを考えるべきときに感じるものがある本。

しかし、ミヒャエル・エンデがすごいのはもう一段上のレベルの概念、『時間とは意識
である』ということを子供に語りかけるような言葉で説明しているところだと思う。

時間の国に住むマイスター・ホラがモモに語った言葉では、こうなっている。

「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。・・
・・・時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全
ながらもまねてかたどったものなのだ。・・・・人間には時間を感じとるために心とい
うものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間は
ないもおなじだ。」

1・・2・・3・・という秒の単位は、あくまで物理的な計算を成り立たせるための原理
原則として作られているもの。それを空間的に表現したものが時計である。
しかし、過去に起こったことを過去の記憶として整理し、今をとらえ、未来を想像する
ことができるのは人間の意識がそのようになっているから。

逆に言えば、妄想の世界に生きている人、精神的に狂ってしまって、過去や現実、妄想
の区別がつかない人には時間という概念が存在しないと言ってもいい。
実際、自分が体験として起こったことと、想像で考えたことって、意識の中では同じよ
うに存在しているはずだし、10年前の経験であっても鮮明なものは鮮明な記憶として存
在しつづけ、1週間前の経験でも意識から消えているものは存在しないに等しいし、感
じ方によっては10年前の経験よりも古い出来事に感じるかもしれない。

「時間とは意識だ」
という前提で『モモ』をもう一度振り返ってみると、

・効率的な時間のすごし方 = 効率的な意識の持ち方
・無駄な時間のすごし方 = 無駄な意識の持ち方
・タイムマネジメント = 意識・心マネジメント

というように言い換えることもできるのではないだろうか?

つまり、
食事時間を節約するためにファーストフードで10分で食事を終えることは、
一見すると時間を節約しているように思えるのだが、
その10分が心・意識に残らない10分ならば存在しないのと同じ。
(体にエネルギーが注がれている点では意味があるが、意識のレベルでは無意味。)
そういう時間のすごし方で30歳年を重ねたとしたら、
物理時間は節約できたかもしれないが、
意識のレベルでは何も残っていない。

しかし、食事に30分かけたとしても、記憶に残る食事を経験できたのであれば、それは
意識を大事にできたということであり、つまりは時間を大事にしたということである。

意識があるからこそ、動物ではなく人間だといえるのではないか。だとすれば、心や意
識を大事にして生きるって、もっとも人間らしく生きることの本質なのではないか、と
思うのである。
経済活動、生命活動を行う上で忘れてはならないものだと思う。


【第一部 モモとその友だち】
とある大きな都会の、今は廃墟に
なっている円形劇場にどこからともなく
モモという少女がやって来て住み着く。

背が低くやせていて、8歳くらいとも、
12歳ほどとも見え、生まれてこのかた
一度もくしを通したり切ったりして
いなさそうな、くしゃくしゃにもつれた
まっ黒な巻き毛と、やはりまっ黒な
大きな美しい目をもっている。


だれかが一生懸命モモに話すと、
モモはなにも言わないのに、話す人は
すっかり気分がよくなって、
物事は自然と解決してしまう。

ずっとケンカしていた2人も
いつの間にか仲直りしている。

モモのこの不思議な能力に気づいた
人々はもめごとや悩みがあれば
「モモのところに行ってごらん!」
というようになっていた。

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モモがすべてを分け合う親友は2人。

1人目は、道路掃除の仕事を誇りに
思いそれに打ち込む老人、ベッポ。

ベッポはモモにこんな話をする。

ときどき「世界がすきとおって見えて」
その底に「ほかの時代が沈んでいる」
ことがあるんだが、きょう、昔からある
外壁の掃除をしていたら「おまえと
わし」が働いているのが見えた……。


もうひとりは観光ガイドの青年ジジ。

口からでまかせの作り話をまきちらして
お金をもらっているので、心配する人も
いるが、本人は、詩人や学者と同じだ、
だって昔の「ほんとうのことは、
だれも知らないんだもの」と平気。

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【第二部 灰色の男たち】
ある日、町に灰色の男たちが現われ、
すべてが変わりはじめる。

「時間貯蓄銀行」からやって来た彼らは
「時間を貯蓄すれば命が倍になる」と
偽って人々から時間を奪う。

人々は時間を節約しようと、
人生を楽しむことを忘れて、せかせかと
生活するようになるが、その節約した
時間は盗まれているのだ。

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親たちは仕事ばかりして、高級な
おもちゃは買ってくれても、いっしょに
遊んでくれなくなり、円形劇場に
集まるのは子どもたちだけ。

