旅行記はその地方の特質も見せるが、日本人の考えや行動もそこから
垣間見られる。「百代の過客」は、そのような想いから日本人の共通的な
意識を探し求めている。
「終わりより」には、以下の彼の想いが書かれている。
「私が日記に心を向けたのは、今日私が知る日本人と、いささかでも似通った
人間を、過去の著作の中に見出す喜びのためだったのである。最も優れた
日記は、その著者を最もよく表し、逆に最もつまらぬ日記は、先人の日記や
詩歌から学んだ歌枕の伝統を、ただいたずらに繰り返すのみである。
日本人はいにしえより今日に至るまで、読書によって知悉する風景を
己自身の目で確かめ、ところの名物を己も口にすることに、格別の喜びを
抱いてきた。1人ならずの批評家が、日本人は、文学から吸収した先入主
なしに、景色を眺めることもない、といったことがある。それは誇張という
ものであろう。だが、どこもかしこも同じ場所ばかり見ての印象をそれぞれ
並べ立てる、東海道の旅を描いた日記の数々を読むとき、そのような説にも
つい同意したくなってくる。年毎の年中行事であれ、また先輩歌人に詠われた
がゆえに名のでた地への旅であれ、体験の繰り返しこそ、まことに日本人
特有の習癖なのである」と言っている。
ここに選別された平安から江戸時代までの様々な旅日記は、現在の日本人にも
相通ずる点が多く、変わらぬ日本人の性向を感じることにもなる。
まず、中務内侍日記の中でキーンが言っている以下の言葉は、彼の底辺意識にある
基本なのであろうし、多くの日本人も感じていることでもあろう。
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」。
彼は松尾芭蕉の「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」
そして、「奥の細道」をあげて芭蕉の心根を深く知ろうとしている。
そして、それは日本人の持つ性向ともなるのであろう。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光だけではなく、
路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の詩に対する新鮮な刺激を
受けたいと、おそらく望んだからであろう。日記作者としての芭蕉の成功には、
実に目を瞠らされるものがある。「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学
作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記しただけだといい、
したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の譫言を聞くかのように
それを読んで貰いたいと読者に乞うている。にもかかわらず、そういうこと自体
芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたいと期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくためにだけに
書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、「万葉集」
から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、旅の中に、
彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の根源を見つけ出そう
とする欲求でもあったのだ。「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作った
という句「風流の初や奥の田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に
出会ったぞ、という心の高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、
自分がなぜ詩人になったのか、また他にどのような仕事を考えてみたか、
そして自分は、詩の到達すべき最高の目標は何と信じるか、などという事柄に
関する、まことに素直な意見を述べている」。
この文章にキーンの想いのすべてが見えるようでもある。
そしてそれが、彼の見たい日本人なのかもしれない。また、この気持ちは戦後の
日本ではその影を薄くし、我々がその原点として憧れる時代への回帰でもある。
芭蕉の言葉が持つ魔術を、一言で定義するのは容易ではない。だが次のような文章を
読む時、それが感じ取られる。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに
有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」。ここでは大和言葉と熟語とが、ま
さに完璧に融け合い、初期日記作者による文章と引き比べて、はるかに豊潤な肌合いと
簡潔さとを生み出している。そのくせ言葉は、読者の頭の中で、徐々に大きく成長す
るのである。
さらに、以下の3つからも日本人の性向が読み取れる。
改元紀行(大田南畝なんぽ)
彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う
文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、
其の地についての説明を傾聴している。
また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。
北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ
建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」
また、詩的な描写も多い。
此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き
谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに
打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて
蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。
そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。
今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに
我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、
「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。
この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、
一個求めて懐にしつ」。
西北紀行(貝原益軒)
巻頭の言葉より、
名区佳境の勝れたる処を見るは、只其の時暫し心を慰むるのみかは、幾年経ても
折々に、其の所々の有り様を思ひ出れば、さながら今目の前に見る心地して、
珍らかに懐かしければ、老いの身の後年まで忘られざらん為に、此年巡りし国郡
の境地を、拙き筆に任せて書き留め置ぬ。是れ身を終わるまでの思ひ出にせんとなり、
又我と志を同じくして名所に遊覧する事を始める人も、いまだ見ざる所多かんめれば、
斯かる人の為にも成れかしとて、聊いささか記して後覧に供ふる事然り。
「白河紀行」からは、
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。
西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。
本書を通じてキーンも書いているが、貫之も和泉式部も宗長も芭蕉も、べつだん
目新しいことをしたいなどとはまったく思っていない。古人が求めるところの
ものを辿って求めたい。まずそこなのだ。
「先人によって見逃された風光に初めて着目する野望は、毛筋ほども持ち
合わせなかった。それどころか、昔の歌に詠まれた所でなければ、いかに
壮麗無比の風景であろうと、芭蕉の感興を唆ることはなかったのである」と書く。
そこに新しい知性が微妙にはたらいていることを感じたいわけなのだ。
歌枕の作用というもの、花鳥風月というもの、旅の漂泊というもの、時の景気
というものが加わって、さらに和歌や俳諧の律動が胸をつくとき、日本人は
日記にさえ「風雅の直なる交ひ」を綴りたくなるのだ。
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