2016年4月23日土曜日

鉄の歴史メモ2

日本の金属の歴史

メソポタミア地方で発
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。


弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。 
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入 
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬 
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。 
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。 
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。 
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど、石型から始まっています。 
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。 
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来るようになります。 
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わっています。 
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。 
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

初期の石の鋳型合わせ型土型
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古墳時代 

古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。 
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。 
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。 
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代 

平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。 
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。 
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代

群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されていたことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国地方一帯に普及しました。 
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持できなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。 
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残されています。 
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、 
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型として鋳造しています。 
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがらくり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

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江戸時代

鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすことが出来ません。 
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。 
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられています。 
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。 
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建造などが必要となります。 
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各藩で争って築造されました。 
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。 
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。 
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造こしき炉

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「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)


鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
 グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
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 この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
 まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
 次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退
 最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日立金属HP
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
田野健 HP ( 48 設計業 )09/02/19 AM10 【印刷用へ
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言える。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本のたたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できていない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインドまで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のいずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われる。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧として国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたのか?)

製鉄の原料には鉄鉱石と砂鉄がありますが、私はてっきりと砂鉄を原料とする製造方法のほうが古いのだと思い込んでいました。

ところが、≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流≫だったのです。
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。≫
日本では、鉄鉱石はすぐに枯渇してしまったようです。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-11.html

≪古代吉備を探るⅡ 
連載第11回 限りある資源を大切に
文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武≫
 ≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉備」たらしめたと言えるでしょう。≫
 ≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。つまり、文字史料から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一本化する過渡的段階にあたると判断できます。≫
 ≪砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な存在があげられます。対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国されました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分に調達できなくなったと言えます≫

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
≪弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。≫
しかし、≪・・・5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。≫
≪弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。≫

≪いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。≫
≪この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう≫

引用は不充分でしょうが、確認したいことは次のことです。
① 日本では、製鉄は弥生時代後半から始まっていたようだ。
② 鉄原料は朝鮮半島に依存していたようだ。(ただし、日本にも遺跡はあった)
③ 日本では、製鉄の原料は鉄鉱石から砂鉄に移行した。


日本には鉄鉱石はそれほど埋蔵されていないようです。
たとえば、前回問題にした勿禁(ムルクム)の鉄鉱山は、今では採掘は中止されているようですが、最近まで行なわれていたようです。
最初に検索した時に、渡来人の研究をしている方たちの掲示板
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
の、製鉄集団の渡来’(2006年3/6)を目にして「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅」を知りました。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm

・佳村里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山・・6世紀・・製鉄遺跡は共通して山の端で平野が開ける小高い丘に立地している。
・凡魚里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山
・≪勿禁邑鉄鉱山・・・慶尚南道 梁山
洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めている、との事だった。≫

梁山(ヤンサン)の製鉄遺跡は6世紀のものだそうですから、勿禁邑鉄鉱山はずいぶんと長いこと稼動していたことになります。それでは余りに長すぎますから、当時の鉄鉱山は別の場所だったかもしれません。
それにしても、鉄鉱山は梁山(ヤンサン)地区にあったのでしょうから、日本の吉備の埋蔵量と比べると、雲泥の差であったことは想像できます。

鉄は当時大変な貴重品で、戦略物資だったようです。
弥生時代末期以降の鉄器の普及は朝鮮半島の鉄鉱石と技術者のおかげかもしれません。
ということは、古代日本にとって南朝鮮が領土の一部ということは、経済生産活動に構造上必要なことであったといえるでしょう。
失うようなことがあれば、大変な打撃となるわけです。
技術者だけを連れてきても、日本では鉄鉱石の埋蔵量が少ないために、すぐに壁に突き当たるはずです。

 白村江の敗戦により、日本は朝鮮の鉄鉱石を原料に使用できなくなり、(あっという間に、わずかな日本の鉄鉱山は枯渇し、交易で鉄鉱石または製品を輸入することはできたにしても)豊富に存在した砂鉄に製鉄の原料を移行せざるを得なくなったのでしょう。
 技術革新は行なわれたのでしょうが、最初は大変だったでしょう。
石油が入らなくなり、石炭に戻ったようなものだったかもしれません。(わかりませんが、多少はそういう状況に近かったのではないでしょうか)
 古事記の神功皇后のところでは、朝鮮・新羅が宝の国とされていました。
宝とは金とか銀とかの貴金属を指しているのかと考えましたから、ずいぶんと大げさな表現だと感じていました。しかし、鉄が宝だったと思えば納得できるのです。

さて、日本列島を揺るがす製鉄技術の導入は、247年の戦争が契機になったと思われます。(5世紀以前に製鉄は始まっていたはずです。大きな技術革新は5,6世紀だとしても)
当時、北九州は卑弥呼と卑弥弓呼の奴国があり、南朝鮮と緊密な関係で、既に製鉄文明を謳歌していたでしょう。(たぶん)
関門海峡はまるで封鎖されたような状況にあり、(実際に封鎖していたというのではありませんが、思いつきでいいますと、難民の流入があってもおかしくはありません。ちょっかいは熊襲だけではなかったかもしれません)瀬戸内以東と北九州の格差は大きかったと考えています。
この247~250年ごろが、日本列島の寒気の底でした。穀物生産も瀬戸内以東では最悪であったでしょう。
この格差是正がこの247年の戦争だったといえるのです。(今から思えば)

(以前に書いていますが、この戦争は、「記・紀」では『神武東征』として書かれていますが、実際の進路は逆で、スサノヲと兄・五瀬命が明石・須磨から北九州・奴国に攻め込んだものです。スサノヲは正面衝突では敗北しますが、奇襲によって、卑弥呼・卑弥弓呼を破ります。
卑弥呼・卑弥弓呼は亡くなり奴国は乱れますが、卑弥弓呼の娘・トヨが卑弥呼になり収まります。しかし、スサノヲは卑弥呼トヨを孕ませ(妊娠させ)たために、御子を産むために卑弥呼トヨは瀬戸内海を渡りスサノヲの元に行こうとします。・・・と同時に列島は温暖化に向かいます。・・以前に書いています。付け加えると、卑弥呼と同時かどうかはわかりませんが、農耕集団、製鉄集団も加わっていたのではないでしょうか)

 スサノヲは、後に半島に行ったものと思います。(以前は行く必要がないと考えていましたが、その必要はあったでしょう)
 どういう形態になったかは、わかりませんが、南朝鮮を押さえたはずです。そうでないと、鉄が日本に流入しないでしょう。
 鉄鉱山、製鉄所、技術者などを支配しようとしたはずです。
 スサノヲが朝鮮に渡っていたなら制圧していたはずです。(支配形態としてはゆるいものだったかもしれませんが)

 大和朝廷の朝鮮半島・任那に対する執着は、鉄に起因するところが大きいのではないか、というのが今回の仮説です。
 まとめると、概要文のようになります。
「古代日本での、製鉄の原料は、鉄鉱石から砂鉄に移ります。日本には鉄鉱石の埋蔵は少量でしたが、砂鉄は豊富にあったからです。
しかし、日本の鉄器文明の最初の契機は、朝鮮半島の鉄鉱石だったようです。
247年の北九州でのスサノヲと卑弥弓呼の戦争と、663年の白村江の戦いは、鉄に対する希求の表れだったと思えます。」

 

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