知識と知恵のない国会議員という政治的サラリーマンが横行している。 もっとも、それを許している責任の一端は我々国民にあるのでもあろうが。 もの化し、数としてとらえられないような議員、そこには、議員の個性や 主張が見えてこない。見えてくるのは、彼らが不倫したり、知識不足を そのまま見せるとき、税金を私的に使った時、いずれも国を動かすという 行為とはかけ離れた世界での話のときだ。 これは、個を埋没化させ、ともかくその総和が大きいもの、数が多いもの が正義という功利主義の好例かもしれない。もっとも、ベンサムに言わせれば、 全く彼の本意がわかっていないというかもしれないが、浅学非才の人間の 言うこととして勘弁願おう。 サンデルは言っている。 ある社会が公正かどうかを問うということは、我々が大切にするもの、 収入、財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉、がどう分配されるを 問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。 つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。 難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを 問うときである。 そして、価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。 つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について 異なる考え方を示している。 我々の議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが 何を意味するかについて見解の相違が表れている。 だが、個人的にはベンサムの功利主義が好きだし、今の社会も概ね この考え方が基本となっているのでは、と思う。 ベンサムがこの原理に到達したのは我々は快や苦の感覚によって支配 されている。この2つの感覚は我々の君主なのだ。それは我々のあらゆる 行為を支配し、さらに我々が行うべきことを決定する。善悪の規準は 「この君主の王座に結び付けられている」のである。 彼の論理の強いのは、我々一般人の意識をそのまま捉えているからではないのか。 誰もが快楽を好み、苦痛を嫌う。 功利主義哲学はこの事実を認め、それを道徳生活と政治生活の基本に据えている。 効用の最大化は、個人だけでなく立法者の原理でもあるのだ。どんな法律や 政策を制定するかを決めるにあたり、為政者は共同体全体の幸福を最大に するため、あらゆる手段をとるべきである。 このため、満足の総和だけを気にするため、個人を踏みつけにしてしまう 場合がある。だが、いま社会に報じられている様々な事象の根底にはこれがある。 功利主義にとっても個人は重要である。だが、その意味は個人の選好も 他のすべての人々の選好とともに考慮されるべきだということにすぎない。 したがって、功利主義の原理を徹底すると、品位や敬意といった我々が 基本的規範と考えるものを侵害するような人間の扱い方を認める ことになりかねない。戦中の日本がその好例かもしれないが、戦後も 折に触れ表面にもしくは人の深層のなかにも出てくる。 コミュニティとは構成する個人の総和からなる「架空の集団」であるのだから、 関係する利益のすべてを足し合わせすべてのコストを差し引いたときに、その 政策がほかの政策より多くの幸福を生むだろうか、と、さらには、己が大衆に 気に入られ、今後も為政者側にいられるのではないか、と打算できるか。 それはサンデルが言う「幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養」の3つの 観点のうち、自由の尊重が当たり前と思われ、美徳の涵養が曖昧となって いるからであろう。 確かに今まで当然と思われていた日本人としての美徳とは?と聞かれたとき 多くの人がその答えに窮するのではないか。 例えば、 世界的に美徳とされているものに以下の6つがあるとされる。これは様々な文化、 宗教、風土に関わらず人類に共通したものといわれる。それには、「知恵と知識」 「勇気」「愛情と人間性」「正義」「節度」「精神性と超越性」がある。 そして、この美徳を構成しているものが以下の24項目と言われている。 1)知恵と知識 好奇心と関心、学習意欲、判断力、批判的思考、偏見のなさ、さらに独創性、創意工夫 、社会的な知性、個人的知性、将来の見通し等がある。 2)勇気 武勇と勇敢さ、勤勉、粘り強さ、継続的努力、誠実、純粋、正直さ、がある。 3)人間性と愛情 思いやりと寛大さ、愛する事と愛される事、協調性、義務感、チームワーク、忠誠心 等が言われている。 4)正義 公平さと公正さ、リーダーシップ、となる。 5)節度 自制心、慎重さ、思慮深さ、注意深さ、謙虚さと慎み深さがある。 6)精神性と超越性 審美眼、感謝の念、希望、楽観主義、未来に対する前向きな姿勢 精神性、目的意識、信念、信仰心、寛容さと慈悲深さ、ユーモアと陽気さ 熱意、情熱、意気込み等がその要素となる。 この6つの美徳、今の日本にはどれが存在し、社会の共通意識となって いるのだろう。 だが、以下の指摘もある。 「功利主義的な考え方には欠点が2つある。1つ目は、正義と権利を原理 ではなく計算の対象としていることだ。2つ目は、人間のあらゆる善を たった1つの統一した価値基準にあてはめ、平らにならして、個々の質的な 違いを考慮しないことだ。 自由に基づく理論は、1つ目の問題を解決するが、2つ目の問題を解決しない。そうし た 理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。 自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的功利に優るかという点では一致しない ものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では、一致する。 、、、、 私には、これは間違っていると思える。 公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障するしたりするだけでは、 達成できない。公正な社会を達成するするためには、善良な生活の意味をわれわれが ともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さなくて はいけない。公正な社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、 全体への配慮、共通善への献身を市民の内に育てる方法を見つけなければならい。 公共の生における市民の姿勢と性向、いわゆる「心の習慣」に無頓着ではいけない」 と言っている。 確かに「心の習慣」は重要だ。周辺を見ても、それが消え去っていくようにも思える。 先にあげた6つの美徳も、モノ足れりの日本人には何か不要なものという意識さえ 見られる。その「心の習慣」が消えていく中では、2つ目の欠点は「これを是」 として受け止めるのも1つではないのだろうか。 さらには、彼が指摘しているように、 「現代の最も驚くべき傾向に数えられるのが、市場拡大と以前は市場以外の基準に 従ってきた生活領域での市場志向の論法の拡大だ。これまでの議論では、 国家が兵役や捕虜の尋問を傭兵や民間業者へ委託する場合であり、公開市場で 腎臓を売買する、移民政策の簡素化など様々だ。そうした問題で問われるのは、 効用や合意だけではない。重要な社会的慣行、兵役、出産、犯罪者への懲罰、移民 等の正しい評価方法も問われる。社会的慣行を市場に持ち込むと、その慣行を 定義する基準の崩壊や低下を招きかねない。そのため、市場以外の規準のうち、 どれを市場の侵入から守るべきかを問わねばならない。それには、善の価値 を判断する正しい方法について、対立する様々な考えを公に論じることが必要だ。 市場は生産活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が 市場によって変えられるのを望まないのであれば、我々は、市場の道徳的限界を 公に論じる必要がある」というが、市場という大きな要因がのさばり始めている。 自由についてのカントの解釈、リバタリアンのいう完全な自由市場で財とサービス を自由に交換することの危うさ、この市場という力に押し流されていく のではないだろうか。 145 カントの言う他律的な決定とは、あることをするのは、別の目的のためであり、 その目的を実行するのはまた違う目的のためというように延々と続いていく。 他律的に行動するというのは、誰かが定めた目的のために行動するという ことだ。その時、われわれは目的を定めるものではなく、目的を達成する 貯めの道具にしか過ぎない。この対極にあるのがカントの自律の概念だ。 自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその 行動のためにその行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、 誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する 能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を 隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、 人格そのものを究極の目的として扱うことだ。 245 目的論的思考 古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢であった。 プラトンとアリストテレスは、炎が立ち上るのは本来の場所である 空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である 地面に近づこうとするとするからだと考えた。自然には意味のある秩序が あるとみられていた。自然を理解し、その中に占める人間の居場所を理解するのは、 自然の目的と本質的意味を把握することだった。 近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序とみる見方は影を潜めた。代わって、 自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると 見られるようになった。自然現象を目的、手段、最終結果と関連付けて解釈するのは 無智のゆえの擬人化した見方とされるようになった。だが、そうした変化にも関わらず 世界を目的論的秩序と目的を持つ相対と見たがる傾向は完全になくなったわけ ではない。そうした見方は、とりわけ、世界をそのように見ないよう教育される べき子供たちに、根強く残っている。 ①「みんなの意見は案外正しい」からのポイント 以下の記述が気に入っている。 「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意 や妥協から生まれるのではない」 これは、多様性の重要性を説く「多様な意見はなぜ正しいのか」も同様のベースを 持つものではないか。 また、「解決すべき問題は、認知、調整、協調」の3つであり、集合知が機能する ためには「多様性、独立性、分散性、集約性」という条件が満たされなければ ならない」と言っている。 ・認知 正しい答えが必ず見つかる問題 ・調整 他人の行動も加味する必要のある問題 ・協調 自己利益だけ追求すると全体の利益を損なう問題(地域活動ではよくある) そして、 ・多様性 集団の中のそれぞれの人間が自分の私的な情報とそれに基づく意見を 持っており、突飛なものも含め色々な意見がある状態 ・独立性 周囲の人の意見に影響されずに集団の中の人がそれぞれ意思決定 できる状態 ・分散性 集団の中のそれぞれの人間がローカルで具体的な情報に基づき意思決定 をする状態 ・集約性 多様な情報や意見を集め、うまく集約する仕組やプロセスがある状態