モモとその仲間たちは、灰色の男たちの
危険性を大人たちに訴えようと、集会を
開こうとするが、失敗に終わり、
かえって彼らに目をつけられる。


モモを捕らえようとした「時間泥棒
BLW553号」は、「時間泥棒も愛されて
いる」というモモの言葉に自失し、
時間泥棒の秘密を話してしまう。

彼が裏切り者として裁かれる裁判を
ペッポはたまたま目撃するが、そこで
死刑を宣告されたBLW553号は、
ただちに透明にされてしまう。

同じころ、モモの前に大きな  240705 

カメが現れ、甲羅に「ツイテオイデ!」
というほんのり光る文字が浮かんで
いたので、ついていく。


一方、灰色の男たちの会議では、
ベッポ、ジジや子どもたちをモモから
引き離す計画が立てられる。

完全に一人きりになってしまえば、
時間をもてあまし、呪いさえするから、
そうなったときに、われわれが条件を
もちだすのだ、と。


モモがカメに連れてこられたのは、
時計だらけで、そのすべてが
「べつべつの時間をさしている」
ふしぎな「時間の国」の、
〈さかさま小路(こうじ)〉を入った
〈どこでもない家〉。

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カメのカシオペイアをつかわした
この家の主人、マイスター・ホラは
ここは「あらゆる人間の時間の
みなもと」で一人一人に「定められた
時間をくばる」ことが自分の
仕事だという。

時間とは何か、また時間泥棒たちの
秘密について話を聞くうち、モモは
時間とは「人間がとりたてて聞きも
しない音楽」のようなものと気づく。



【第三部〈時間の花〉】
〈どこでもない家〉でモモが1日をすごす
間に、通常の世界では1年がすぎており、
灰色の男たちの支配は進んで、大人は
「時間貯蓄家」になり、子どもはみな
〈子どもの家〉で監視されて
夢見ることを忘れてゆく。

今や有名な物語作家になったジジから
届いていた手紙を読んだモモは
カシオペイアとともに通常の世界へ
もどり、灰色の男たちと闘う。

灰色の男たちはモモらを追って    137678 
〈どこでもない家〉まで来るが、
「ぬすんだ時間だけでできている」
彼らは、ここでは「時間の逆流」の
せいで消えてしまうため、
手が出せない。


彼らを撲滅するための
マイスター・ホラの戦略。
いったん自分が眠って
時間を止める。
それに気づくと彼らは
「時間貯蔵庫」へ行ってたくわえた
時間を取り出そうとするから、
モモが尾行してこれを阻止。
彼らがすべて消えたら
「ぬすまれた時間をぜんぶ
解放してやる」

モモらの活躍によって戦略は成功し、
時間がよみがえって、人々には
生気と心の余裕が戻る。


モモが住む廃墟のような円形劇場。
そこへやってくる時間銀行御用達の灰色の男たち。
このお話は凄腕の時間泥棒の暴挙を
可愛いいけれども果敢なモモが
すっかり退治しました、というお話ではない。
ニンゲン本来の時間を
ついに取り戻しましたというお話でもない。
お金を銀行に預けておくと、
利子が利子を生むということを告発した物語だった。
いやエンデは、その多くの作品で
貨幣経済社会を問題にしてきたのである。
これから数夜にわたって、
エンデの物語とその遺言を少しく案内したい。



 読書には「ドッキ」というものがある。ドッキは「読機」だ。その本をいつ読んだの
かということ、いつ通過したのかということ、そこにその本とわれわれのあいだにひそ
むドッキがある。

 ドッキは容易には掴めない。だからドッキなのである。念のために言っておくが、果
物に旬があるようにその本に旬があるのではない。そんなものはない。どんな本もその
気になればいつだって旬になる。これはシュンドクというもので、「旬読」という。旬
読は版元がそれをこよなく願っていて、その本が時代の中に提示されたときに買って読
むことが大いに期待されているのだが、けれども本そのものには、実は旬はない。アリ
ストテレス(291夜)も太宰治(507夜)もつねに旬なのだ。だから本というもの
はいつだって旬読を待っている。
 ところが旬読はなかなかおこらない。それを読み食べるこちら側の時機に問題がある
からだ。その本をいつどんな心境やどんな状況で読んだかが、その本についての印象や
感想にひどく関係してしまうのに、それがずれるため旬読がおこらない。これはドッキ
のせいなのである。
 ドッキはそもそもが潜在的なものなので、これを制御したり有利にすることはできな
い。太宰の『女生徒』や『葉桜と魔笛』をぼくが読んだのは高校時代だったけれど、こ
のときはドッキがよかった。だからやたらに感動した。だからといって、こういうこと
を自慢してもしょうがない。セレンディップな恩恵として有り難く感じるしかない。ド
ッキとはそういうものなのだ。

