猫たちとこの里を感じる。 雲が全てを覆い隠していた。 比良山系の頂のいまだ残る雪もまったくその雲の中に隠れ、わずかに杉の木立ちが 山の瀬戸際の切れ切れの底から顔を出している。 湖も一番手前の砂浜をわずかに見える程度で立ち尽くす雲の群れの中に隠されていた。 春を迎えるに辺り自然も色々と都合があるのであろうか、寒い冬の日と暖かい 春の日を交互に人間界に見せてくる。それは少し湿っているが、霞んだ蒼い空と 雨の日を交互に見せても来るのと同じ理由かもしれない。 清明は、4月5日ごろ。万物がすがすがしく明るく美しいころだ。 「暦便覧」には「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と 記されている。ここから西の地方では、様々な花が咲き乱れ、お花見シーズンになる。 全てが柔らかな光に照らされ、早朝の比良の山には、うっすらとした霞がたなびく。 春霞の中、樹々に清々しい新緑が芽吹きはじめる。その中で、山椒の花が開花し、 このごく短い期間に自宅で手摘みされた花山椒は、収穫もわずかで貴重な季節の 食材となり、やがて来る色とりどりの食べ物への先駆けとなる。 ラジオから河口恭吾の桜が流れている。 「僕がそばにいるよ 君を笑わせるから 桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう 、、、、、 まぶしい朝は何故か切なくて 理由をさがすように君を見つめていた 涙の夜は月の光に震えていたよ 二人で 、、、、、、、、、 いつもそばにいるよ 君を笑わせるから やわらかな風に吹かれ 君と歩いていこう、、、、、 君がいる 君がいる いつもそばにいるよ」 そして、この歌のような清純な世界とは対極にある生存への涙ぐましい世界もある。 春は冬の間凍りついていた多くの活動を一斉に解き放していた。 外の少し残る肌寒さが我が家では、一段とその強く感じられるが、若きエネルギーの 充満する家ではむしろ心地よい日々なのかもしれない。 そして、「桜」と言うこの季節には極めて多くの思い出を残すキーワードも徐々に 眼につき始めている。残念ながら我が家の桜はさくらんぼであり、その花と実を つけるのはもう少し時間が必要であるが、世間は桜と多くの花々の到来を 告げ始めていた。 ・桜さく比良の山風吹くままに 花になりゆく志賀の浦なみ 御京極 ・桜咲く比良の山風ふくなへに 花のさざ波寄する水海 大納言定国 更には、ドナルド・キーンの言う、 「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊 よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石 で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その 非永続性にほかならない」を、かみしめる頃でもある。 また、二十歳を超えたであろう老猫もいう。 「もう考えるのも面倒くさいほどの昔は、この辺も湖と比良山と周辺の森や林 だけだった。見えるのは、お寺と萱葺の家が数10軒肩を寄せ合うようにある だけだったし、俺たちも近くの漁港の余った魚をノンビリと食べて変わらぬ 日々を過ごしていた。周りの景色も白と灰色の世界からこの時分は畑の緑が 少し色をつけ、やがて緑色一色になり、一面が色とりどりのカラーの世界、 動物と植物が支配し、人間は片隅で動いていた。そんなのが同じ様に続いたよ。 白さ舞う冬からピンクや薄緑の草木の春となり、燃え立つ緑と湖のコントラスト の強い夏、最後には抜ける蒼さの下に広がる赤や黄色の秋、それが限りなく 続いていた」。40年ほど前まではその様々に色を変え、姿を変える自然の 中を茶色に塗られた2両続きの木造列車が走り抜けていた、と言う。 今の様なコンクリートのそっけもない列車ではなく、まるでどこでも乗り降り 自由なそのごとごとした揺れと音の列車は猫たちにとっても楽しい動くモノ でもあった。初めはそのような動くモノに警戒したものの、やがて猫たち にとっても、それを見ることが一つの楽しみとなった。 菜の花が咲き乱れる中を、桜が舞い落ちる季節を、雪が吹き付ける寒空の下を、 しっとりと降り注ぐ雨の中を、比良山と琵琶湖の間を縫うように毎日欠かさず 走るその姿に一種の感動を覚えるのだ。 さらに、「それは今も続くけど、やがて丘に沿って人間の家が上へ上へと伸びて グロテスクな世界が支配し始めたし、田圃や畑も姿を変えていったね、 面白くないけど」。 だが、生活の中に琵琶湖と比良の山並が滑り込んで、その古さと新しさの調和 を活かしている場所でもある。多くの古代文化の遺跡や古墳など形あるものは、 数百年の時により、消え去り埋没したかもしれないが、人は人をベースとする文化 は継続して残っていくし、自然も、皆生きていく。 千年前、都人が愛でたであろう情景は、今もここにある。 穀雨(こくう)とは、二十四節気の第6番目であり、4月20日ごろである。 田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころであり、穀雨とは、 穀物の成長を助ける雨のことである。そして、穀雨の終わりごろ(立夏直前) に八十八夜がある。春雨が地面に染み入り、芽を出させる頃となり、各地の 竹林では筍が収穫の時期を迎える。街の奥にある竹林でも、筍が元気な姿を 見せる。筍の魅力は、春を感じる独特の香りとコリコリとした独特の歯応え であり、それを楽しむ方法はここの郷土料理にはたくさんあるが、中でもよく 親しまれているのが佃煮。細かく刻み、木耳(きくらげ)や椎茸などと混ぜ 合せることで、食感が更に引き立つ。その味は、食べたものでしか分からない。 すでに彼方此方から桜の開花や花見の様子が伝えられていたが、このあたりは 少し遅い様で穀雨前後に桜も満開となる。公園や坂を少し下った道沿いの桜も まだ固く蕾のままである。 しかし、農作業はすでに始まり、田圃にも水が張られ、気の早い蛙は日夜その 独唱に励んでいる世でもある。水を湛え始めた田圃にも生気が蘇り、畦道にも 命の息吹が見えていた。ハコベの緑に加えタンポポの小さな黄色が幅を利かして いたし、紫の小さな花々がその横に一団となって咲いている。 気の早い人はすでにトラクターの騒がしい音を畑や田圃一杯に響かせている。 猫たちは、地元の長老猫から聞いたすでに数週間前には終わっていたが、 比良八講の様子をまるで本人がその場で見てきたかのように話すのを春の まどろみの中で、うつらうつらと聞いていた。 その日3月26日の様子は、 近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を 重ねていたね。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の 山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻すようだ。 山々もここから見ると蓬莱山、武奈岳などが何層にも重なり合い和邇から見える 景観よりも変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が 残っているものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていたよ。 途中で、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてきた。 その響きにあわせてやや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に 揺られるように手招きしている。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要 のための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても2メートルのほどの 高さのものであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、 比良八講の四字がたなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。 護摩壇の先には、蒼い湖が広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに 容赦なく注ぎ込まれ、更なるエネルギーを与えているようにも感じられた。 やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、 道を踏みしめるなどの様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていった。 そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。 背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で 談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。 俺も隠れながらその集団についていった。 そこには、信仰の重さは感じられないけど、明るさがあったね。 法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、 やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、 護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて 想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや 霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火 がかけられいくんだ。 杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて 行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。 下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、 ゴーと言う音ともに比良の山並みに向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、 周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。俺は無信仰だから横で 様子を見ていただけど、人間も結構いいことするな、と想ったよ。 雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。 松尾芭蕉も詠んでいる。 山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、 「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。 木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの 枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。 白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが 庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁 開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ のような小さな実をのぞかせている。 比良の若葉山の姿は、やはりこのあたりから見るのが良いように思った。 山並みの傾斜と直立する杉の木々との角度、これに対する見るものの位置が あたかもころあいになっているのである。 その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった 杉の樹の数と高さがわざわざ人が計画したもののように好く調和している。 猫たちの考えでは、山は山の自然に任せておけば、永くこの状態は 保ちえられると思っている。琵琶湖の水蒸気はいつでも春の木々を紺青にし、 これを取り囲むような色々の雑木に花なき寂しさを補わしめるような複雑な 光の濃淡を与える。山に分け入る人は、単によきときに遅れることなく、 静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、 自然の絵巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。 そんな事を考えながら、雑木林を抜け、街のはずれの竹林の中を落ち葉の かさかさする音と踏みしめる足元の心地よさを味わっていた。 通り過ぎる家々の壁はその陽射しの中で新しい灰色、キチンと刈り込まれた 生垣の緑色、庭の芝生も黄緑の色を濃くしていた。それに対抗する様にユキヤナギ の木々が5弁で雪白の小さな花を枝全体につけてその白さを誇っているよう に繁っている。雑草が一本も生えていない花壇には、クロッカスの紫の花が 行儀よく2列をなしている。家々は春の装いの最中なのだ。 |
2016年4月22日金曜日
志賀の里、清明と穀雨のころ
外国人の見た日本人と日本文化
外国人の見た日本人と日本文化
桂離宮の紹介で有名なブルーノ・タウト、多くの小説を書いた小泉八雲、
さらには滋賀に関係の深いフェノロサら、彼らの見た日本人と日本文化への
傾聴、傾倒から日本のそれを違った視点で見ることが出来るのでは、と思う。
1.タウトの場合、
タウトによれば、日本文化の本質は、
「簡潔、明確、清純」にあるという。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けているといっている。