2016年9月21日水曜日
ベンサム、功利の日本
城跡をめぐる
この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、 あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影 すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。 城跡歩きはなぜか秋の終わりから冬近くまでが似合う。秋の持つ侘しさと城 としての滅び消えた時の流れが心に同期するからなのだろう。 北小松と比良の平城跡をめぐるが、わずかな残滓が見られるだけであった。 まさにこれは「春 望 <杜 甫>」の世界かもしれない。 國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る 白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す 戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、 町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、 (平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、 (心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、 たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし) もさすことができないほどである。 北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の 織り成す城下の面影が残っている。細い国道を少し湖側に入り込むと、 白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。 戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館があった。 北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」 と呼ばれる伝承地があるが、多くはただの空き地と往年の面影さえ残っていない。 湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を 利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。 街は静かに秋の陽に照りかえっていた。この足音さえ、幾重にも伸びている 溝や石垣の堅牢な造りと苔生したその中に吸い込まれていくようだ。 何百年の時を感じる、そんな小景が彼の眼に映り込む。 苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると小鮎がいくつ もの群を作り遊びに興じており、石畳の道、そこにも黄緑色の苔 が顔を見せている。すでに人気を感じない「かわと」がひょこりと 叢の枯れた部分から顔を見せる。少し前まで、家の中に比良の 湧き水が川となりその川の水を引き込み生活用水として利用していた。 山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりつながり ながら静かな水の流れを作り上げてもいる。彼方此方にその残滓は 残っているが、多くは数段の石積みが川に延びた状態で、今は ほとんど使われていないようだ。水はこの地の案内役だ。 水の流れに沿って歩けば、家々の間に透かすかのように顔を出す湖の碧さと 白地の強い砂浜がある。白壁にやや色の褪せた板塀の家の横を、少し行けば やがて小松漁港に出る。まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造り に石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。 かってはこの地が水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。 白く広がる砂と青く光る湖を先にたどれば、薄雲の中に沖ノ島が卵を半分に 来たような形で浮いていた。 彼はそこで頬に風を感じるが、思えば、1人の人とも会わなかった。 始めてそれに気づく自分がいた。 山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所 にも上るいうが、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した 遺跡は数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期 にかけて築かれたことが知られている。 この伊藤氏の城もそうであり、少し足を延ばした比良でもその盛衰は同じような モノであろう。 この戦国時代は応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃(1570~92) に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの100有余年の短い 期間に築かれたものであることが分かる。 城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に 備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣 時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど 土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは 木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。 城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。 だが、この地域の城跡はそのような構造を確認できるものは残っていない。 湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路 に面して同じく比良城が館城としてある。 湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。 両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ 一直線上にあったという。 旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの 詰城である。 第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520 年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。 第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた 平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。 比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道 がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の 古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると 「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院 より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。 比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。 南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。 北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、 境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。 ーーーー これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。 南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして 河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、 山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から 地域区分によって示すと以下のようになる。 1)地域1 湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、 背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を 経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って 平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城 (小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。 2)地域2 湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路 に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが 二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。 ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。 3)地域3 湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。 両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ 一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって 展開していた事もありうる。 