 日本で『モモ』が岩波から刊行されたのは1976年で、ぼくは「遊」の第2期をぶ
んぶん編集していた頃だった。寝るなんてことが惜しくて、ともかくいろんなディープ
で過激なことに挑んでいた。
 そんななか、それでも話題になっていた本にはなんとか目を通すという作業だけは欠
かしていなかったので、噂の『モモ』も一読した。時間泥棒というアイディアにはなる
ほど感心したが、全体に寓意が勝ちすぎていておもしろくなかった。ビビガールという
“完全無欠な人形”がちらちらと印象に残ったにすぎない。
 このころはSFを片っ端から読んでいた。劇画を読んだのもこの時期だったが、これ
は勢いで読んだにすぎなかった。なかでJ・G・バラード(80夜)やレイ・ブラッド
ベリ(110夜)にはついに会いたくなってロンドンやロスアンジェルスにまで行った
。きっとチャンスがあればアーサー・クラーク(428夜)やフィリップ・K・ディッ
ク(883夜)やトマス・ピンチョン(456夜)とも会っていただろう。
 そういう時機に『モモ』を読んだのだから、いけない。きっと劇画のように読んでし
まったのだろう。実はトールキンの『指輪物語』やC・G・ルイスの『ナルニア国もの
がたり』もこのあとしばらくして読んだのだが、残念ながらつまらなかった。いずれも
ドッキが悪かったのだ。『指輪物語』は別役実に薦められたので読んだのだけれど、や
はりその一定した寓話力や寓意力に、どうしても感心できなかった。

 というわけでぼくはエンデを旬読すらできなかったのである。それからずいぶん時間
がたった。『モモ』を再読したのはごく最近のことで、10カ月ほど前なのである。
 きっかけは河邑厚徳らがまとめた『エンデの遺言』(NHK出版)を読んだせいだっ
た。その『エンデの遺言』を読んだのは反グローバリゼーションの見解を片っ端から読
んで、その傍らでハイエク(1337夜)の貨幣論、たとえば『貨幣発行自由化論』(
東洋経済新報社)を知り、さらにケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(岩
波文庫)にとりあげられているシルビオ・ゲゼルの「スタンプ付き貨幣」のアイディア
に、エンデがひとかたならない関心をもっていたことを知ったからだった。
 そこからはジグザグとした読書が数カ月ほど続いて、一方では経済学の本を啄(つい
ば)みながら、エンデの『遺産相続ゲーム』や『鏡のなかの鏡』を遊ぶというようなこ
との“折り紙読み”が、あれこれ前後したと思われたい。こういうことはぼくにはよく
あることで、新たな集中ドッキをつくりながら世界読書の渦中に自分でどんどこ入って
いくという読み方になる。
 ともかくはこうして、ひとつにはゲゼルの自由貨幣論が、もうひとつにはエンデの「
お金」に対する思想の片鱗が手元に残ったのだ。ゲゼルのほうのことについては、この
あとの千夜千冊にまわすとして、今夜は初読のドッキをまちがえたぼくが、あらためて
エンデに“再会”できた感想を、以下、ごくかんたんに披露しておきたい。

 まず、『モモ』である。
 物語はよく知られているだろうから紹介しないが、モモという少女が大きな街の古び
た廃墟のような円形劇場に住み着く。モモには人の話にじっと耳を傾けるだけで、人々
に自信を取り戻させるような不思議な力がそなわっているらしい。

 そのモモのところに「灰色の男」たちがあらわれる。「時間貯蓄銀行」からやってき
た灰色の男たちは、人々から時間を奪っていくのが専門の職業になっている。時間を節
約して、時間貯蓄銀行にその時間をせっせと預ければ、利子が利子を生んで人生の何十
倍もの時間をもつことができるというふれこみだ。モモはこれは時間泥棒だと思う。
 けれどもその街の人々は時間泥棒たちの言葉巧みな説得に誘導されて、しだいに余裕
のない生活に追い立てられていく。気がつくと時間とともに人生の意味も失っている。
モモは盗まれた時間を人々に取り戻すため、カメやカシオペイアとともに灰色の男たち
との戦いに挑んでいく‥‥。ざっといえば、そういうお話である。