ブルーノ・タウトは「画帖 桂離宮」のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、
言葉ではとうてい言い表すことができない。わずかに用材、塗装、極めて
控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙、これらの見事な調和を語る
のがせいぜいである。
外国人の目にいかにも珍しく思われるのは、障子を閉めきった部屋には深い
静けさを湛えているのに、障子をあけると絵のような庭があたかも家屋の
一部ででもあるかのように突然、私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ
出ることである。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ
考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を持ち、
庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである、と書いている。
さらには、都市の街並みに関しても、その醜悪さ、絶望的な全体感、など多く
の日本を理解する外国人たちが酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、
日本の伝統が生きているがゆえに高い評価となっている。
これはタウトの時代でなくとも、蜘蛛の巣の如くはりめぐらされた電線と複雑
怪奇な原色の看板が立ち並ぶ街中では今でも変わりなくその絶望的な景観
をさらしている。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と共に入ってきた
中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的でない」と見做す。
しかし、日本の民芸の良さを積極的に推し進めた柳宗悦とは多少の食い違いを
見せていた。その場の記録は残っていないのだが、のちにタウトが「柳の民芸」に
文句をつけたことは「げてものかハイカラか」というエッセイに残っている。
タウトは柳にもリーチにも敬意を払っていたし、とりわけ浜田庄司、富本憲吉、河井
寛次郎らの陶芸を褒めていた。なかでも富本の陶芸趣向を絶賛していた。しかし
「柳の民芸」には、使いっぱなしの「使い勝手の味」ばかり求めている傾向が強すぎて
「それらが持つ質感」が追求されていない物だとみなしたのだ。一方、柳のほうも
タウトのデザインは「頭から生まれている」という不満をもっていた。
このタウトと柳の食い違いには、なかなか興味深いものがある。
しかし、タウトの場合は、やはり他国人の視点、文化視点の違い、が
強いのでは、と感じる。
これは、柳宗悦の「手仕事の日本」の一文からも垣間見られる。
「、、、、さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、
2つの大きな基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは
歴史であります。自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と
言うのは人間が開発した努力の跡であります。どんなものも自然と人間との
交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。自然を仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、
前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種
多様な資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい
桐や杉を始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、
節のある楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を
待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。
柾目だとか木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を
寄せる国民は他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる
恩恵なのです。私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事を
見ました。何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。
更には、和辻哲郎の指摘にも相通じる。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。
2.小泉八雲のばあい
彼の「日本の面影」からいくつかの面白い一文が見られる。これらから
今の我々を見るとどうなのであろうか。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、
どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、
しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、
神道という存在に舌を巻くしかないのだ」。
特にキリスト文化の中で育まれた彼らにとって、万物がすべて、神という考え、
そのものがまず理解できないのではないだろうか。
更には、
「この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、
日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。
花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、
一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、
青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の
頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれる
のである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品
など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、
まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない」。
旅する中で、特に近世などから栄えた街の中で見る家並み、ふと出された茶器の彩と
形に懐かしい心を感じるときがある。八雲は、それを自身の生活と地元の人々との
肌触りから感じたのではないだろうか。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の
文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうである
からこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人
ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」。
この心のDNAは確かに受け継がれている。しかし、少しづつそれも消し去られよう
ともしている。
3.日本人の心を守ったフェノロサ
明治という変革と混乱の中で、廃仏毀釈という愚行を止めさせ、仏像や日本画を中心
とする日本文化の素晴らしさを日本人にあらためて認識させたのが、彼である。
特に、廃仏毀釈の大波にもまれていた日本、仏教文化は壊滅的な状態であった。
岡倉天心の言葉でいえば、「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が
古庭で吠えている」。明治という今までの社会の慣習、体制、文化が消えて行き、
仏像や仏教も消えてもよいのでは、という考えがあった情勢の中で、
実体としての仏像が壊されていくという現実があった。
明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は
海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、
土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
世相としても、例えば、当時の日本人について、ベルツの日記では、
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には、我々日本人に歴史
はありません。今から始まるのです、と言う人さえいる」と書かれている。
フェノロサ、岡倉天心は、日本人の精神がよりどころをなくし、その精神が浮遊する
ということを嘆き、フェノロサは「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と説いた。
これらにより、「日本独自の文化と精神にしっかりとした誇りを持つことが西洋と
対等に付き合うこととなる」とあらためて明治政府や関係者の意識の見直しを迫った。
彼の業績の1つに、法隆寺・夢殿の開扉がある。
内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)がある
ものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開
扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を
掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、
僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す。
「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも
忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯
のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。
布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある
最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を
経て我々の眼前に姿を現したのである。
救世観音は穏やかに微笑んでいた。立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。
世界は滅ばなかった」。
また、私の好きな聖林寺の十一面観音もまたフェノロサによって1887年に秘仏
の封印が解かれた。
三井寺法明院の緩やかな小路を杉の木立ちの木漏れ日の中を進むとそれほど大きいとは
言えない彼の墓所をみる。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂の
なかにフェノロサの墓石がひっそりとたたずむ。滋賀の人間として琵琶湖を愛し、
仏に帰依した彼に感動を禁じ得ない。
4.そのほか
イザベラ・バードは明治の初めに日本に来た。その「日本紀行」には、当時の日本人の
生活と我々の心根が描かれている。
「上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通り
で見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸の
へこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事という
ものがあったことです」。
さらに、
「日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべり
が特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なこと
において、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいて
は格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって
暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けて
きた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるよう
になります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつも
こちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです」。
当時の日本人の心根、立ち振る舞いがそこはかとなく伝わってくる。
ファン・オーフルメール・フィッセルの「日本風俗備考・1」には考えさせられる。
「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も
享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、
まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。、、、、
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度
という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには
行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。
、、、日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者
との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたってい
ることを知ることができよう」。
これは江戸時代訪れた彼の言葉である。今に照らしてみていかがであろうか。
イザべラの言葉と合わせ感じるのは、素朴さと勤勉さであろう。今日、われわれが
失いかけているものでもある。
さらには滋賀に関係の深いフェノロサら、彼らの見た日本人と日本文化への
傾聴、傾倒から日本のそれを違った視点で見ることが出来るのでは、と思う。
1.タウトの場合、
タウトによれば、日本文化の本質は、
「簡潔、明確、清純」にあるという。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けているといっている。
ブルーノ・タウトは「画帖 桂離宮」のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、
言葉ではとうてい言い表すことができない。わずかに用材、塗装、極めて
控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙、これらの見事な調和を語る
のがせいぜいである。
外国人の目にいかにも珍しく思われるのは、障子を閉めきった部屋には深い
静けさを湛えているのに、障子をあけると絵のような庭があたかも家屋の
一部ででもあるかのように突然、私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ
出ることである。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ
考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を持ち、
庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである、と書いている。
さらには、都市の街並みに関しても、その醜悪さ、絶望的な全体感、など多く
の日本を理解する外国人たちが酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、
日本の伝統が生きているがゆえに高い評価となっている。
これはタウトの時代でなくとも、蜘蛛の巣の如くはりめぐらされた電線と複雑
怪奇な原色の看板が立ち並ぶ街中では今でも変わりなくその絶望的な景観
をさらしている。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と共に入ってきた
中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的でない」と見做す。
しかし、日本の民芸の良さを積極的に推し進めた柳宗悦とは多少の食い違いを
見せていた。その場の記録は残っていないのだが、のちにタウトが「柳の民芸」に
文句をつけたことは「げてものかハイカラか」というエッセイに残っている。
タウトは柳にもリーチにも敬意を払っていたし、とりわけ浜田庄司、富本憲吉、河井
寛次郎らの陶芸を褒めていた。なかでも富本の陶芸趣向を絶賛していた。しかし
「柳の民芸」には、使いっぱなしの「使い勝手の味」ばかり求めている傾向が強すぎて
「それらが持つ質感」が追求されていない物だとみなしたのだ。一方、柳のほうも
タウトのデザインは「頭から生まれている」という不満をもっていた。
このタウトと柳の食い違いには、なかなか興味深いものがある。
しかし、タウトの場合は、やはり他国人の視点、文化視点の違い、が
強いのでは、と感じる。
これは、柳宗悦の「手仕事の日本」の一文からも垣間見られる。
「、、、、さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えて見ますと、
2つの大きな基礎があることに気付かれます。一つは自然であり、一つは
歴史であります。自然と言うのは、神が仕組む天与のもであり、歴史と
言うのは人間が開発した努力の跡であります。どんなものも自然と人間との
交わりから生み出されていきます。
中でも、自然こそは全ての物の基礎であるといわねばなりません。その力は
限りなく大きく終わりなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する
宗教が絶えないのは無理もありません。自然を仰ぐ信仰や山岳を敬う信心は
人間の抱く必然な感情でありました。、、、、、、
前にも述べました通り、寒暖の2つを共に育つこの国は、風土に従って多種
多様な資材に恵まれています。例を植物にとるといたしましょう。柔らかい
桐や杉を始めとして、松や桜やさては、堅い欅、栗、楢。黄色い桑や黒い黒柿、
節のある楓や柾目の檜、それぞれに異なった性質を示してわれわれの用途を
待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。
柾目だとか木目だとか、好みは細かく分かれます。こんなにも木の味に心を
寄せる国民は他にないでしょう。しかしそれは全て日本の地理からくる
恩恵なのです。私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然である事を
見ました。何者もこの自然を離れて存在することが出来ません」。
更には、和辻哲郎の指摘にも相通じる。
「この日本民族気概を観察するについては、まず、我々の親しむべく
愛すべき「自然」の影響が考えられなくてはならない。
我々の祖先は、この島国の気候風土が現在のような状態に確定した
頃から暫時この新状態に適応して、自らの心身状態をも変えて行った
に違いない。もし、そうであるならば、我々の考察する時代には、既に、
この風土の自然が彼らの血肉に浸透しきっていたはずである。
温和なこの国土の気候は、彼らの衝動を温和にし彼らの願望を
調和的にならしめたであろう」と。
そして、美濃和紙や各地の和紙、有田から備前などの焼き物、木曾檜の
木工品など結構好きで、旅したときはその地方の工芸品を見たり、
買ったりしてきたが、それらがその地域の自然と切り離しては、成り立たない、
と言うことをその度に、感じたものである。
2.小泉八雲のばあい
彼の「日本の面影」からいくつかの面白い一文が見られる。これらから
今の我々を見るとどうなのであろうか。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、
どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、
しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、
神道という存在に舌を巻くしかないのだ」。
特にキリスト文化の中で育まれた彼らにとって、万物がすべて、神という考え、
そのものがまず理解できないのではないだろうか。
更には、
「この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、
日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。
花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、
一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、
青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の
頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれる
のである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品
など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、
まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない」。
旅する中で、特に近世などから栄えた街の中で見る家並み、ふと出された茶器の彩と
形に懐かしい心を感じるときがある。八雲は、それを自身の生活と地元の人々との
肌触りから感じたのではないだろうか。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の
文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうである
からこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人
ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」。
この心のDNAは確かに受け継がれている。しかし、少しづつそれも消し去られよう
ともしている。
3.日本人の心を守ったフェノロサ
明治という変革と混乱の中で、廃仏毀釈という愚行を止めさせ、仏像や日本画を中心
とする日本文化の素晴らしさを日本人にあらためて認識させたのが、彼である。
特に、廃仏毀釈の大波にもまれていた日本、仏教文化は壊滅的な状態であった。
岡倉天心の言葉でいえば、「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が
古庭で吠えている」。明治という今までの社会の慣習、体制、文化が消えて行き、
仏像や仏教も消えてもよいのでは、という考えがあった情勢の中で、
実体としての仏像が壊されていくという現実があった。
明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は
海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、
土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。
世相としても、例えば、当時の日本人について、ベルツの日記では、
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には、我々日本人に歴史
はありません。今から始まるのです、と言う人さえいる」と書かれている。
フェノロサ、岡倉天心は、日本人の精神がよりどころをなくし、その精神が浮遊する
ということを嘆き、フェノロサは「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と説いた。
これらにより、「日本独自の文化と精神にしっかりとした誇りを持つことが西洋と
対等に付き合うこととなる」とあらためて明治政府や関係者の意識の見直しを迫った。
彼の業績の1つに、法隆寺・夢殿の開扉がある。
内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)がある
ものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開
扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を
掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、
僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。
フェノロサは記す。
「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも
忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯
のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。
布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある
最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を
経て我々の眼前に姿を現したのである。
救世観音は穏やかに微笑んでいた。立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。
世界は滅ばなかった」。
また、私の好きな聖林寺の十一面観音もまたフェノロサによって1887年に秘仏
の封印が解かれた。
三井寺法明院の緩やかな小路を杉の木立ちの木漏れ日の中を進むとそれほど大きいとは
言えない彼の墓所をみる。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂の
なかにフェノロサの墓石がひっそりとたたずむ。滋賀の人間として琵琶湖を愛し、
仏に帰依した彼に感動を禁じ得ない。
4.そのほか
イザベラ・バードは明治の初めに日本に来た。その「日本紀行」には、当時の日本人の
生活と我々の心根が描かれている。
「上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通り
で見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸の
へこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事という
ものがあったことです」。
さらに、
「日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべり
が特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なこと
において、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいて
は格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって
暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けて
きた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるよう
になります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつも
こちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです」。
当時の日本人の心根、立ち振る舞いがそこはかとなく伝わってくる。
ファン・オーフルメール・フィッセルの「日本風俗備考・1」には考えさせられる。
「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も
享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、
まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。、、、、
自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度
という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには
行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。
、、、日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者
との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたってい
ることを知ることができよう」。
これは江戸時代訪れた彼の言葉である。今に照らしてみていかがであろうか。
イザべラの言葉と合わせ感じるのは、素朴さと勤勉さであろう。今日、われわれが
失いかけているものでもある。
2016年4月13日水曜日
比良の鉄生産メモ志賀町史第1巻より
志賀町史第1巻にその記述がある。 P228 比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の 岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた 河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面 もしくは近接地を選んでいる。、、、、、 各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則 とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業 にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす 影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。 各遺跡間の距離が五〇〇メートルから七五〇メートル前後とかなり画一的 で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、 あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している のではないかと思わせるほどである。、、、、 本町域には現在一二か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、 現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓 が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド のようにもりあがっているものさえある。 本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる。 また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、 六世紀末と思われる。 続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り 用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平一四年七四三年十二月十七日)とある。 また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する 製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては 近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。 本町域にはすくなくとも二十基以上の炉があっておかしくない。 是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。 さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が七,八世紀には 操業していたようである。詳細は二四二ページにある。 さらに、本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の 一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では 一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から 精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が 作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡 単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための 送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び 出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産 の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で 出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や 大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる 場合も多くあった。、、、、 近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。 このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北 北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として 多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な 氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった 鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は 和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂 川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載 を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具 そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に 剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。 どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、 この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の 分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後 かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、 この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。 このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、 鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の 支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊) もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。 出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。 近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在 していたのであろうか。 本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から 催行していたことがうかがわれる。
2016年4月8日金曜日
名こそ惜しけれ、日本人の心根
このブログを書いて11年以上となった。最近は、日本人としての自分の
立ち位置について興味が寄ってきた。
司馬遼太郎が、日本人の心の原点は、坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」という。
これに共感する気持ちは高い。さらに、和辻哲郎の日本倫理思想史でも、
それは明確に言われている。
「武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が形成せられたのは、班田制度の衰退、
荘園の勃興と密接に連関した、数世紀にわたる事件である」。
新田開墾の活発化により荘園として各地に私有する土地が増えて行った。
これにより、その私領を守るための新たな武士という勢力が発達していく。
これを組織的にまとめて行ったのが、坂東武士の長となる鎌倉幕府であった。
幕府の基本は、武将と家人の主従関係をより強め、それを全国的な規模へと
広げたことにある。このように武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が
形成せられたのは、班田制度の衰退、荘園の勃興と密接に連関した、数世紀
にわたる事件である。その過程の中で、「坂東武士の習」と呼ばれる「主に
対する献身を核とする強力な主従関係」が構築されていった。
「武者の習」は、眼中に国家なく家族なく、ただ主従関係においてのみ献身を
要求する道徳である。
例えば、大場と北条氏の武士の忠義についての口論では、
「しかるに北条はこれを反駁していった。
欲は身を失うと言えり。まさなき大場が詞哉。
一旦の恩に耽りて重代の主を捨てんとや。
弓矢取身は言ば一つもたやすからず。
生ても死ても名こそ惜けれ。
この北条の言葉に、敵も味方も「道理」を認めて、一度にどっと笑ったという。
討論は大場の負けになったのである。もとよりこの描写は作者の責任に属する
ものであって、歴史的な真偽は保障の限りでないが、しかし少なくとも
作者にとっては、恩を領地の給与と同視することは、単なる「欲」に
過ぎなかった。当時の武士たちの常識は、かかる考え方を恥ずべきものとした。
重代の主君は、領地の給与という如き「一旦の恩」を超えて献身を要求しうる
権威なのである。そうなると、主君の恩はその実質を離れても存続する
ものになる。主従関係は領地関係を離れても存続しうる。恩賞は主君の
家人に対する「情」の表現であって、家人の献身的奉仕に対する代償なのではない。
恩賞を与えることのできなくなった主君でも、家人を「たのむ」という信頼の
態度においてその情を持ち続けた。この情に対応するのが家人の献身の情
であった。だから献身の情は「欲」を離れている。主君のための自己放擲が、
それ自身において貴いと感ぜられたのである。
以上の如くわれわれは、「武士の習」の核心が無我の実現にあることを
主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」
という如き深い価値観を持つことが出来たのである。
武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。
武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の
仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。
この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。
「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」
という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、
してみれば武士たちは、その主君に忠実でありさえすれば他の所行はいかに
乱暴でもよい、というわけではなかった。自己放擲の覚悟が常住坐臥に現れて
いなくてはならなかった。武士の行為の仕方として、武勇、信義、礼節、
廉恥、質素、などが重んじられて来たのは、その故であろう。、、、
武士の習は、武士階級が政権を握るにしたがって、法的にも表現せられている。
御成敗式目あるいは貞永式目がそれである。
もっともこの式目は、武士の主従関係そのものを法的に表現したものではない。
主従関係はもともと情誼社会的な関係として成立したものであって、法律的
関係ではなかった。式目は第一に、幕府がその家人を統制し、武士の間の
秩序を保つために、最小限度の違法行為とその刑罰を規定しているのであって、
家人の行為の仕方を全般的に規定しているのではない。第二にそれは「御成敗」
の式目という名が示しているように、裁判の規準を与えた法典である。
制定の目的は裁判の公平を期するにあった」。
更には、以下のようなことも注目される。
「この時代の倫理思想を示す著作としては、なお「十訓抄」を顧みて置かなくては
ならない。この書は、今昔物語、宇治拾遺物語の系統をひく説話集であって、
同じ流れの古今著聞集とはほぼ製作時期をおなじくするものであるが、しかし
他の著作と著しく異なっている点は、明らかに教訓を標榜し、少年のための
修身書たろうとしていることである。尤もこの傾向は本来存してはいた。
十箇条の教訓を掲げて数多くの説話を分類集録したものである。、、、、、
十訓の第一は、「可施人恵事」と題されている。人恵は仁恵の意味であるから、
人間の行為の最も根本的な仕方だといってよかろう。そう見れば、「人恵を
施すべきこと」が、「心ばせ振舞を定べし」と言い換えられている所以も
理解することが出来る。
、、、、、、
十訓の第二、「可離驕慢事」、第三、「不侮人倫事」、第四、「可誡人上事」
などがそれである。作者は驕慢の意義を説明して、おのれを高く評価し他の
人を見下すこと、おのれの考を最も好しとして他を用いぬこと、おのれの主人
妻子を最上と思うこと、その他、尚古癖、通人癖などをあげている。
それは一言でいえば自負心のことであろう。これを離れなくては仁を行うこと
が出来ないのみか、次々に他の悪徳を引き寄せてくる。まず問題になるのは、
人倫、即ち仲間の人々に対する侮蔑である。心に侮蔑があれば、「いふまじき
言をもいひ、すさまじきわざをもふるまう」に至り、逆に人から嫌われ軽しめ
られるであろう。だから侮蔑心を固く警戒し、人倫を尊ぶ謙遜な心持にならなくては
ならない」。
武士階級が力を持つに従い、これらの倫理的な考え方は、広く民衆も含め、
広がっていったのではないだろうか。これが、我々にも基本的な心根として、
今も受け継がれているように思う。
戦国時代にも以下のような道徳的な教えは広く伝わってきた。
・早雲寺殿二一箇条 これは法律というより道徳訓である。
・朝倉敏景一七箇条
・甲陽軍鑑 信玄家法などからなる法律的規定である。
などの事例もあるようだ。
更には、これらの流れの執着として、徳川家康の儒教の奨励がある。
元は、武士の生業について定められたのでろうが、彼らの行動や日常のつながりから
一般民衆まで、その心根は影響していったのでは、と思う。
その証がいまでも、我々にはなぜか親しみをもってこの言葉が心に刺さるのでは
ないのだろうか。
その証左の1つとして、
「士道の考えが優勢になったといっても、それは主として知識層の間でのこと
であって、広範な層に染み込んでいる献身の道徳の伝統を打破し去ることは
できなかった。
この伝統は義経記、曽我物語において活発に生き続けさらに舞本や浄瑠璃など
を通じて一般の民衆にも染み込んで行った。そうしてそれらはそのままに江戸
時代に流れ込み武士の間にも、民衆の間にも、きわめて優勢な思想として
残っていたのである。
だから献身の道徳としての武士の道が、江戸時代初期における常識となっていた
ことは、否定しがたい事実である。、、、、、、、
家康の文化政策によって振興された儒学でさえ、主として民間で発達したものである。
1つの時代の意識形態は支配階級によって作り出される、という命題は、ここに
通用しない」とある。
しかしながら、千年以上の時間経過はその変遷を強く迫ってもいる。
「日本の200年」でゴードン氏は、以下のように言っている。
「戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の
物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも
徳の喪失と伝統的価値観の風化に関する悲話だったのか。これらの見方
すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に
横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と
みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに
興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は
近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、
他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである」。
彼は、ここで「徳の喪失と伝統的価値観の風化に関する悲話」と言っているが、
我々が、「名こそ惜しけれ」と言われたときの想いがそれぞれに共感を与える
のは、まだまだ心根として生きているのである。
例えば、日本人の心根が上手く調和しながら、より未来へと引き継流れていく
事の事例には、西村茂樹の書いた「日本道徳論」についての一節を見るとなんとなく
理解できるのではないだろうか。
「その第1段には、「道徳学は現今日本において何ほど大切なる者なるか」と題し、
維新後の日本における道徳的標準の亡失を論じている。江戸時代の日本は儒道を
道徳の標準としていたが、維新の際これを廃棄し、代わりに神儒混淆の教えを
立てようとしたが、いずれも現今の「人智開達の度」に伴いうるものではない。
これが道徳論を書かせたという。
道徳学実施の仕組みとその条目の大意は、全く西洋哲学の法に従うべきとしている。
そのため、具体的な実施のための協会設立を提唱し、5つの具体的な事業を考えた。
第1は、「亡論を破す」であり、第2は「旧俗を矯正す」であり様々な悪習を
正すこと、第3は「防護の法を立つ」、第4は「善事を励む」、第5は「国民の
品性を作る」とし、町村における相互扶助の組織から、一身、家族、社会、
国民の立場における様々な道徳的心がけに至るまで継続的な努力を続けた。
儒教と西洋哲学との精粋をとり、両者の一致するところに道徳学の基礎を求めた
活動は成果を上げた。
教育勅語はこれら多くの人の活動を基盤として発布されたが、道徳のことに関して、
何か非常に権威ある教えへ、自由に批議するすることのできない教えとして、
国民に与えられた。こういう勅語を出しうる天皇は、憲法の規定した国の元首
としての天皇ではなく、国民の尊崇の対象としての天皇ではなくてはならない。
これは国民の全体性の表現者としての天皇であって、神話の時代には「日の御子」
として表象された。その伝統が、はるかに開花した後代においても、なお
感情の上に活きているのである。
勅語の第1段においては水戸学風の国体の考を掲げ、第2段において当時の
道徳的常識を反映した教えを説き、第3段においてこの教えが日本の伝統に
合するとともに普遍的に通用しうることを主張したものである」。
武士社会が土地の私有という大きな変革を転機として徐々にその新しい
倫理観を育んで行ったという過程を見ると、今世界的に起こっているフラット化
という変化が日本人の倫理観をも変革していくのではないか、という危惧が
生まれる。
1つ面白く思えるのは、今物的面で起こっている世界レベルでの変革が、
その基本は、1848年の「共産党宣言」に指摘されていることである。
因みに、この時期、日本は江戸時代末期であり、20年後には明治になる。
ヨーロッパを中心に革命や社会変化が急激になっていたが、日本はまだ、
長く続いた武士の社会であった。
「昔ながらの古めかしい固定観念や意見を拠り所にしている一定不変の凍り
ついた関係は一掃され、新たに形作られる物もすべて固まる前に時代遅れになる。
固体は溶けて消滅し、神聖は汚され、人間はついに、人生や他者との関係の実相
を、理性的な五感で受け止めざるを得なくなる。生産物を売るための市場を絶えず
拡大する必要性に迫られて、ブルジョアは地球上をせわしなく駆け巡る。あらゆる
場所で家庭を作り、定住し、つながりを結ぶ。ブルジョアの世界市場開拓によって、
生産物と各国での消費には、全世界共通の特徴が備わる。反動主義者は無念
だろうが、それは、産業の拠って立つ国家の基盤から生じたものである。
古くから確立していたその国に固有の産業は、とうに滅ぼされたか、あるいは
徐々に滅ぼされようとしている。
そうした産業を駆逐した新しい産業の導入が、すべての文明国の死活を左右する。
新しい産業では、国産の原料ではなく、遠隔地の原料を加工する。生産物は国内で
消費されるのではなく、地球のあらゆる場所で消費される。昔は様々な欲求を
国内生産だけで充たしていたが、いまは遠い国や地方の生産物によって欲求を
満たすことが求められる。かっては地方や国が閉じこもって自給自足していたが、
いまはあらゆる方面と交流し、世界各国が相互に依存している。物質ばかりでなく
知的生産物の面でも同じである。1つの国の知的創造が、共通の財産になる。
国家が偏向したり、狭い考えを持つことは、いよいよ難しくなり、無数の国や
地方の文芸から、1つの世界文芸が生まれる。
生産のためのあらゆる道具が急速に改良され、交通手段が飛躍的に便利になると、
ブルジョアはきわめて未開に近い国までひっくるめて、あらゆる国を文明社会
に取り込もうとする。商品価格の安さは、万里の長城をも打ち壊すことのできる
巨大な大砲に匹敵する威力がある。外国人を毛嫌いしている非文明人
すら降伏するだろう。絶滅を避けようとするなら、どの国もブルジョアの
生産方式に合わさざるを得ない。一言で言うなら、ブルジョアは、世界を
自分の姿そのままに作り変える。」
さらに、この宣言では「ブルジョワジは、人口、生産手段、財産の分散した
状態をだんだん廃止していきます。人口を密集させ、生産手段を集中し、
財産を少数の手に集めてしまいました。このことの必然的結果は政治的
中央集権でした。ばらばらの利害、法律、政府、課税制度をもつ独立した、
ないしゆるく結び付いた地方は、集まって一つの政府、一つの法体系、
一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国民
となったのです」
というように、フラット化が進むことにより、世界が全くの1つになる、
という姿も暗示しているのではなかろうか。それはこの日本人の持つ
「名こそ惜しけれ」という心根も変えていくのでは、そんな不安が
ふつふつと湧いてくる。
しかし、その一方である研究所が最近3万人を対象にした日本人の価値観の
調査の中で、「伝統」という因子分析では、
・人を立てる控えめな態度や精神性が大事だ
・いつも他人に礼儀正しく接するべきだ
・誰も見ていないときも、いつもルールに従うべきだ
・これまでの慣習に従うことが大事だ
という結果を得ているという。まだ「名こそ惜しけれ」の価値観、倫理観は
生きている、そんな思いも持っている。
立ち位置について興味が寄ってきた。
司馬遼太郎が、日本人の心の原点は、坂東武士の土着の倫理
「名こそ惜しけれ」という。
これに共感する気持ちは高い。さらに、和辻哲郎の日本倫理思想史でも、
それは明確に言われている。
「武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が形成せられたのは、班田制度の衰退、
荘園の勃興と密接に連関した、数世紀にわたる事件である」。
新田開墾の活発化により荘園として各地に私有する土地が増えて行った。
これにより、その私領を守るための新たな武士という勢力が発達していく。
これを組織的にまとめて行ったのが、坂東武士の長となる鎌倉幕府であった。
幕府の基本は、武将と家人の主従関係をより強め、それを全国的な規模へと
広げたことにある。このように武士的社会と呼んでよいような特殊な社会が
形成せられたのは、班田制度の衰退、荘園の勃興と密接に連関した、数世紀
にわたる事件である。その過程の中で、「坂東武士の習」と呼ばれる「主に
対する献身を核とする強力な主従関係」が構築されていった。
「武者の習」は、眼中に国家なく家族なく、ただ主従関係においてのみ献身を
要求する道徳である。
例えば、大場と北条氏の武士の忠義についての口論では、
「しかるに北条はこれを反駁していった。
欲は身を失うと言えり。まさなき大場が詞哉。
一旦の恩に耽りて重代の主を捨てんとや。
弓矢取身は言ば一つもたやすからず。
生ても死ても名こそ惜けれ。
この北条の言葉に、敵も味方も「道理」を認めて、一度にどっと笑ったという。
討論は大場の負けになったのである。もとよりこの描写は作者の責任に属する
ものであって、歴史的な真偽は保障の限りでないが、しかし少なくとも
作者にとっては、恩を領地の給与と同視することは、単なる「欲」に