4)地域4 旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの 詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城 を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う 伝承もある。 5)地域5 湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。 町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の 間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの 不均等さを見せる。 その理由として以下の点が考えられる。 ①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の 山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して 平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。 ②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。 歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。 ③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化 変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。 ④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。 ⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。 城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。 さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。 この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。 複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から 朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。 なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。 第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520 年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。 第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた 平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。 ①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林) ②涼峠山城(北小松、山腹、林) ③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり) ④ダンダ坊城(北比良、山腹、林) ⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺) ⑥比良城(比良、平地、宅地) ⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地) ⑧野々口山城(南比良、山頂、林) ⑨歓喜寺城(大物、山腹、林) ⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林) ⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地) ⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地) ⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林) ⑭栗原城(栗原、不明、宅地) ⑮高城(和邇、不明、宅地) 志賀町史第4巻からは、 1)小松城跡 戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中 に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。 当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて いたであろう。 旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、 跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。 2)比良城跡 比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道 がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の 古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると 「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院 より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。 比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。 南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。 北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、 境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。 3)歓喜寺城跡 大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。 歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面 尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。 この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭 はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが 認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や 北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。 4)荒川城跡 荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての 文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に 古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、 同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。 5)木戸山城跡 現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は 古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸 越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。 しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に 破壊されたのかもしれない。 滋賀県中世城郭分布調査報告書9にも記述あり。 だが、街を囲むように続いている散歩道から一歩山側に足を向ければ、そこは まだ人の影が見えない世界である。鬱蒼たる笹の葉におおわれた地面に いくつもの気が寄り添い、多くのつる草を身にまとい、薄暗き別の世界を 世界を作り出している。 比良山麓といっても、様々な木々が育ち、群れを成している。 多く見られるのは、いま彼の行く手にも多く見られるブナの木々である。 絶えず緑のマントを着るか如く四季を通じてその葉は落ちない。 高さ10メートルほどのもので、太さも1メートルもある樹がミズナラや アシウスギとともに一面を支配している。それにかしづくような形で、ツツジ 系草花のイブキザサ、アクシバイワカガミなどが入り乱れるように我が身を 見せ、コアアジサイ、クロモジ、タンナサワフタギが地表を埋め尽くしている。 少し目を上げれば、渓谷斜面にはフサザクラ、チドリノキ、トチノキ、 ミズキなどの落葉樹の群れが湿生林を形作っている。 当然彼を含め多くの人がこれらの名前を知っているとは思えないが、その 様相から人の顔かたちの違いと同じ様なものと思っているのであろうか、 時になくオオルリのポピーリ、ピーリ、ピースと啼く声にあわせ、薄明るさの 中に立ちこめる木々の姿を見ている。 今、彼が進む中は、覆いかぶさるように茂るカエデやクスノキ、コナラなどが 支配する世界であり、ヤマドリゼンマイやシモツケソウ、トキソウが時には 小さなピンクの花をつけ地面近くを支配していた。 その世界を切り裂く様に、一直線に土と小石のある山道が奥へと伸びている。 そんな世界をかき分け、まだ残る陽射しを強さを感じながら、彼は道の水溜りを 気にしながら歩いている。時に近寄る秋の気配を、その空気、その風、 木々の小枝のさざめき、通り過ぎるヤマガラ、シジュウカラのさえずり、 から感じつつ、比良山に向かうが形で進んでいた。 このような山道を歩くのは、初めてかもしれないが、彼の遠くおぼろげな 記憶の中には、なぜか懐かしさのような感情が伴っていた。 遠くからアオゲラのキョッ、キョッと甲高い鳴き声がチャトたちを後押しする かのように聞こえてくる。時折、その方向に目を向けるが、その姿は確認 出来ない。やがて、それらの音をかき消すかのように力強い水音が木々の間から 聞こえてくる。山道が厚い茂みに消されたような場所を右に曲がったときに それは見えた。両側から笹が、その黄緑の葉を茂らしている真ん中を銀色に 光る水が勢いよく走っていた。少し上の苔に覆われた石には、ミソサザイが チリチリチリという震え声で啼いている。笹の間をぬうようにして、1つ要領の 分からない彼は笹の葉をかき分けるように進んでいく。 小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。 かなたの山麓に指す光はすすけている。