2016年10月10日月曜日

きりこについて

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猫には、笑うと言う機能がないのだ。
びっしり生え揃った歯を見せて笑う人間のことを、猫たちは軽蔑していた。
しかし、きりこだけは別だった。きりこが笑うと、あの歯、難解で冒険心を
あおられるそれが見える。猫たちはそれが見たくて、度々A棟の周りに
集まったものだ。

101
男の子の、「自分より能力のある女性を避けたがる」傾向は、多分にある。
大人になっても、それは変わらない。自分より給料の多い女、自分より頭の
いい女、自分より人望のある女、を、男は避けたがる。自分が惨めになる
からか、女には尊敬される自分でいたいからか、とにかく人間の男のそんな
こだわりは、猫にとっては、干からびたミミズの死骸を弄ぶことより、
つまらない。
雄猫が雌猫を選ぶ基準は、尻の匂いがいい具合か、それだけだ。
どんなに嫌われ者の雄猫であろうと、自分より体躯の大きい雌猫であろうと、
ふと嗅いだ尻の匂い、それが自分の棟を打ったら、そこから恋が始まる。
残念ながら、その恋は性交した段階で、あっさり終わってしまうが、元田さん
のように「ほら、そういうところが鬼畜なのだ」などと言ってはいけない。
私に言わせれば、人間の男も、そうだ。男が恋に落ちているのは、性交
するまでだ。一度でも二度でも、性交した後は、恋を続けることに力を注ぐ。
そうしないと女に鬼畜と言われるからだ。本当は、避妊具のない、たった
一度の性交で、十分だ。その後は、また違う女とそれを励み、一人でも多く、
自分の遺伝子を残したい。のだが、現実が、社会が、そうさせてくれない。
干からびたミミズの死骸よりも、つまらない倫理を持っている人間の男だが
本能を隠し続けなければいけないという、その一点においては、同情に値する。

109
猫は、誰にも見られずに一人で死ぬと、というが、そうではない。
仲間の猫が死んだ時には、皆で葬式を行う。ただ人間の想像するそれとは違う。
猫には笑う機能がないのと同様、泣く機能もない。ただ、死んだ猫の周りに
座り、その猫が腐り、蟻や蝿などの虫に食べられ、土に還っていく様子をじっと
見守るのである。百六年生きたおぼんさんの死も、特別なものではなかった。
彼女の体はすぐに臭くなったし、蛆がわき、けがぼろぼろになり、いつしか
骨だけになって、土になった。周りで見守る猫たちは、順番でその役にあたるが、
ラムセスは望んで、毎日おぼんさんの死体が腐っていく様子を見続けた。
そして、すっかりその体がなくなってしまった後は、おぼんさんが枕に
していたまたたびをしがんで、ぷりんぷりんに良い気分になった。
おぼんさんは、魂になってさまよわない。星になったりしないし、
千の風にもならない。そんなことを、ラムセスは知っている。
おぼんさんは、ただ、死んだのだ。

114
猫たちは、何も魚だけが好物なわけではない、というのを、きりこは知った。
魚嫌いな猫もいるし、菜食主義者の猫もいる。甘いものに眼がない者や、炭酸が
好き、などという変わり者もいるのだ。きりこは、その日残してしまった
食べ物を、これらの猫にやることで、それぞれの猫の好みが分かって来るように
なった。
こんにゃくに大喜びしたのは、三毛猫のムーア、野良猫だ。金時豆を丁寧に
一粒づつ食べていたのは、B棟の村井さんが飼っているキジ虎のはにわ、
おでんのダイコンを取り合っていたのは、茶トラのハヤブサと、C棟の
誰かが飼っている白猫、この子は言葉が話せないので、名前がわからない。
もちろん魚が好きな猫が数匹いて、自分のことを人間だと思っているキジ虎の
みつおと、自分の肛門を舐め過ぎて舌の病気になってしまった黒白ぶちのアリス、
元田さんに尻尾を掴まれて振り回されてから、人間不信になってしまった
黒猫のモリ。黒と茶色のまだら猫のシンは、魚の骨だけを好んで食べる。