過ぎなかった。当時の武士たちの常識は、かかる考え方を恥ずべきものとした。
重代の主君は、領地の給与という如き「一旦の恩」を超えて献身を要求しうる
権威なのである。そうなると、主君の恩はその実質を離れても存続する
ものになる。主従関係は領地関係を離れても存続しうる。恩賞は主君の
家人に対する「情」の表現であって、家人の献身的奉仕に対する代償なのではない。
恩賞を与えることのできなくなった主君でも、家人を「たのむ」という信頼の
態度においてその情を持ち続けた。この情に対応するのが家人の献身の情
であった。だから献身の情は「欲」を離れている。主君のための自己放擲が、
それ自身において貴いと感ぜられたのである。
以上の如くわれわれは、「武士の習」の核心が無我の実現にあることを
主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」
という如き深い価値観を持つことが出来たのである。
武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。
武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の
仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。
この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。
「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」
という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、
してみれば武士たちは、その主君に忠実でありさえすれば他の所行はいかに
乱暴でもよい、というわけではなかった。自己放擲の覚悟が常住坐臥に現れて
いなくてはならなかった。武士の行為の仕方として、武勇、信義、礼節、
廉恥、質素、などが重んじられて来たのは、その故であろう。、、、
武士の習は、武士階級が政権を握るにしたがって、法的にも表現せられている。
御成敗式目あるいは貞永式目がそれである。
もっともこの式目は、武士の主従関係そのものを法的に表現したものではない。
主従関係はもともと情誼社会的な関係として成立したものであって、法律的
関係ではなかった。式目は第一に、幕府がその家人を統制し、武士の間の
秩序を保つために、最小限度の違法行為とその刑罰を規定しているのであって、
家人の行為の仕方を全般的に規定しているのではない。第二にそれは「御成敗」
の式目という名が示しているように、裁判の規準を与えた法典である。
制定の目的は裁判の公平を期するにあった」。
更には、以下のようなことも注目される。
「この時代の倫理思想を示す著作としては、なお「十訓抄」を顧みて置かなくては
ならない。この書は、今昔物語、宇治拾遺物語の系統をひく説話集であって、
同じ流れの古今著聞集とはほぼ製作時期をおなじくするものであるが、しかし
他の著作と著しく異なっている点は、明らかに教訓を標榜し、少年のための
修身書たろうとしていることである。尤もこの傾向は本来存してはいた。
十箇条の教訓を掲げて数多くの説話を分類集録したものである。、、、、、
十訓の第一は、「可施人恵事」と題されている。人恵は仁恵の意味であるから、
人間の行為の最も根本的な仕方だといってよかろう。そう見れば、「人恵を
施すべきこと」が、「心ばせ振舞を定べし」と言い換えられている所以も
理解することが出来る。
、、、、、、
十訓の第二、「可離驕慢事」、第三、「不侮人倫事」、第四、「可誡人上事」
などがそれである。作者は驕慢の意義を説明して、おのれを高く評価し他の
人を見下すこと、おのれの考を最も好しとして他を用いぬこと、おのれの主人
妻子を最上と思うこと、その他、尚古癖、通人癖などをあげている。
それは一言でいえば自負心のことであろう。これを離れなくては仁を行うこと
が出来ないのみか、次々に他の悪徳を引き寄せてくる。まず問題になるのは、
人倫、即ち仲間の人々に対する侮蔑である。心に侮蔑があれば、「いふまじき
言をもいひ、すさまじきわざをもふるまう」に至り、逆に人から嫌われ軽しめ
られるであろう。だから侮蔑心を固く警戒し、人倫を尊ぶ謙遜な心持にならなくては
ならない」。
武士階級が力を持つに従い、これらの倫理的な考え方は、広く民衆も含め、
広がっていったのではないだろうか。これが、我々にも基本的な心根として、
今も受け継がれているように思う。
戦国時代にも以下のような道徳的な教えは広く伝わってきた。
・早雲寺殿二一箇条 これは法律というより道徳訓である。
・朝倉敏景一七箇条
・甲陽軍鑑 信玄家法などからなる法律的規定である。
などの事例もあるようだ。
更には、これらの流れの執着として、徳川家康の儒教の奨励がある。
元は、武士の生業について定められたのでろうが、彼らの行動や日常のつながりから
一般民衆まで、その心根は影響していったのでは、と思う。
その証がいまでも、我々にはなぜか親しみをもってこの言葉が心に刺さるのでは
ないのだろうか。
その証左の1つとして、
「士道の考えが優勢になったといっても、それは主として知識層の間でのこと
であって、広範な層に染み込んでいる献身の道徳の伝統を打破し去ることは
できなかった。
この伝統は義経記、曽我物語において活発に生き続けさらに舞本や浄瑠璃など
を通じて一般の民衆にも染み込んで行った。そうしてそれらはそのままに江戸
時代に流れ込み武士の間にも、民衆の間にも、きわめて優勢な思想として
残っていたのである。
だから献身の道徳としての武士の道が、江戸時代初期における常識となっていた
ことは、否定しがたい事実である。、、、、、、、
家康の文化政策によって振興された儒学でさえ、主として民間で発達したものである。
1つの時代の意識形態は支配階級によって作り出される、という命題は、ここに
通用しない」とある。
しかしながら、千年以上の時間経過はその変遷を強く迫ってもいる。
「日本の200年」でゴードン氏は、以下のように言っている。
「戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の
物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも
徳の喪失と伝統的価値観の風化に関する悲話だったのか。これらの見方
すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に
横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と
みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに
興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は
近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、
他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである」。
彼は、ここで「徳の喪失と伝統的価値観の風化に関する悲話」と言っているが、
我々が、「名こそ惜しけれ」と言われたときの想いがそれぞれに共感を与える
のは、まだまだ心根として生きているのである。
例えば、日本人の心根が上手く調和しながら、より未来へと引き継流れていく
事の事例には、西村茂樹の書いた「日本道徳論」についての一節を見るとなんとなく
理解できるのではないだろうか。
「その第1段には、「道徳学は現今日本において何ほど大切なる者なるか」と題し、
維新後の日本における道徳的標準の亡失を論じている。江戸時代の日本は儒道を
道徳の標準としていたが、維新の際これを廃棄し、代わりに神儒混淆の教えを
立てようとしたが、いずれも現今の「人智開達の度」に伴いうるものではない。
これが道徳論を書かせたという。
道徳学実施の仕組みとその条目の大意は、全く西洋哲学の法に従うべきとしている。
そのため、具体的な実施のための協会設立を提唱し、5つの具体的な事業を考えた。
第1は、「亡論を破す」であり、第2は「旧俗を矯正す」であり様々な悪習を
正すこと、第3は「防護の法を立つ」、第4は「善事を励む」、第5は「国民の
品性を作る」とし、町村における相互扶助の組織から、一身、家族、社会、
国民の立場における様々な道徳的心がけに至るまで継続的な努力を続けた。
儒教と西洋哲学との精粋をとり、両者の一致するところに道徳学の基礎を求めた
活動は成果を上げた。
教育勅語はこれら多くの人の活動を基盤として発布されたが、道徳のことに関して、
何か非常に権威ある教えへ、自由に批議するすることのできない教えとして、
国民に与えられた。こういう勅語を出しうる天皇は、憲法の規定した国の元首
としての天皇ではなく、国民の尊崇の対象としての天皇ではなくてはならない。
これは国民の全体性の表現者としての天皇であって、神話の時代には「日の御子」
として表象された。その伝統が、はるかに開花した後代においても、なお
感情の上に活きているのである。
勅語の第1段においては水戸学風の国体の考を掲げ、第2段において当時の
道徳的常識を反映した教えを説き、第3段においてこの教えが日本の伝統に
合するとともに普遍的に通用しうることを主張したものである」。
武士社会が土地の私有という大きな変革を転機として徐々にその新しい
倫理観を育んで行ったという過程を見ると、今世界的に起こっているフラット化
という変化が日本人の倫理観をも変革していくのではないか、という危惧が
生まれる。
1つ面白く思えるのは、今物的面で起こっている世界レベルでの変革が、
その基本は、1848年の「共産党宣言」に指摘されていることである。
因みに、この時期、日本は江戸時代末期であり、20年後には明治になる。
ヨーロッパを中心に革命や社会変化が急激になっていたが、日本はまだ、
長く続いた武士の社会であった。
「昔ながらの古めかしい固定観念や意見を拠り所にしている一定不変の凍り
ついた関係は一掃され、新たに形作られる物もすべて固まる前に時代遅れになる。
固体は溶けて消滅し、神聖は汚され、人間はついに、人生や他者との関係の実相
を、理性的な五感で受け止めざるを得なくなる。生産物を売るための市場を絶えず
拡大する必要性に迫られて、ブルジョアは地球上をせわしなく駆け巡る。あらゆる
場所で家庭を作り、定住し、つながりを結ぶ。ブルジョアの世界市場開拓によって、
生産物と各国での消費には、全世界共通の特徴が備わる。反動主義者は無念
だろうが、それは、産業の拠って立つ国家の基盤から生じたものである。
古くから確立していたその国に固有の産業は、とうに滅ぼされたか、あるいは
徐々に滅ぼされようとしている。
そうした産業を駆逐した新しい産業の導入が、すべての文明国の死活を左右する。
新しい産業では、国産の原料ではなく、遠隔地の原料を加工する。生産物は国内で
消費されるのではなく、地球のあらゆる場所で消費される。昔は様々な欲求を
国内生産だけで充たしていたが、いまは遠い国や地方の生産物によって欲求を
満たすことが求められる。かっては地方や国が閉じこもって自給自足していたが、
いまはあらゆる方面と交流し、世界各国が相互に依存している。物質ばかりでなく
知的生産物の面でも同じである。1つの国の知的創造が、共通の財産になる。
国家が偏向したり、狭い考えを持つことは、いよいよ難しくなり、無数の国や
地方の文芸から、1つの世界文芸が生まれる。
生産のためのあらゆる道具が急速に改良され、交通手段が飛躍的に便利になると、
ブルジョアはきわめて未開に近い国までひっくるめて、あらゆる国を文明社会
に取り込もうとする。商品価格の安さは、万里の長城をも打ち壊すことのできる
巨大な大砲に匹敵する威力がある。外国人を毛嫌いしている非文明人
すら降伏するだろう。絶滅を避けようとするなら、どの国もブルジョアの
生産方式に合わさざるを得ない。一言で言うなら、ブルジョアは、世界を
自分の姿そのままに作り変える。」
さらに、この宣言では「ブルジョワジは、人口、生産手段、財産の分散した
状態をだんだん廃止していきます。人口を密集させ、生産手段を集中し、
財産を少数の手に集めてしまいました。このことの必然的結果は政治的
中央集権でした。ばらばらの利害、法律、政府、課税制度をもつ独立した、
ないしゆるく結び付いた地方は、集まって一つの政府、一つの法体系、
一つの国民的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国民
となったのです」
というように、フラット化が進むことにより、世界が全くの1つになる、
という姿も暗示しているのではなかろうか。それはこの日本人の持つ
「名こそ惜しけれ」という心根も変えていくのでは、そんな不安が
ふつふつと湧いてくる。
しかし、その一方である研究所が最近3万人を対象にした日本人の価値観の
調査の中で、「伝統」という因子分析では、
・人を立てる控えめな態度や精神性が大事だ
・いつも他人に礼儀正しく接するべきだ
・誰も見ていないときも、いつもルールに従うべきだ
・これまでの慣習に従うことが大事だ
という結果を得ているという。まだ「名こそ惜しけれ」の価値観、倫理観は
生きている、そんな思いも持っている。
ドナルド・キーン百代の過客より日本人の心
旅行記はその地方の特質も見せるが、日本人の考えや行動もそこから
垣間見られる。「百代の過客」は、そのような想いから日本人の共通的な
意識を探し求めている。
「終わりより」には、以下の彼の想いが書かれている。
「私が日記に心を向けたのは、今日私が知る日本人と、いささかでも似通った
人間を、過去の著作の中に見出す喜びのためだったのである。最も優れた
日記は、その著者を最もよく表し、逆に最もつまらぬ日記は、先人の日記や