強い陽射しののせいではなく、 前方に横たわる拾い空間のせいだ。彼は頭の中で、深い緑に取り込まれた人の 姿と、そして、その中間にあるはずの様々な人やものに想いをはせた。 彼の知らない、だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。 道路、畑、森、街そして、隣人も含む大勢の人びと。その全てがつながっている と思った。ジックリと考える必要など毛頭ない。理由をつける必要もない。 ふと止めたその先には、木洩れ日にその光りを映えるように水面を見せている 渓流の淀みがあった。それは池と言うには大きすぎるが、周りの木々と 斜めに差し込む光の中で映える水面はさざなみ一つなく鏡のような表を見せ、 湿潤な場所に咲くオオイタヤメイゲツの木々とともに、斜めにさす光りがスポット ライトの様に水面を照らし、緑と水の舞台を作り上げている様でもある。 二十四節気「処暑(しょしょ)」 ・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃 綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。 →すだち、綿花。かさご。 ・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃 天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。 野分のわき。 →ぶどう。ぐち。 ・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃 いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。 →無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。 二十四節気「白露(はくろ)」 ・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃 草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。 →秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。 秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良 ・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃 せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。 →梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。 ・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃 燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。 →鶏頭、なす。昆布。 俳句 秋 風雲や時雨をくばる比良おもて 大草 夕焼けの比良を見やりつ柿赤し 惣之助 楊梅の瀧見失う船の秋 虚子 有明や比良の高根も霧の海 白堂 名月やひそかに寒き比良が嶺 歌童 和歌 秋 ・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に ゆうかけわたすけさの白雲 安法 ・宿りするひらの都の仮庵に 尾花みだれて秋風ぞ吹く 光俊朝臣 ・小浪や比良の高嶺の山おろしに 紅葉を海の物となしたる 刑部卿範
老々介護と高齢者
人は、周りの変化にかなり鈍感だ。 わたし自身についてもそれは言える。 少し前になるが、ある新聞記事を2人で見ていたが、お互い自分にはあまり関係ない と思って話している節があった。 その記事が言うには、 「高齢者が高齢者を介護する日本の現状とかを盛んに述べていた。 高齢化が進み、65歳以上が高齢の配偶者や両親を介護する「老老介護」が増えて きている。 内閣府「平成二十六年度版高齢社会白書」によれば、要介護者等からみた主な 介護者の続柄は六割以上が同居している人であり、その内訳は、配偶者が25.7%、 子が20.9%、子の配偶者が15.2%となっている。また性別については、 男性が30.6%、女性が69.4%と女性が多いことがわかる。 要介護者等と同居している主な介護者の年齢をみると、男性の64.8%、女性の 60.9%が60歳以上であり、「老老介護」が多く存在していることがうかがえるそうだ。 その老老介護が多い理由は、 その理由としては夫婦や親子だけで生活する核家族が多いことや、「介護施設に 空きがない」「利用料金が高い」「他人を家に入れたくない」などの理由から 介護サービス(老人ホーム、訪問ヘルパー、デイサービスなど)を利用しない 介護者が多いと言っている。 また要介護者自身が「自宅で家族に介護されたい」と望むことが多く、介護者も 「介護施設に預けるのは抵抗がある」という思いから、老老介護を選択する ケースもあるようだ。 そこでは「日常生活を送る上で介護が必要になった場合に、どこで介護を受け たいか」の質問に対し、男性は42.2%、女性は30.2%が「自宅で介護してほしい」 と答えており、「介護老人福祉施設に入所したい(男性18.3%、女性19.1%)」 「病院などの医療機関に入院したい(男性16.7%、女性23.1%)」などの他項目 と比べ、最も多くなっている。 最近では 「認認介護」という介護者と要介護者の両方が認知症であるケースも 増え始めている。認知症患者数は2025年には七百万人近くに達するといわれており、 80歳頃で考えると十一組に一組の夫婦が認認介護に直面していると推測される」。 私は、誰に言うともなしに、「いやな世の中だね」と一言。 妻に「お前さん、どう思う」と聞いた。 「まあ、もう少ししたら私たちもそうなるのよ」 だが、あまり切迫感がない。 ちなみに私の周りを見ても、老人2人で生活している人が結構いる。 多分、彼らも私たちとあまり変わらない意識なのであろう。 たとえば、ある葬儀場の人の話が伝わってくる。 「今ふりかえってみても、胸がしめつけられる思いのする、 私が経験した「どうしても忘れられない葬儀」の一つをご紹介します。 後にも先にも、この一件がただ一度の経験でした… お二人を同時に見送る葬儀、ご夫婦がご一緒に、亡くなられました。 ご夫婦はともに80歳を越えた老齢。 ご主人は自宅で寝たきりの状態で、奥様が懸命に介護をされている生活でした。 いわゆる「老々介護」の状態です。 80歳のお年ではご自分の身体だって壮健ではないため、もちろん奥様だけ ではなくヘルパーさんの助けも借りながら、毎日を必死で乗り越えている ご夫婦でした。 ご夫婦には一人娘しかおらず、しかも嫁いでいった先の義父母の介護に 手一杯という状況でした。 核家族化が進む現代社会で、このような一家は珍しい話ではありませんね。 ある日、いよいよ奥様の身体も心も負担が増え過ぎてきたため、ヘルパーさんの 訪問を毎日にしてもらおうかという相談をされました。 夕刻、そのお話を終えヘルパーさんが帰ろうとした時に奥様と交わした会話が、 「ありがとうございます~、来月から毎日手伝って貰えるようになると本当に楽になり ます…今日はなんだか、ホッとしたせいか、ちょっと疲れが出てきたんで、もうお風呂 入って早く休もうかな。来月からよろしくお願いしますね。」 それが、奥様の最後の言葉と、なってしましました。 その晩、交わした言葉通りお風呂へ入られた奥様は、 浴室で突然の心臓発作に襲われ亡くなられました。 家の中には、気付いてくれる人も、助けを呼んでくれる人もいません。 ただ一人の家族であるご主人は、ベッドで寝たきりなのです。 奥様はそのまま浴室で冷たくなっていくばかり。 そして、奥様の介護だけが生きる術であったご主人も、やがてベッドの上で息 を引き取りました。 3日後に、ヘルパーさんが家を訪問された時、ようやくご夫婦が共に亡くなられている のが発見されたのでした。 喪主を務めるのは、たった一人の娘様ですが、嫁がれた先での生活だけで 手一杯だった日常をふりかえり、それでももっと頑張れた事 があったのではないかと、もっと手助け出来ることがあったのではないかと、ただただ 後悔の思いばかりが募り、溢れる涙を止める術が無い…そんなご様子でした。 ご自分を責めて悔やむばかりの娘様でしたが、 葬儀の最後、参列者へのお礼のご挨拶へと立たれました。 「大切な父と母を、一度に亡くしてしまって、悲しくて寂しくて辛くてどうしようもな い思いなのですが、ただ、今、二人の写真を見つめながら、少し、良かったな…とも感 じました。あれだけ仲の良かった二人なので、こうして一緒に旅立てることは、二人と も寂しい思いをしなくて済むのですから、残る私たちは辛いけど、二人にとっては良か ったのかな…と」。 これを哀しい話と思っていられる間はよいが、やがてわが身にも降りかかることだ。 寂しいが、この情景を受け入れながら残りの生きる時間を過ごしていくのだろう。 いつの間にか、ポーチの影が長く伸び切り、細く長い帯を朱色の壁に映しだしている。 窓辺のカーテンもその白さを赤い生地へと変え、部屋全体が燃えていた。 燃えるような陽の中で、妻と私は無言のままその炎の中で明日を思った。 多分、今描いた情景は、遅かれ早かれ私と妻にも及ぶ。 だが、「元気な高齢者」と言われる人々はメディアで話題となる「老々介護や漂流する 老人たち」より圧倒的に数は多い。 人がどれだけ元気で活躍できるかを知る目安に年齢がある。若いほど活動的で年を取 るほど健康を害し、周囲の助けが必要になる。だが寿命が延び、年を取っても健康な人 が増えるにつれ、一概に年齢だけでは人の元気度を測れなくなった。そこで人口学者の 間では従来のように何年生きてきたかで測るのではなく、あと何年生きられるかに着目 する動きがある。 例えば、1955年当時の日本人男性65歳は平均余命が約12年だったが、 2010年は約19年だという。年齢は同じでも2010年の65歳男性の方が元気で 活動的だと想像できる。逆に2010年時点で平均余命が約12年の男性の年齢は 74歳。つまり55年時点の65歳と2010年の74歳は同程度に元気だと推定でき る。 国立社会保障・人口問題研究所の金子隆一副所長は平均余命を基に高齢化の推移を分析 している。55年当時の65歳男女と同程度に元気と思われる年齢(等価年齢)を 歴年で算出し、その年齢以上の人口が総人口に占める比率を等価年齢高齢化率と定義 した。通常の高齢化率だと日本は急速に高齢化するが、等価年齢高齢化率でみれば 緩やかな上昇にとどまる。 「加齢による衰えは個人差が大きいので高齢者の増加をただ悲観するのではなく、 平均寿命が延びた恩恵を享受できるような仕掛けが必要なのかもしれない。 実際のところ、現在の60歳~70歳ぐらいまでの人たちは、以前の同年代と 比べてとても元気だ。力を持て余しているぐらいで何かしたくて仕方がない。 それが高齢者の高い消費行動となっている。 超高齢社会になると要介護者が急増するといわれるが、本当だろうか。 少なくとも74歳までの前期高齢者に限るなら、2025年の予測でも要介護者の 割合は4.8%に留まるようだ。ほとんどの人が74歳までは元気だ。 これを裏付けるのが健康寿命(自立した生活ができる生存期間)で、日本人の 平均は75歳と世界一を誇る。 (世界保健機構(WHO)が発表した数字は、男性72.3歳、女性77.7歳、平均75歳。 