 モモは孤児に設定されている。身寄りのない「みなしご」だ。「棄人」や「みなしご
」や「孤児」は内村鑑三(250夜)や野口雨情(700夜)が最も重視した社会存在
のモデルだった。「歌を忘れたカナリア」を連れてモモのところにやってきた少年も出
てくる。
 そんなモモにも親友が二人いる。道路掃除夫のベッボ爺さんは自分で建てた煉瓦とブ
リキの小屋にいる。どんな話にもにこにこ笑えるが、自分ではほとんど喋らない。観光
ガイドの若者ジジは何でもよく喋る。けれどもほとんどが空想で、この街の神話を勝手
に作っている。つまりはこのモモを含めた3人は、何も所有していない無所有者たちな
のである。当然、無産者でもあった。
 そこへ時間貯蓄銀行の灰色の男たちがやってきて、「みなさん、時間はどこから手に
入れますか」と聞き、「それは倹約するしかないでしょう」と説得しまわっていく。た
くさんの計算と数字も見せる。すべてを損得勘定で説明できる連中である。時間銀行の
銀行員は「時間をあずけてくれたら5年で同額を利子として払う」と言い、時間の節約
の仕方を説明する。
 仕事はさっさとすます。老いた母親は養老院に入れて、自分の時間を大事にする。役
立たずのセキセイインコの世話の時間ももったいないから、捨てる。とくに歌を唄った
り、友達と遊ぶのを避ける。このようにして時間を節約したぶん、幸福が確実にたまっ
ていく。そう、言うのだ。住人たちは次々に時間が倍になって戻ってくることに狂喜す
る。
 いったいこのお話は何を書いたのか。
 失った時間を取り戻したという話ではない。「時間」を「幸福」と見立てたのでもな
かった。エンデはあきらかに時間を「貨幣」と同義とみなしたのである。「時は金なり
」の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ。ドッキを失うと、こういう
ことすら読めてこなかったのである。

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 さて、あらためてエンデの作品群をつらつら読んでわかったのは、エンデは同じこと
を『鏡のなかの鏡』でも、また初期の戯曲の『遺産相続ゲーム』でもメタフォリカルに
書いていたことだった。同じことというのは「お金」をめぐるということだ。
 『鏡のなかの鏡』(丘沢静也訳)はカフカ=アインシュタインふうの一種の迷宮小説
で、モモに代わってホルという少年が主人公になるのだが、『モモ』よりもずっと挑戦
的である。文字だけでできている紳士、デュシャンのガラス絵のような花嫁と花婿、売
春宮殿、部屋になっている砂漠、貧しい女王、輪郭を溶かせる男、伝達力を問うブリキ
缶、格子のある螺旋階段、市街電車に合図をする白髭‥‥。
 なんともいろいろなものが出てくるが、エンデはこれらを巧みに組み合わせて話を進
める。とくに「列車の来ない駅カテドラル」の全面が紙幣でできていることを証かすと
、この街のどこかで「奇蹟の金銭増殖」がおこっていることを仄めかす。
 どうやらカテドラルの祭壇がお金を増殖させているらしい。案の定、祭壇についてい
る説教師は大声で「真なるものも商品である!」「お金は万能である!」などと叫んで
いる。その意味するところは、「われわれは永遠にわれわれ自身の債権者(グロイビガ
ー)であって、かつまたわれわれ自身の債務者(シュルドナー)である」ということだ
った。
 なるほど、われわれは何かの債権者であって債務者なのである。何を担保に債権し、
債務を感じているのかといえば、生命と社会がもたらすイレギュラーなものいっさいに
、債権し、債務を感じているのだ。セイゴオ流にわかりやすくいえば、われわれは生と
死という両端の無明(むみょう)に挟まれて危険な日々を生きる不断のリスク・テイカ
ーなのである。いや、そのはずだったのだ。
 ところが「お金」が発達するにつれ、われわれのリスクはすべからく値段に換算され
ることになった。いまや出産も葬式も、結婚も病気も、洗濯も食事も、教育も音楽も、
おいしい水も山の空気さえ、マネーゲームに関与しないものはない。リスクはすっかり
貨幣に乗っ取られてしまったのだ。

