2016年4月23日土曜日

鉄の歴史メモ1

日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより

この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。 
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月 
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。


メソポタミア地方で発

日本の金属の歴史
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。 
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入 
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬 
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。 
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。 
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。 
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど、石型から始まっています。 
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。 
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来るようになります。 
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わっています。 
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。 
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

初期の石の鋳型合わせ型土型
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古墳時代 

古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。 
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。 
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。 
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代 

平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。 
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。 
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代

群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されていたことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国地方一帯に普及しました。 
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持できなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。 
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残されています。 
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、 
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型として鋳造しています。 
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがらくり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

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江戸時代

鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすことが出来ません。 
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。 
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられています。 
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。 
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建造などが必要となります。 
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各藩で争って築造されました。 
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。 
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。 
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造こしき炉

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「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)


鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
 グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
画像の確認
 この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
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 まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
 次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退
 最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日立金属HP
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
田野健 HP ( 48 設計業 )09/02/19 AM10 【印刷用へ
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言える。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本のたたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できていない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインドまで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のいずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われる。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧として国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたのか?)

 

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