2012年に厚生労働省が初めて発表した数字は、男性70.42歳、女性73.62歳) こうした高齢者の若返り現象によって、さまざまな変化が起こっている。例えば、熟年 離婚が増加しており、一方では事実婚も含む熟年再婚が1995年~2005年まで の10年間で倍増している。一昔前なら70歳での恋愛などみっともなくてとても 表沙汰にはできないという認識があったが、もっともだラマなどではまだその傾向が あるが。今はそんなことは誰も気にしなくなりつつある。高齢者の男女関係について も従来の常識はもはや通用しなくなっている。 その反面、新たな問題も起こっている。熟年独身者の増加だ。団塊世代の18%が 独身である。そこで問題となるのが50代、60代男性のシングル増加だ。 男性シングルといっても80歳ぐらいなら、周りが何くれとなく気を配ってくれる ので、万一の場合の発見も早い。これが50代~60代となるとまだ現役世代であり、 特に誰かが目を向けたりしない。 ところがその歳で独身生活となれば食事をはじめ生活は乱れがちだ。不摂生の結果、あ る日突然、脳溢血や心筋梗塞で孤独死するケースが、これから続出するおそれがある。 一般的に高齢者が関心を持っているのは、「お金」と「健康」と「生きがい」だ。 彼らが求める生きがいとは、自分が“社会とつながっている証”である。 そんなテーマの本もあった。社会に役立つ活動をするために健康でいたいのであり、 自分が価値ある行動をしている裏付けとしてお金が欲しいのだ。 いずれにしろこれからは社会の意識も個人の行動も大きく変わる。 その中で、静かに前記の光景を迎えるのか、もう少し社会とつながりが強い生活を 選ぶのか、本人に託される時代でもある。 |
2016年9月19日月曜日
高齢者とは?
シニアビジネスのカギ、元気なシニアの喚起と支援について
有限会社アリア代表取締役、NPO法人シニアわーくすRyoma21理事長 松本すみ子 氏
構成:AGING SUMMIT取材班 竹林篤実
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
団塊の世代が65歳を超え始め、街を歩けばシニアを多く見かけるようになった。そのシニアたちをよく見ると、いわゆる従来の高齢者とはどこか違う。これまでの高齢者とは一線を画す、「ニューシニア」とはどのような人たちなのか。
団塊世代の動向研究やマーケティング調査を専門とし、シニアライフアドバイザー、「NPO法人シニアわーくすRyoma21」理事長も務める松本すみ子氏の講演を報告する。
団塊世代の動向研究やマーケティング調査を専門とし、シニアライフアドバイザー、「NPO法人シニアわーくすRyoma21」理事長も務める松本すみ子氏の講演を報告する。
求められる既成概念からの転換
日本はこれから超高齢社会に突入する。これは全世界の誰もが、未だ経験したことのない社会だ。そんな社会のありようを考えるときに、もっとも危険なのが前例や既成概念に囚われること。とりあえず、これまでシニアについて語られてきた常識は、すべて疑ってかかった方がいい。
いま必要なこと:発想の転換
例えば、老齢人口の定義について。老齢は65歳以上とされるが、本当にそれでいいのか。有識者会議を開いて検討するなど、国に見直し気運が出ていることが示すように、老齢の定義をおかしいと感じる人が増えている。生産年齢人口を15歳から64歳とする捉え方にも違和感を覚える。いまどき15歳で働いている人などほとんどいない一方で、65歳を超えてもバリバリ働いている人がたくさんいる。年齢の枠組みを変えれば、自ずと生産年齢人口は増えるだろう。
高齢者雇用安定法の制定により60歳定年から5年間の再雇用制度が導入されたが、再雇用された人たちは果たして幸せなのだろうか。再雇用者の話を聞けば「居場所がない」「給料が安い」「昔の部下が上司になって面白くない」など不満だらけだ。会社側も本音では早く辞めて欲しいと思っている。労使双方にメリットのない制度を続けるよりも、新たな制度を考えるべきだ。
実は現在の60歳~70歳ぐらいまでの人たちは、以前の同年代と比べてとても元気だ。力を持て余しているぐらいで何かしたくて仕方がない。そこで旅行に行ったり、新しい仕事を始めたりしようとするが、実はこの人たちに向けたサービスがポッカリと抜けていたりする。間違いなくここにはビジネスチャンスがある。今は団塊世代がボリュームゾーンだが、20年後には団塊ジュニア世代が60歳になり、再び大きなマーケットが生まれる。これを見逃す手はない。
シニアビジネスのカギ、元気なシニアの喚起と支援について
有限会社アリア代表取締役、NPO法人シニアわーくすRyoma21理事長 松本すみ子 氏
構成:AGING SUMMIT取材班 竹林篤実
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
変化するシニアの生き方
超高齢社会になると要介護者が急増するといわれるが、本当だろうか。少なくとも74歳までの前期高齢者に限るなら、2025年の予測でも要介護者の割合は4.8%に留まる。ほとんどの人が74歳までは元気だ。これを裏付けるのが健康寿命(自立した生活ができる生存期間)で、日本人の平均は75歳と世界一を誇る。
(※世界保健機構(WHO)が発表した数字は、男性72.3歳、女性77.7歳、平均75歳。2012年に厚生労働省が初めて発表した数字は、男性70.42歳、女性73.62歳)
(※世界保健機構(WHO)が発表した数字は、男性72.3歳、女性77.7歳、平均75歳。2012年に厚生労働省が初めて発表した数字は、男性70.42歳、女性73.62歳)
実際、体力面、精神面ともに若々しいのが今のシニアだ。彼らをターゲットとして考える場合には、その想定年齢を実年齢の7掛けか8掛けぐらいに見ておくべきだろう。例えば、70歳を対象とした商品開発に取り組むなら、50歳ぐらいの人を相手にするつもりでちょうどいい。
こうしたシニアの若返り現象によって、さまざまな変化が起こっている。例えば、熟年離婚が増加しており、一方では事実婚も含む熟年再婚が1995年~2005年までの10年間で倍増している。一昔前なら70歳での恋愛などみっともなくてとても表沙汰にはできないという認識があったが、今はそんなことは誰も気にしない。高齢者の男女関係についても従来の常識はもはや通用しなくなっている。
変化するシニアの生き方
その反面、新たな問題も起こっている。熟年独身者の増加だ。団塊世代の18%が独身である。そこで問題となるのが50代、60代男性のシングル増加だ。男性シングルといっても80歳ぐらいなら、周りが何くれとなく気を配ってくれるので、万一の場合の発見も早い。これが50代~60代となるとまだ現役世代であり、特に誰かが目を向けたりしない。ところがその歳で独身生活となれば食事をはじめ生活は乱れがちだ。不摂生の結果、ある日突然、脳溢血や心筋梗塞で孤独死するケースが、これから続出するおそれがある。これらシニア独身男性へのサービスが、今後必要になってくる。
一般的にシニアが関心を持っているのは、「お金」と「健康」と「生きがい」だ。といってもフルタイムで働き、がっちり稼ぎたいのでも、健康を維持してひたすら長生きしたいわけでもない。彼らが求める生きがいとは、自分が“社会とつながっている証”である。社会に役立つ活動をするために健康でいたいのであり、自分が価値ある行動をしている裏付けとしてお金が欲しいのだ。
よくシニア向けの施設やイベントなどで「シルバー」「老人会」「いきいき」「悠々」といった言葉が不用意に使われているが、本当にシニアに来てもらいたいなら、これらは絶対に禁句だ。こうした言葉がついた途端に、今のシニアは「自分たちのことじゃない」と拒否反応を抱く。
シニアビジネスのカギ、元気なシニアの喚起と支援について
有限会社アリア代表取締役、NPO法人シニアわーくすRyoma21理事長 松本すみ子 氏
構成:AGING SUMMIT取材班 竹林篤実
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
シニアの変化に対応し、「人生二毛作時代」へ
高齢者を単純に年齢で区切る考え方については、国も方針転換を明らかにしている。2012年2月23日には「高齢社会対策の基本的あり方に関する検討会」で、65歳以上を一律高齢者と扱うことを改める報告書が出された。現行の再雇用制度は早急に改めるべきで、60歳定年制を維持するのなら、早期退職で肩たたきをしたりせず、60歳までの雇用を保証すべきだろう。定年制があるにも関わらず、40代後半から追い出しにかかるのはおかしい。
一方で働く側も意識を改め、60歳以降の働き方を遅くとも50代から考えるよう求めたい。10年間かけて覚悟を固め、それなりの準備をした上でセカンドステージに入る。こうした動きが本格化すれば、能力のある高齢者による新しい産業創造が起こるだろう。これからのシニア世代には単なる消費者としての役割だけでなく、自らが超高齢社会の支え手となる覚悟を求めたい。
そんなシニアが活躍する場は「地域社会」だ。いま自治体は公務員の人員削減により疲弊が激しく、本来行政がやるべきことさえ手が回っていない。これをシニアが請け負ってカバーする。実際能力のあるシニアを求める声は、地域社会の中で日増しに大きくなっている。強いシニアが増えてくれば、俗に言う「肩車社会」、一人の老人を一人の若者が必死に支えるような未来像には決してならないはずだ。
そのために「人生二毛作時代」の普及を訴えたい。60歳までを現役世代、それ以降をリタイア世代とし、60代以降は現役時代とはちょっと違った視点での働き方を追求するのだ。シニアがいきいきと働くことで自治体は助かり、現役世代も子育てなどをサポートしてもらうことで、より充実したワーク・ライフ・バランスを実現する。そんな社会をこれからの日本は目指すべきだろう。
人生二毛作時代の生き方
リタイア世代が稼ぐといっても、月に何十万円も必要なわけではない。既に年金が夫婦二人なら20万円はあるのだから、そこにプラス5万円収入が増えるだけでいい。これがシニア世帯にとっては価値のある5万円になる。国も「新しい公共」を方針として打ち出しており、行政と市民の協業事業を進めている。行政が市民に場を提供し、信頼し、権限を移譲して、地域の円滑な運営と活性化を図ろうとしている。この流れが定着することを願いたい。
シニアビジネスのカギ、元気なシニアの喚起と支援について
有限会社アリア代表取締役、NPO法人シニアわーくすRyoma21理事長 松本すみ子 氏
構成:AGING SUMMIT取材班 竹林篤実
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
文責:日経BP社 21世紀医療フォーラム事務局 エグゼクティブ・プロデューサー 阪田英也
2012/08/01
年金兼業生活とコミュニティビジネス
新しいシニアの労働観は前の世代のそれとは異なる。「働くこと」=「雇われること」ではなく、地域で求められる役割を果たすことだ。「年金兼業生活」とは、年金をベースに少額の収入を得る働き方で、そのための受け皿となる仕組みがコミュニティビジネスやNPOだ。新しい動き、ワーカーズ・コレクティブやワーカーズグループにも注目したい。1人10万円ずつほどの出資金を10人程度が持ち寄り、これを元手としてビジネスを行う。通常の営利目的の会社なら採算ラインに乗らない事業でも、1人1ヶ月5万円程度の収入で良いのなら事業として回る可能性は高い。自治体の指定管理者制度もシニアビジネスの狙い目となる。