123
猫にとって、眠り続ける事は、睡眠障害などではない。それどころか、猫にとって、
眠る事は、とても、とても高尚なことなのである。眠る事は、ある種の訓練で
ある。では、なにを訓練しているのか。
猫は、夢を見る訓練をしている。
ともすれば、夢と現実の世界を、寝ながらにして行き来する訓練を、して
いるのである。それは非常に困難で、尊いものであった。なぜ尊いものである
かを、誰も知らなかったが。
とにかく猫たちは皆、眠ること、それも夢を見る眠りにつくことを、強烈に
望んだ。秋刀魚の夢、雌猫の夢、サンフランシスコの夢、下駄の裏側の夢、
夢となのつくものなら何でも良かったが、最も尊ばれ、困難とされるのが、
今より後に起きることの夢、つまり予知夢であった。
四丁目の生意気なブルドッグがいつ死ぬのか、2丁目のおかしな宗教家が
我々を攻撃するのをいつやめられるのか、そしていつ、世界中の人間が
我々の前にひれ伏すのか、などの、未来の夢を見るため、猫たちは日夜
眠ることに、励んでいるのだ。
大作家が書く不朽の名作を書く前から知っている猫たち、宇宙の秘密を
天才と呼ばれる誰かが解く前に知っている猫たち、であったが、
それはただ分かっている、というだけだった。ざらざらした鼻の辺りで
薄くて丈夫な耳の辺りで、滑らかに動く首の尾後ろの辺りで、彼らは
いつでも分かっていたが、分かっていたことは、いつだって後で、
または知る瞬間に、分かった。、、、
出来事が起こった後で、分かっていたというのはずるい、後出しだ、
などと言うのは人間の愚かな論理である。とにかく、知った後で、猫は
分かっていたと思うのだ。それだけだ。そこに偽りはない。猫は絶対に
嘘をつかない。分かっていたのだが、分かっていたことを、事前に
知る、と言うことに意義があった。それも、夢で現実を知る、ということに、
彼らは特別な意味を与えていた。
今のところ、この近隣の猫が見られる予知夢は、自分が死ぬ夢だけである
という。

204
では、死期を覚れる猫は、どういう猫か。何千回も何万回も、死を繰り返して
きた猫である。猫は生まれ変わる。それも必ず、猫として生まれてくる。
他の動物、例えば、人間から、猫に生まれ変わりたいという願うものは多いが、
それはとても困難なことで、しかし、一度猫として生まれたからには、来世も、
その次も、ずっと猫として生きていける。事故にあったもの、急な病気に
冒されたもの、成長できずに死んだ者も、次は必ず、健康で聡明で、
とてもしなやかな猫として、生まれてくるのだ。
何度も猫としてのせいを繰り返してきた猫は、生まれてきたときから、
あることを知るようになる。
自分は、死ぬまで生きるだけの存在である、ということ。
猫たちは死を見据えて、生きている。そしていつしか、自分の死期を知るようになる。
大抵の猫は、自分が死ぬ、その瞬間になって初めて、「ああ、死ぬことは
分かっていたと思うのだが、稀に、ずいぶん前から、自分がどのように、
いつ死ぬかをはっきり知ることが出来る猫がいる。おぼんさんがそうであった。
彼女は、自分が死ぬ、予知夢を見たことを喜び、町中を練り歩いたものだった。
百年以上生きたおぼんさんでさえ、二日後の死を予見できたのに過ぎなかったのに、
私は、14日後の死を知ることが出来た。これは、大変名誉なことであるし、
死を決めている何ものかに、感謝しなければならない。
私は、与えられた14日もの長い間、今までの自分の生きてきた歴史と、そして、
私を見つけ、一緒に暮らしたきりこのことを、記録しておこうと思った。
いささか歴史の記述がきりこに偏りすぎているのは、猫の謙虚さとシャイネス、
そして猫のことをあまりに詳しく知らしめることの野暮さを、避ける
ためのものである。
猫は、にんげんいとっていつまでも、神秘の動物で有らねばならない。
彼女は、私が言ったことを、ひとつ、一つ、カマキリが獲物を狙うような熱心さで
聞いた。

208
我々のような動物をあつかったことわざや感じが人間界には多いが、あれは
我々にとっては、納得できないものが多い。
例えば、猫に関してであるが、おぼんさんや長老たちの言った「猫の額のような」
や「猫の手も借りたい」「猫に小判」も、もう一度猫の額をしっかり観察
してほしいし、猫の手は、忙しい時でなくとも、マッサージやジャンプに
力を発揮するのだし、中にはキラキラしたものが好きな者もいるので、
一度猫の前に小判を置いてほしい。
「ねこばばする」というのも、はなはだ失礼な話である。猫が糞をひた後、
その糞を土で隠すことから、モノを取って隠すことを言う、などと説明が
されているが、猫が糞を隠すのは、最低のエチケットであるし、清潔な者の
なせる業なので、ねこばばする、の意味を、「整頓する」や「きれいにする」
といったものにかえてはいかがか。
「猫をかぶる」「借りてきた猫」などもそうだ。

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