 エンデが『鏡のなかの鏡』で現代の貨幣経済の陥穽を突いていると最初に指摘したの
は、おそらくは『金と魔術』で『ファウスト』の錬金術の近代的意味を解剖してみせた
ビンスヴァンガー(1374夜)だった。
 ビンスヴァンガーはエンデの遺作となった『ハーメルンの死の舞踏』でも、その問題
がとりあげられていると見た。金貨の報酬を得られなかったハーメルンの笛吹き男に子
どもたちが誘い出されたことを、エンデは資本主義社会からの次世代の救済というふう
に読み替えたというのだ。
 ぼくはエンデが救済の物語を書いたとは判定しないけれど、多くの作品に貨幣経済の
影を描こうとしていることは明白だった。
 こうしてやっと『遺産相続ゲーム』を、3ヶ月ほど前に読むことになった。エンデが
36歳のときの戯曲処女作である。『モモ』が発表されたのは43歳のときだから、そ
の10年前の作品だ。フランクフルトで上演されながらさんざんな酷評に見舞われたこ
とで有名になった。
 岩波のエンデ全集(9巻)の解説では、平田オリザがなぜに『遺産相続ゲーム』が失
敗作なのかをしつこく書いていたが、それは上演上の問題にすぎない。むしろ興味深い
のは、エンデはこの戯曲ですでに貨幣経済社会の矛盾を暴こうとしていたということに
ある。

 そもそも、いったい何がその人間の財産目録かということは、時代によっても社会に
よっても異なるはずである。15世紀のロンドンの貴族にとっての財産目録とドゴン族
の財産目録は一致しっこない。かつては田畑を保有すればそれが石高になったわけだが
、いまでは日本の農民の財は土地ではなく農協の作物買い上げ額によって決まる。
 もっとはっきりいえば、財産目録なんていっときの国家の管理物にすぎないともいえ
るわけで、そのリストと価格には何の普遍性もない。それが今日の社会では、税務署や
金融機関が認定する価値判断によって財産が規定されていくばかりなのである。たとえ
ばぼくの財産なんて金高にすればおよそ知れているが、しかし「誰によってもとうてい
算定できないもの」とも言えるはずなのだ。
 エンデはこの財産目録が明示できるということに疑問をもった。そのため作品の中で
は、財産をとりまく人物たちを異様にも、多様にも仕立てた。
 この戯曲の第3幕には、保険会社の社長エーゴン・ゲーリュオンが財産目録を作成し
ている場面が出てくる。思考磁石、星時計、ミツバチの天の梯子、精霊の卵の殻といっ
たわけのわからない財産ばかりが並んで、ゲーリュオンは多幸感に酔いしれ、そのくせ
それがどのような値打ちになるのか、焦燥感を禁じえない。ゲーリュオンという名はダ
ンテの『神曲』(913夜)の冒頭近くに出てくる地獄の番人、ジェリオーネのことで
ある。ダンテは「堅気の顔をした竜」と書いたが、エンデはこの人物をブレヒト流の「
搾取する者」になりすぎないように設定した。
 もっといろいろな人物が出てくる。公証人のレーオ・アルミニウスは義務を忠実には
たすことでいっさいの紛争に巻き込まれないようにしている。女教師のクララ・ドゥン
ケルシュタインは論理的なシステムが大好きで、「公平」とは何かということをつねに
主張する。年輩の前科者ヤーコプ・ネーベルはどんなときでも大儲けをしようとしてい
る。ゲーリュオンの妻はどんな難問からも逃れてばかりいる。将軍マルクス・シュヴェ
ーラーは全員の幸せのためには暴力が必要だと考えている。
 こんな連中によって遺産相続ゲームはとんでもなく頽廃的になっていく。誰も、何が
本当の遺産であるか、わからない。そういう物語なのだ。ここにはエンデがその後に書
き綴っていこうとした“モモ的なるもの”がすべて用意されていたわけだった。

 諸君、ドッキとは掴めぬものなのだ。
 よほどにセレンディップでないかぎり、本は2度目の読みに入ったほうがいい。ぼく
にとっては『モモ』とはそういう物語だったのである。
 では、エンデのドッキが次に何を呼びこんだかということについては、次夜に説明し
たい。エンデは長らく「老化する紙幣」や「時計がついた貨幣」を夢想しつづけたのだ
。それをシルヴィオ・ゲゼルやルドルフ・シュタイナー(33夜)に学んでいたのだ。
これ、「エイジング・マネー」とは何かという、とんでもなく大きな問題である。

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