年金兼業生活
シニアビジネスは、ビジネスと名はつくもののお金儲けが主目的ではなく、自分とその周りにいる人々が幸せになることを最上位の目的とする。自分の人生を犠牲にしてまで働くのではなく、まず自分たちが幸せになることが重要なのだ。だから誰かに雇われるのではなく、参加メンバーの一人ひとりが経営者感覚で働く。団塊の世代の間では、こうした動きが始まっている。以下にそうした事例を紹介する。
■おもちゃドクター 壊れたおもちゃを修理して、修理代を受け取る活動が広がっている。最近のおもちゃはICが組み込まれているため、その場ですぐに直せるケースの方が少ない。修理する側も対応を考える必要があり、持ってきたおもちゃをいったん引き取って治す。難しい修理をこなすことが刺激になり、また子どもたちから感謝されることが生きがいになる。どんなおもちゃでもきちんと直してくれることが評判になり、活動が広がっている。
■小学校のスタディアドバイザー 最近の小学校では、いわゆる「小一プロブレム」が問題となっている。小学校に入ってきた子どもたちが授業中にじっと座っていることができず、若い先生だけではなかなか対応しきれないのだ。そこで「スタディアドバイザー」としてリタイアした人たちが小学校に出向き、若い先生をサポートするコミュニティビジネスが始まっている。これは文部科学省も学校の新しい運営法として注目している。
■介護タクシー 個人タクシーの認可はなかなか下りないが、介護タクシー制度が2006年にできて、比較的容易に認可が下りるようになった。運輸局に書類を出して認可されれば介護タクシーを運営できる。この制度を利用して車好きのサラリーマンが定年後に事業を開始、今では3台の車を5人の仲間と運用している。介護タクシーは参入が容易なため過当競争に陥りがちだが、シニアのホスピタリティを活かしたサービスで差別化を図り、透析専門病院と専属契約を結ぶなど成功している。
■古民家サロン いま地域社会では、古民家の空き家が問題となっている。長年住んでいた夫婦がなくなり、子どもたちは遠くに出ていって戻ってこない。結果として空き家が放置されたままになる。これは防犯上も見過ごすことのできない問題だ。こうした古民家をみんなのサロンとして活用し始めた人がいる。みんなが集まれる場所があることがシニアにとってはとても重要で、そうした場所があると新しい活動が生まれるのだ。
個人活動
■シニア起業例:コーポラティブ方式のシニア村
ごく普通のサラリーマンが早期退職し、親の土地に自分たちが考える理想の老人ホームを作った。数億円かかる建築資金は、入居希望者からの前受金でまかなっている。つまり理想のプランを説明してまわり、5年がかかりで29人の入居者を集め、一軒あたり2900万円の前受金を集めたのだ。この事業の有用性を認めた国土交通省は4000万円の補助金を出している。決して特殊な能力を持っているわけでもない人でも、強い思いがあり、地道に活動すれば、これだけのことができる好例だ。
ごく普通のサラリーマンが早期退職し、親の土地に自分たちが考える理想の老人ホームを作った。数億円かかる建築資金は、入居希望者からの前受金でまかなっている。つまり理想のプランを説明してまわり、5年がかかりで29人の入居者を集め、一軒あたり2900万円の前受金を集めたのだ。この事業の有用性を認めた国土交通省は4000万円の補助金を出している。決して特殊な能力を持っているわけでもない人でも、強い思いがあり、地道に活動すれば、これだけのことができる好例だ。
シニア起業
■シニアNPO:松渓ふれあいの家
空いている中学校の教室を使って、男性が始めた、男性のためのデイケアサービスセンター。実は通常のデイケアサービスの利用者は、ほとんどが女性だ。男性シニアは、女性に混じってお遊戯などをさせられることを嫌う。だからといって男性にデイケアサービスが不要というわけではない。そこでごく普通の元サラリーマンたちが集まり、杉並区の事業公募に応募してサービスを始めた。この施設は利用者の半分以上が男性と、狙い通りの結果を収めている。
空いている中学校の教室を使って、男性が始めた、男性のためのデイケアサービスセンター。実は通常のデイケアサービスの利用者は、ほとんどが女性だ。男性シニアは、女性に混じってお遊戯などをさせられることを嫌う。だからといって男性にデイケアサービスが不要というわけではない。そこでごく普通の元サラリーマンたちが集まり、杉並区の事業公募に応募してサービスを始めた。この施設は利用者の半分以上が男性と、狙い通りの結果を収めている。
■シニアNPO:深谷シネマ
地方都市の映画館が寂れている中、深谷市でも映画館がなくなってしまった。そこで映画好きのシニアが立ち上がり、映画館を再生するための市民募金を集めた。こういう形で声を上げると、映画好きな人たちが集まってくる。仕事を抱えていたりするために自分が映画館再生に携わることはできなくとも、資金提供してもいいと考える人はいる。そうした人を集めて、深谷市では映画館が再生されている。この市民基金を募るというやり方は、シニアが行うビジネスにとっても有効である。
地方都市の映画館が寂れている中、深谷市でも映画館がなくなってしまった。そこで映画好きのシニアが立ち上がり、映画館を再生するための市民募金を集めた。こういう形で声を上げると、映画好きな人たちが集まってくる。仕事を抱えていたりするために自分が映画館再生に携わることはできなくとも、資金提供してもいいと考える人はいる。そうした人を集めて、深谷市では映画館が再生されている。この市民基金を募るというやり方は、シニアが行うビジネスにとっても有効である。
シニアNPO
これらの事例を見てもわかるように、一人の思いがみんなの思いとしてまとまっていくのが、新しいシニアの特徴だ。大切なのは、まず誰かが声を上げること、声が上がれば同じ思いを持つ人たちが自然と集まってくる。勇気を出して声を上げたシニアをサポートする仕組みを整備していくことが、今後の課題だ。
2016年9月13日火曜日
太宰治 美少女
ことしの正月から山梨県、甲府市のまちはずれに小さい家を借り、少しずつ貧しい仕事をすすめてもう、はや半年すぎてしまった。六月にはいると、盆地特有の猛烈の暑熱が、じりじりやって来て、北国育ちの私は、その仮借 なき、地の底から湧きかえるような熱気には、仰天した。机の前にだまって坐っていると、急に、しんと世界が暗くなって、たしかに眩暈 の徴候である。暑熱のために気が遠くなるなどは、私にとって生れてはじめての経験であった。家内は、からだじゅうのアセモに悩まされていた。甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、湯村へ通わせることにした。私たちの借りている家賃六円五拾銭の草庵は、甲府市の西北端、桑畑の中にあり、そこから湯村までは歩いて二十分くらい。(四十九聯隊の練兵場を横断して、まっすぐに行くと、もっと早い。十五分くらいのものかも知れない。)家内は、朝ごはんの後片附がすむと、湯道具持って、毎日そこへ通った。家内の話に依 れば、その湯村の大衆浴場は、たいへんのんびりして、浴客も農村のじいさんばあさんたちで、皮膚病に特効があるといっても、皮膚病らしい人は、ひとりも無く、家内のからだが一等きたないくらいで、浴室もタイル張で清潔であるし、お湯のぬるいのが欠点であるけれども、みんな三十分も一時間も、しゃがんでお湯にひたったまま、よもやまの世間話を交 して、とにかく別天地であるから、あなたも、一度おいでなさい、ということであった。早朝、練兵場の草原を踏みわけて行くと、草の香も新鮮で、朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然 とひらけ、ひとりで笑い出したくなるくらいである、という家内の話であった。私は暑熱をいい申しわけにして、仕事を怠けていて、退屈していた時であったから、早速 行ってみることにした。朝の八時頃、家内に案内させて、出掛けた。たいしたことも無かった。練兵場の草原を踏みわけて歩いてみても、ひとりで笑い出したくなるようなことは無かった。湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴 の木が在り、かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。
浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚 の感じである。湯槽 は割に小さく、三坪くらいのものである。浴客が、五人いた。私は湯槽にからだを滑り込ませて、ぬるいのに驚いた。水とそんなにちがわない感じがした。しゃがんで、顎 までからだを沈めて、身動きもできない。寒いのである。ちょっと肩を出すと、ひやと寒い。だまって、死んだようにして、しゃがんでいなければならぬ。とんでもないことになったと私は心細かった。家内は、落ちついてじっとしゃがみ、悟ったような顔して眼をつぶっている。
「ひでえな。身動きもできやしない。」私は小声でぶつぶつ言った。
「でも、」家内は平気で、「三十分くらいこうしていると、汗がたらたら出てまいります。だんだん効いて来るのです。」
「そうかね。」私は、観念した。
けれども、まさか家内のように悟りすまして眼をつぶっていることもできず、膝小僧だいてしゃがんだまま、きょろきょろあたりを見廻した。二組の家族がいる。一組は、六十くらいの白髪の老爺 と、どこか垢抜 けした五十くらいの老婆である。品のいい老夫婦である。この在 の小金持であろう。白髪の老爺は鼻が高く、右手に金の指輪、むかし遊んだ男かも知れない。からだも薄赤く、ふっくりしている。老婆も、あるいは、煙草くらいは意気にふかす女かも知れないと思わせるふしが無いでもないが、問題は、この老夫婦に在るのではない。問題は、別に在るのだ。私と対角線を為す湯槽の隅に、三人ひしとかたまって、しゃがんでいる。七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪である。同じ年恰好 の老婆、小さく痩せていて胸が鎧扉 のようにでこぼこしている。黄色い肌で、乳房がしぼんだ茶袋を思わせて、あわれである。老夫婦とも、人間の感じでない。きょろきょろして、穴にこもった狸 のようである。あいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻 に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うと冷 やりとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。少女は、きつい顔をしていた。一重瞼 の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫 でたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。
「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺 の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、元気にならんじゃ。」すると、もう一組の老夫婦も、そうだ、そうだ、という意味の合槌 を打って、みんな笑い出し、だしぬけに指輪の老爺がくるりと私のほうを向いて、
「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、肋骨 が醜く浮いて見えているので、やはり病後のものと思われたにちがいない。老爺のその命令には、大いに面くらったが、けれども、知らぬふりをしているのも失礼のように思われたから、私は、とにかくあいそ笑いを浮べて、それから立ち上った。ひやと寒く、ぶるっと震えた。少女は、私にアルミニウムのコップを、だまって渡した。
「や、ありがとう。」小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。
「調子がええずら?」指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して、
「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。
家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢 たるものがあった。私は不幸なことには、気楽に他人と世間話など、どうしてもできないたちなので、もし今から、この老爺に何かと話を仕掛けられたら、どうしようと恐ろしく、いよいよこれは、とんでもないことになったと、少しも早くここを逃げ出したくなって来た。ちらと少女のほうを見ると、少女は落ちついて、以前のとおりに、ふたりの老夫婦のあいだにひっそりしゃがんで、ひたと守られ、顔を仰向 にして全然の無表情であった。ちっとも私を問題にしていない。私は、あきらめた。ふたたび指輪の老爺に話掛けられぬうちに、私は立ちあがって、
「出よう。いっこうあたたまらない。」と家内に囁 き、さっさと湯槽から出て、からだをふいた。
「あたし、もう少し。」家内は、ねばるつもりである。
「そうか。さきに帰るからね。」脱衣場で、そそくさ着物を着ていたら、湯槽のほうでは、なごやかな世間話がはじまった。やはり私が、気取って口を引きしめて、きょろきょろしていると異様のもので、老人たちにも、多少気づまりの思いを懐かせていたらしく、私がいなくなると、みんなその窮屈から解放されて、ほっとした様子で、会話がなだらかに進行している。家内まで、その仲間にはいってアセモの講釈などをはじめた。私は、どうも駄目である。仲間になれない。どうせおれは異様なんだ、とひとりでひがんで、帰りしなに、またちらと少女を見た。やっぱり、ふたりの黒い老人のからだに、守られて、たからもののように美事に光って、じっとしている。
あの少女は、よかった。いいものを見た、とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置いた。
七月、暑熱は極点に達した。畳が、かっかっと熱いので、寝ても坐っても居られない。よっぽど、山の温泉にでも避難しようかと思ったが、八月には私たち東京近郊に移転する筈 になっているし、そのために少しお金を残して置かなければならないのだから、温泉などへ行く余分のお金が、どうしても都合つかないのである。私は気が狂いそうになった。髪を思い切って短く刈ったら、少しは頭も涼しくなり、はっきりして来るかも知れぬと思い、散髪屋に駈けつけた。行きあたりばったり、どこの散髪屋でも、空 いているようなところだったら少しは汚い店でもかまわないと、二、三軒覗 いて歩いたが、どこも満員の様子である。横丁の銭湯屋の向いに、小さな店が一軒あって、そこを覗いてみたら、やはり客がいるような様子だったので、引き返しかけたら、主人が窓から首を出して、
「すぐ出来ますよ。散髪でしょう?」と私の意向を、うまく言い当てた。
私は苦笑して、その散髪屋のドアを押して中へはいった。私自身では気がつかなかったけれど、よその人から見ると、ずいぶんぼうぼうと髪が伸びて、見苦しく、それだから散髪屋の主人も、私の意向をちゃんと見抜いてしまったのだ、それにちがいない、と私は流石 に恥ずかしく思ったのである。
主人は、四十くらいで丸坊主である。太いロイド眼鏡をかけて、唇がとがり、ひょうきんな顔をしていた。十七、八の弟子がひとりいて、これは蒼黒 く痩せこけていた。散髪所と、うすいカアテンをへだて、洋風の応接間があり、二三人の人の話声が聞えて、私はその人たちをお客と見誤ったのである。
椅子に腰をおろすと、裾 から煽風機が涼しい風を送ってよこして、私はほっと救われた。植木鉢や、金魚鉢が、要所要所に置かれて、小ざっぱりした散髪屋である。暑いときには、散髪に限ると思った。
「うんと、うしろを短く刈り上げて下さい。」口の重い私には、それだけ言うのも精一ぱいであった。そう言って鏡を見ると、私の顔はものものしく、異様に緊張してぎゅっと口を引きしめて気取っていた。不幸な宿命にちがいない。散髪屋に来てまで、こんなに気取らなければいけないのかと、われながら情なく思った。なお鏡を見つめていると、ちらと鏡の奥に花が写った。青い簡単服 着て、窓のすぐ傍の椅子に腰かけている少女の姿である。そこに少女の坐っているのを、そのときはじめて知ったわけである。私は、けれどもあまり問題にしなかった。女弟子かな? 娘かな? ちらとそう思っただけで、それ以上、注意して見なかった。しばらくして、少女が、私の背後から首筋のばして、私の鏡の顔をちょいちょい見ていることに気附いた。二度も、三度も鏡の中で視線が逢った。私は振り向きたいのを我慢しながら、見たような顔だと思っていた。私が、背後のその少女の顔に注意しはじめたら、少女のほうでは、それで満足したようなふうで、こんどは、ちっとも私のほうを見なかった。自信たっぷりで、窓縁 に頬杖ついて、往来のほうを見ていた。猫と女は、だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去る、とか。この少女も、もはや無意識にその特性を体得していやがる、といまいましく思っているうちに、少女は傍のテエブルから、もの憂げに牛乳の瓶 を取りあげ、瓶のままで静かに飲みほした。はっと気附いた。病身。あれだ、あの素晴らしいからだの病後の少女だ。ああ、わかりました。その牛乳で、やっとわかりました。顔より乳房のほうを知っているので、失礼しました、と私は少女に挨拶したく思った。いまは青い簡単服に包まれているが、私はこの少女の素晴らしい肉体、隅の隅まで知ってる。そう思うと、うれしかった。少女を、肉親のようにさえ思われた。
私は不覚にも、鏡の中で少女に笑いかけてしまった。少女は、少しも笑わず、それを見て、すらと立って、カアテンのかげの応接間のほうへゆっくり歩いて行った。なんの表情もなかった。私は再び白痴を感じた。けれども私は満足だった。ひとり可愛い知り合いが、できたと思った。おそらくは、あの少女のこれが父親であろう主人に、ざくざく髪を刈らせて、私は涼しく、大へん愉快であったという、それだけの悪徳物語である。
浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、
「ひでえな。身動きもできやしない。」私は小声でぶつぶつ言った。
「でも、」家内は平気で、「三十分くらいこうしていると、汗がたらたら出てまいります。だんだん効いて来るのです。」
「そうかね。」私は、観念した。
けれども、まさか家内のように悟りすまして眼をつぶっていることもできず、膝小僧だいてしゃがんだまま、きょろきょろあたりを見廻した。二組の家族がいる。一組は、六十くらいの白髪の
「おお、たくさん飲めや。」老婆は、
「あんたも、飲まんといかんじゃ。衰弱には、いっとうええ。」と命令するように言ったので、私は瞬時へどもどした。私の胸は貧弱で、
「や、ありがとう。」小声で礼を言って、それを受け取り、少女の真似して湯槽にはいったまま腕をのばしカランをひねり、意味もわからずがぶがぶ飲んだ。塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。
「調子がええずら?」指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口であった。やはり浮かぬ顔して、
「ええ。」と答えて、ちょっとお辞儀した。
家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、
「出よう。いっこうあたたまらない。」と家内に
「あたし、もう少し。」家内は、ねばるつもりである。
「そうか。さきに帰るからね。」脱衣場で、そそくさ着物を着ていたら、湯槽のほうでは、なごやかな世間話がはじまった。やはり私が、気取って口を引きしめて、きょろきょろしていると異様のもので、老人たちにも、多少気づまりの思いを懐かせていたらしく、私がいなくなると、みんなその窮屈から解放されて、ほっとした様子で、会話がなだらかに進行している。家内まで、その仲間にはいってアセモの講釈などをはじめた。私は、どうも駄目である。仲間になれない。どうせおれは異様なんだ、とひとりでひがんで、帰りしなに、またちらと少女を見た。やっぱり、ふたりの黒い老人のからだに、守られて、たからもののように美事に光って、じっとしている。
あの少女は、よかった。いいものを見た、とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置いた。
七月、暑熱は極点に達した。畳が、かっかっと熱いので、寝ても坐っても居られない。よっぽど、山の温泉にでも避難しようかと思ったが、八月には私たち東京近郊に移転する
「すぐ出来ますよ。散髪でしょう?」と私の意向を、うまく言い当てた。
私は苦笑して、その散髪屋のドアを押して中へはいった。私自身では気がつかなかったけれど、よその人から見ると、ずいぶんぼうぼうと髪が伸びて、見苦しく、それだから散髪屋の主人も、私の意向をちゃんと見抜いてしまったのだ、それにちがいない、と私は
主人は、四十くらいで丸坊主である。太いロイド眼鏡をかけて、唇がとがり、ひょうきんな顔をしていた。十七、八の弟子がひとりいて、これは
椅子に腰をおろすと、
「うんと、うしろを短く刈り上げて下さい。」口の重い私には、それだけ言うのも精一ぱいであった。そう言って鏡を見ると、私の顔はものものしく、異様に緊張してぎゅっと口を引きしめて気取っていた。不幸な宿命にちがいない。散髪屋に来てまで、こんなに気取らなければいけないのかと、われながら情なく思った。なお鏡を見つめていると、ちらと鏡の奥に花が写った。青い
私は不覚にも、鏡の中で少女に笑いかけてしまった。少女は、少しも笑わず、それを見て、すらと立って、カアテンのかげの応接間のほうへゆっくり歩いて行った。なんの表情もなかった。私は再び白痴を感じた。けれども私は満足だった。ひとり可愛い知り合いが、できたと思った。おそらくは、あの少女のこれが父親であろう主人に、ざくざく髪を刈らせて、私は涼しく、大へん愉快であったという、それだけの悪徳物語である。
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
大麻の歴史
大麻博物館
- 支援総額
- 741,000円
- 目標金額
- 500,000円
- 支援者数
- 100人
- 残り日数
- 37 日
148%
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支援後のキャンセルはできません。
10月20日(木)午後11:00まで支援を募集しています。
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農作物としての「大麻」に関する書籍を出版、世の中に正しい情報を発信することで偏見をなくしたい!
はじめまして。大麻博物館館長の高安淳一と申します。当博物館が、2001年に栃木の那須高原にオープンしてから、15年が経過しました。
「え、大麻?」という方も多いかも知れませんが、実は大麻は、栃木が誇るべき農作物です。当館では「有用な農作物」として、また「日本人のアイデンティティーとも深いつながりを持つ植物」としての大麻について、資料の収集や調査などを行いつつ、微力ながら情報発信を行ってきました。しかし、世間の大麻に関する誤解や偏見は依然として強く、「農」として、「日本の伝統」としての大麻は、危機的な状況を迎えています。
そこで今回は、書籍を通し、正確な情報発信を行うことで、多くの方々にその状況を理解していただきたいと考え、プロジェクトを立ち上げました。皆様のご協力・ご支援をお願い致します。

かつて「大麻」は、日本の伝統文化・生活文化に密接な関係を持つ農作物でした。
大麻は、「麻」「ヘンプ」などの別称を持つ、アサ科の一年草です。違法な薬物として認識されることが多いこの植物ですが、日本では縄文時代の遺跡から大麻の種が見つかるなど、古来より親しまれ、繊維を衣服や縄・釣糸・漁網に、種を食料に、茎を建材に、葉や根を薬用にと幅広い用途で利用してきました。主要な作物であった名残は、「麻」と名がつく、多くの地名や人名にも残されています。
また、神道の世界では、その繊維を清めの道具として用い、伊勢神宮のお札は、現在も神宮大麻と呼ばれるなど、日本の伝統文化・生活文化と非常に密接な関わりを持つ「農作物」でした。
そもそも、古くから日本で栽培してきた品種は「繊維型」といって、「薬用型(=マリファナ)」と異なり、酩酊作用がほとんどない品種です。しかし、工業化の波に乗り遅れたことや、法律の影響(現在、大麻の栽培には、都道府県知事が発行する大麻取扱者免許が必要です)、違法な薬物というイメージの固定化により、1950年代には国内に25,000軒あった大麻農家が、現在は約40軒にまで減少しています。日本で合法的に栽培されているものは、酩酊しないよう品種改良されたモノにも関わらず、その価値や有用性は忘れ去られているのです。

大麻博物館では、長く継承されてきた「大麻の文化」を残そうと取り組んでいます。
大麻博物館のある栃木県では、陶酔作用がないよう改良された品種「とちぎしろ」の栽培を現在も続けており、国内生産の約90%を占める大麻の一大産地です。
そして那須高原にある大麻博物館では、大麻に関する様々な情報を発信しています。近年、力を入れているのは「麻糸づくりの継承」です。日本では古来より、大麻が繊維の主流でしたが、現在、国内での麻糸流通量はほぼゼロ、麻糸生みの技術を継承しているのは、わずか10名以下と言われています。この状況を打破するため、2012年より「麻糸生み後継者養成講座」を定期的に開催しています。
大麻糸の特徴は、しなやかで、使い込むほど柔らかく、ちょっとやそっとのことでは破れない強さが特徴です。繊維自体がチューブ構造となっており、夏涼しく、冬暖かく日本の気候風土に適しています。


講座の様子(動画)です。
正確な「大麻」の知識を広めるため、「伝統」「資源」「農」という切り口で書籍を作ります!
非常に有用な農作物であるにも関わらず、世間の大麻に関する誤解や偏見に影響されて活用がされなくなっていく現状は、あまりに残念なことです。そこで私たちは、大麻について全く知識がない方にとっても分かりやすい「入門編」であると同時に、私たちの情報収集や調査の集大成とも言える「決定版」となる書籍の出版を決めました。
出版に向け、造詣が深い方たちと連携すると共に、新たに考古学や農学・神道学といった分野の方々へ取材も行います。日本の歴史に見る大麻、大麻栽培、自然布としての大麻、神道における大麻の位置づけ、大麻を取り巻く現状と課題など、大麻に関連する多様なテーマを取り扱う予定です。
これまで大麻に関する書籍というと、サブカルチャー的にマリファナを扱った書籍などはあるものの、「伝統」「資源」「農」といった切り口の書籍は、流通していません。誤解や偏見を解消していくためには、こうした書籍の出版が、非常に重要な取り組みだと考えています。


《書籍の概要》
・完成予定日:2016年12月
・制作主体:大麻博物館
・仕様:B5版/80〜100ページ/フルカラー
大麻博物館にご来場いただくと、大麻の歴史的な奥深さや資源としての可能性に興味抱き、その有用性に驚く方が非常に多いです。今回作成する書籍では、より多くの方々に、そのように思って頂けるチャンスだと考えています。
失われつつある文化を次世代へ継承できるよう、ご協力をお願いします!
近年、大麻は単に「違法な薬物」ではないという認識が、徐々に広まりつつあります。欧米での医療用大麻の解禁や、ヘンプの産業利用といった報道を目にした方もいるかも知れません。しかし、日本人が古来から、衣食住の様々な形で利用してきた「大麻」については、あまり目にすることはありません。これは非常に残念なことです。
そもそも大麻は、60〜70年前までは、くらし=生活文化の中に、当たり前にあったモノでした。しかし、現在の利便性や経済性を追求した生活の中では、顧みることが少なくなっています。大麻に限らず、こういった失われていった文化は多いのでしょうが、大麻はその象徴のように感じます。
日本で長い時間をかけて育まれた伝統を継承しつつ、新たなテクノロジーなどを取り入れ、次世代にも残せる何かにしていきたいと思います。そのためには、大麻に関する「正確な情報」を少しでも多くの方々に知っていただくことが必要不可欠です。今回の書籍出版は、その第一歩だと考えています。
皆様のご協力を、どうぞよろしくお願いします。
資金使途について
・印刷費
・取材移動費
・デザイン費 など
・取材移動費
・デザイン費 など
リターンについて
【3,000円】完成した書籍とお名前記載:
・完成した書籍送付 ・書籍の最終ページに、ご協力者さまとしてお名前を記載いたします。
【10,000円】完成した書籍とお名前記載+プロジェクト参加+オリジナルグッズ:
・完成した書籍送付 :
・書籍の最終ページに、ご協力者さまとしてお名前を記載いたします。
・書籍制作チームが行っている定例会議、もしくは取材への参加(どちらも関東での開催を想定しています。交通費などの実費はご負担ください。)
・現在製作中の大麻博物館オリジナルブレスレット、もしくはTシャツ
【30,000円】完成した書籍とお名前記載+プロジェクト参加+オリジナルグッズ+栃木大麻畑ツアー:
・完成した書籍送付 ・書籍の最終ページに、ご協力者さまとしてお名前を記載いたします。
・書籍制作チームが行っている定例会議、もしくは取材への参加(どちらも関東での開催を想定しています。交通費などの実費はご負担ください。)
・現在製作中の大麻博物館オリジナルブレスレット、もしくはTシャツ
・館長 高安が案内する栃木大麻畑ツアー(栃木県立博物館→医王寺→大麻農家という日帰りコースを考えています。現地までの交通費などの実費はご負担ください。)