詩歌から学んだ歌枕の伝統を、ただいたずらに繰り返すのみである。
日本人はいにしえより今日に至るまで、読書によって知悉する風景を
己自身の目で確かめ、ところの名物を己も口にすることに、格別の喜びを
抱いてきた。1人ならずの批評家が、日本人は、文学から吸収した先入主
なしに、景色を眺めることもない、といったことがある。それは誇張という
ものであろう。だが、どこもかしこも同じ場所ばかり見ての印象をそれぞれ
並べ立てる、東海道の旅を描いた日記の数々を読むとき、そのような説にも
つい同意したくなってくる。年毎の年中行事であれ、また先輩歌人に詠われた
がゆえに名のでた地への旅であれ、体験の繰り返しこそ、まことに日本人
特有の習癖なのである」と言っている。
ここに選別された平安から江戸時代までの様々な旅日記は、現在の日本人にも
相通ずる点が多く、変わらぬ日本人の性向を感じることにもなる。
まず、中務内侍日記の中でキーンが言っている以下の言葉は、彼の底辺意識にある
基本なのであろうし、多くの日本人も感じていることでもあろう。
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」。
彼は松尾芭蕉の「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」
そして、「奥の細道」をあげて芭蕉の心根を深く知ろうとしている。
そして、それは日本人の持つ性向ともなるのであろう。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光だけではなく、
路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の詩に対する新鮮な刺激を
受けたいと、おそらく望んだからであろう。日記作者としての芭蕉の成功には、
実に目を瞠らされるものがある。「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学
作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記しただけだといい、
したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の譫言を聞くかのように
それを読んで貰いたいと読者に乞うている。にもかかわらず、そういうこと自体
芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたいと期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくためにだけに
書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、「万葉集」
から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、旅の中に、
彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の根源を見つけ出そう
とする欲求でもあったのだ。「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作った
という句「風流の初や奥の田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に
出会ったぞ、という心の高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、
自分がなぜ詩人になったのか、また他にどのような仕事を考えてみたか、
そして自分は、詩の到達すべき最高の目標は何と信じるか、などという事柄に
関する、まことに素直な意見を述べている」。
この文章にキーンの想いのすべてが見えるようでもある。
そしてそれが、彼の見たい日本人なのかもしれない。また、この気持ちは戦後の
日本ではその影を薄くし、我々がその原点として憧れる時代への回帰でもある。
芭蕉の言葉が持つ魔術を、一言で定義するのは容易ではない。だが次のような文章を
読む時、それが感じ取られる。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに
有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」。ここでは大和言葉と熟語とが、ま
さに完璧に融け合い、初期日記作者による文章と引き比べて、はるかに豊潤な肌合いと
簡潔さとを生み出している。そのくせ言葉は、読者の頭の中で、徐々に大きく成長す
るのである。
さらに、以下の3つからも日本人の性向が読み取れる。
改元紀行(大田南畝なんぽ)
彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う
文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、
其の地についての説明を傾聴している。
また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。
北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ
建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」
また、詩的な描写も多い。
此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き
谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに
打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて
蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。
そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。
今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに
我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、
「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。
この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、
一個求めて懐にしつ」。
西北紀行(貝原益軒)
巻頭の言葉より、
名区佳境の勝れたる処を見るは、只其の時暫し心を慰むるのみかは、幾年経ても
折々に、其の所々の有り様を思ひ出れば、さながら今目の前に見る心地して、
珍らかに懐かしければ、老いの身の後年まで忘られざらん為に、此年巡りし国郡
の境地を、拙き筆に任せて書き留め置ぬ。是れ身を終わるまでの思ひ出にせんとなり、
又我と志を同じくして名所に遊覧する事を始める人も、いまだ見ざる所多かんめれば、
斯かる人の為にも成れかしとて、聊いささか記して後覧に供ふる事然り。
「白河紀行」からは、
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。
西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。
本書を通じてキーンも書いているが、貫之も和泉式部も宗長も芭蕉も、べつだん
目新しいことをしたいなどとはまったく思っていない。古人が求めるところの
ものを辿って求めたい。まずそこなのだ。
「先人によって見逃された風光に初めて着目する野望は、毛筋ほども持ち
合わせなかった。それどころか、昔の歌に詠まれた所でなければ、いかに
壮麗無比の風景であろうと、芭蕉の感興を唆ることはなかったのである」と書く。
そこに新しい知性が微妙にはたらいていることを感じたいわけなのだ。
歌枕の作用というもの、花鳥風月というもの、旅の漂泊というもの、時の景気
というものが加わって、さらに和歌や俳諧の律動が胸をつくとき、日本人は
日記にさえ「風雅の直なる交ひ」を綴りたくなるのだ。
垣間見られる。「百代の過客」は、そのような想いから日本人の共通的な
意識を探し求めている。
「終わりより」には、以下の彼の想いが書かれている。
「私が日記に心を向けたのは、今日私が知る日本人と、いささかでも似通った
人間を、過去の著作の中に見出す喜びのためだったのである。最も優れた
日記は、その著者を最もよく表し、逆に最もつまらぬ日記は、先人の日記や
詩歌から学んだ歌枕の伝統を、ただいたずらに繰り返すのみである。
日本人はいにしえより今日に至るまで、読書によって知悉する風景を
己自身の目で確かめ、ところの名物を己も口にすることに、格別の喜びを
抱いてきた。1人ならずの批評家が、日本人は、文学から吸収した先入主
なしに、景色を眺めることもない、といったことがある。それは誇張という
ものであろう。だが、どこもかしこも同じ場所ばかり見ての印象をそれぞれ
並べ立てる、東海道の旅を描いた日記の数々を読むとき、そのような説にも
つい同意したくなってくる。年毎の年中行事であれ、また先輩歌人に詠われた
がゆえに名のでた地への旅であれ、体験の繰り返しこそ、まことに日本人
特有の習癖なのである」と言っている。
ここに選別された平安から江戸時代までの様々な旅日記は、現在の日本人にも
相通ずる点が多く、変わらぬ日本人の性向を感じることにもなる。
まず、中務内侍日記の中でキーンが言っている以下の言葉は、彼の底辺意識にある
基本なのであろうし、多くの日本人も感じていることでもあろう。
「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない」。
彼は松尾芭蕉の「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」
そして、「奥の細道」をあげて芭蕉の心根を深く知ろうとしている。
そして、それは日本人の持つ性向ともなるのであろう。
「芭蕉がよく旅に出かけたのは、過去の詩人に霊感を与えた自然の風光だけではなく、
路上や旅籠で行くずりに得た人間的な経験からも、自分の詩に対する新鮮な刺激を
受けたいと、おそらく望んだからであろう。日記作者としての芭蕉の成功には、
実に目を瞠らされるものがある。「奥の細道」ほど広く読まれた日本の古典文学
作品は、他にそうあるまい。
ところが芭蕉は、自分の日記を文学作品にしようという意図はを、一切否定している。
「笈の小文」では、さまざまな自分の回想を、ただ雑然と書き記しただけだといい、
したがって酔っぱらいの狂乱の言葉、眠っている人間の譫言を聞くかのように
それを読んで貰いたいと読者に乞うている。にもかかわらず、そういうこと自体
芭蕉が自分の日記を人に読んで貰いたいと期待していたことを証明している。
したがって、それは、忘れえぬ事どもを、単に自分の記憶に留めておくためにだけに
書いたものでは、決してなかったのである。
芭蕉の日記は、自己発見の表現でもあった。彼にそれを書かせたのは、「万葉集」
から今日まで、日本の文学に一貫して流れる旅を愛する心ではなく、旅の中に、
彼自身の芸術の、ひいては人として、詩人としての、自己存在の根源を見つけ出そう
とする欲求でもあったのだ。「奥」に入ろうと、白河の関を越えたあとで作った
という句「風流の初や奥の田植うた」の中には、いよいよ文学的創造の端緒に
出会ったぞ、という心の高ぶりが読み取れる。他のいくつかの日記では、
自分がなぜ詩人になったのか、また他にどのような仕事を考えてみたか、
そして自分は、詩の到達すべき最高の目標は何と信じるか、などという事柄に
関する、まことに素直な意見を述べている」。
この文章にキーンの想いのすべてが見えるようでもある。
そしてそれが、彼の見たい日本人なのかもしれない。また、この気持ちは戦後の
日本ではその影を薄くし、我々がその原点として憧れる時代への回帰でもある。
芭蕉の言葉が持つ魔術を、一言で定義するのは容易ではない。だが次のような文章を
読む時、それが感じ取られる。「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに
有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」。ここでは大和言葉と熟語とが、ま
さに完璧に融け合い、初期日記作者による文章と引き比べて、はるかに豊潤な肌合いと
簡潔さとを生み出している。そのくせ言葉は、読者の頭の中で、徐々に大きく成長す
るのである。
さらに、以下の3つからも日本人の性向が読み取れる。
改元紀行(大田南畝なんぽ)
彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う
文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、
其の地についての説明を傾聴している。
また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。
北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ
建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」
また、詩的な描写も多い。
此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き
谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに
打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて
蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。
そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。
今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに
我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、
「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。
この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、
一個求めて懐にしつ」。
西北紀行(貝原益軒)
巻頭の言葉より、
名区佳境の勝れたる処を見るは、只其の時暫し心を慰むるのみかは、幾年経ても
折々に、其の所々の有り様を思ひ出れば、さながら今目の前に見る心地して、
珍らかに懐かしければ、老いの身の後年まで忘られざらん為に、此年巡りし国郡
の境地を、拙き筆に任せて書き留め置ぬ。是れ身を終わるまでの思ひ出にせんとなり、
又我と志を同じくして名所に遊覧する事を始める人も、いまだ見ざる所多かんめれば、
斯かる人の為にも成れかしとて、聊いささか記して後覧に供ふる事然り。
「白河紀行」からは、
「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたい
という願望からであった。ただ、当時このような旅の仕方をした連歌者は
少なくなかった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先で歓待を
受ける形で現れた。また、地方有力者の文化への憧れがそれを推し進めた
とも言える。
宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。
荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。
「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」
もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、
誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、
那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」
彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。
彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ
特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。
西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい
霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。
芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を
もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。
白河の関明神の神々しさに、
「苔を軒端とし、紅葉をゐ垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、
木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめかがきに、兼盛、能因
ここにぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり
侍らんも中々なれど、皆思い余りて、、」
そして、
「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」
「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」、、」とある。
本書を通じてキーンも書いているが、貫之も和泉式部も宗長も芭蕉も、べつだん
目新しいことをしたいなどとはまったく思っていない。古人が求めるところの
ものを辿って求めたい。まずそこなのだ。
「先人によって見逃された風光に初めて着目する野望は、毛筋ほども持ち
合わせなかった。それどころか、昔の歌に詠まれた所でなければ、いかに
壮麗無比の風景であろうと、芭蕉の感興を唆ることはなかったのである」と書く。
そこに新しい知性が微妙にはたらいていることを感じたいわけなのだ。
歌枕の作用というもの、花鳥風月というもの、旅の漂泊というもの、時の景気
というものが加わって、さらに和歌や俳諧の律動が胸をつくとき、日本人は
日記にさえ「風雅の直なる交ひ」を綴りたくなるのだ。
2016年4月7日木曜日
外国人の見た日本文化、日本人
外国人観光客が日本で最も感動した点として、京都などの神社仏閣以上に、“新幹線ホ
ームに整然と体育座りしている修学旅行生(小学生)たちの姿”を挙げるなど、我々日
本人とは異なる視点からの日本評価に驚くことはとても多い。
「ジョハリの窓」を持ち出すまでもなく、「他国民は知っていても自国民は知らない自
国の姿」というものが産業・観光分野においても多々存在する。
また、バブル崩壊以降の長期低迷を通じて日本人がすっかり自信を失ってしまったのに
反し、諸外国においては今や“空前の日本ブーム”であり、その温度差が著しく拡大し
ているという現実もある。
そうした背景もあって、特に今年に入ってから、民放キー局の番組編成においても“外
国人から見た日本の魅力”をテーマにした番組が花盛りになっている。
そこで本稿では、“外からの視点で見た日本”という方向性を踏襲しつつも、それを歴
史的視点から捉え直し、幕末から昭和・戦前期までに日本を訪問した外国人が、日本の
どんな点に注目し、それをどのように評価してきたか、という点を検討してみたい。
それを通じて、日本や日本人が本来的に有していた美質で、今なお気がついていない点
はないか、あるいは、いつしか忘れ去ってしまったものはないか、などを確認し、そう
した美質を活用しての地方創生につなげることができればと願う次第である。
もちろん、日本を訪問した外国人と言っても、その質において多様である。
ここでは、一過性の旅行者ではなく、明確な問題意識を持って日本を訪れ、
長期滞在した人物に限定したい。それによって、表層的な“異国趣味”で
日本を礼賛するような向きを排除し、専門性をベースにした忌憚のない
評価・意見を抽出する。
こうした観点から今回調査した結果浮かび上がってきた彼ら共通の関心事・
評価ポイントは4つ、すなわち「建築」、「工芸」、「子ども」、「女性」
であり、これを順に見ていきたい。
日本文化の本質はどこに?タウトによれば、日本文化の本質は、
“簡潔”、“明確”、“清純”にある。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けている。
そして、日本文化のこうした特質は時代を超えて“現代的”であり続け、
それを追求することこそが、日本が世界に貢献できる一番の道であると、
彼は喝破しているのである。
実際、19世紀末以降、日本のそうした本質的要素が、建築・美術・工芸
などの分野を中心に、欧米各国に革命的な影響を及ぼしてきたことは
歴史が証明する通りである。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と
共に入ってきた中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的
でない」と見做す。
そういう意味で、徳川将軍家の権勢を誇示すべく造成された日光東照宮
の豪華絢爛は、「俗悪」という評価になる。そこからの当然の帰結として、
明治以降の「文明開化」で中途半端に欧米化した日本の都市の街並みや
建築物に対する評価は厳しい。
興味深いことに、以上のような見方は、タウトに限ったものではなく、
“知日派”外国人に共通している。
都市の街並みに関して、「醜悪」「絶望的な全体感」など各人各様に
酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、日本の伝統が生きている
がゆえに高い評価となる。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850~1904)は、「日本の面影」
(1894)の中で、文学者らしい評価をしている。
日本の建築に関する発言で最も注目されるのは、「日本美の再発見」
(1939)などの著者で、ドイツの建築家のブルーノ・タウト
(1880~1938)である。
彼は言う。「桂離宮は、伊勢の外宮と共に、日本建築が生んだ世界標準
の作品と称してさしつかえない」と。
「名画のようなこの町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子
に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、青、金色のおびただしい
漢字とかなの賜物ではなかろうか」
ハーンによれば、“肉筆で書かれた”日本の表意文字(漢字・かな)
こそは、生き物として人に語りかけ訴えかけてくる魅惑的な存在であり、
それが町中にあふれていることの素晴らしさを彼は称賛しているのである。
現代において、諸外国の若い世代が、漢字のタトゥーを入れることを
好んでいるのと一脈通じるものがあろう。
伝統工芸の光と影と
幕末期にスイス政府を代表して条約交渉のため訪日したエメェ・アンベール(1819~19
00)は、日本の工芸品を絶賛する。
「私はその特性を、上品な風格にあると断定する」「江戸の職人は真の芸術家である」
(「絵で見る幕末日本」より)。
しかし、その後の「開国」で、日本の伝統工芸をめぐる状況は一変する。
アメリカの人文地理学者で、明治期にたびたび訪日し、人力車で全国を駆け巡った
エリザ・R・シドモア(1856~1928)は、「シドモア日本紀行」の中で、こう指摘する
。
「西洋の手本や教育、貿易上の無知な注文は、島帝国ニッポンに芸術的荒廃をもたらし
ました。外国の指図に従っているところはどこも素朴な製品の質が低下して俗悪となり
、しかも安っぽくなりました」と。
女はその典型を、当時すでにイギリスのスタッフォードシャーと並ぶ世界的陶磁器産地
として有名になっていた瀬戸(周辺)の陶磁器(瀬戸物)に見出す。
「名古屋や瀬戸は粗悪な装飾の磁器茶壺によって豊かになり幸せになりました。
つまり、芸術が消えるということは産業が潤うということです!」
その一方において、シドモアは、三重県伝統の「萬(ばん)古焼(こやき)」のクオリティ
の高さを絶賛する。それは、“四日市萬古焼の父”と称された山中忠左衛門が、地元の
貧農救済のための事業構想として、萬古焼の革新・普及に尽力していた時期
とも合致する。
彼女は言う。「憂うべき名古屋窯業界の悪夢の真っただ中にあって、この製造は
とても嬉しいことです」と。
日本の伝統工芸の抱える問題に対するこうした指摘は、タウトやハーンはもとより、
イギリスの旅行作家イザベラ・バード(1831~1904)の「イザベラ・バードの
日本紀行」(1880)においても、重大な問題としてたびたび登場する。
現代に通じる、伝統産業の選択し得る2つの方向性が明確に彼らの分析に共通
するのは、「母親が乳幼児を背中におぶって外出する(仕事に行く)こと」
の積極的意義である。タウトは「ニッポン」(1941)の中で指摘する。
「母親に背負われた幼児が母のする動作を絶えず見守っているのを私はよく
観察したことがあるが、彼らは母親のどんな動作も見逃さず、これらの意味
が大して説明も要せずに自然に彼らの心に刻まれるのである。
漁師の女房は、その夫達と一緒になって船を浜へ引き上げるために、身を屈める。
すると子どもは、母に背負われたままでその複雑錯綜した動作を共にしながら、
泣き叫びもせず、その一部始終をわき目も振らずに見つめている」看て取れよう。
驚嘆すべき日本の子ども
“知日派”外国人たちは「日本の子ども」を絶賛する。
日本の子どもは、幼児の時から親と一体となって行動することを通じ、社会性
を涵養しており、それが、「他国民の場合に比して物分かりよく悧巧な点で、
はるかに優っている」(タウト、前掲書)という好結果を招いていたようだ。
これは現代日本でも見出される現象である。筆者の知人に、ある有名企業の
社長秘書がいるが、彼女は、子どもが生まれて以来、その子をおぶって出社
し続けており、オフィス内や公共の場所で見るその子の様子は、まさに
タウトが観察したのと同様なのである。
「待機児童問題」が深刻化している現代日本であるが、やり方次第で、今後
解決し得る可能性を感じさせる事例である。
日本を支える主役は「女性」
戦後民主教育を受けた我々は、明治民法下の日本女性に関して、差別・抑圧
された存在という否定的な捉え方をしがちである。
しかし、少なくとも、彼女たちと同時代の欧米知識階級から見る限り、
状況は異なる。
シドモアは、同じ女性の立場でこう明言する。
「結婚法、離婚法、財産法は、欧州女性が守られている以上に立派な権利
を日本女性に保障しています。家族の生活と威厳は変わりなく保たれ、
家庭プライバシーも油断なく守られ、外人は神聖な家族の中心人物が女性
であることを見抜くことはできません」(前掲書)
また、バードも言う。「日本の妻はよく働きますが、単調で骨の折れる
仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働くのです」
(前掲書)
このテーマに関し、最も熱心な考察を行ったのは、イギリスの写真家
ハーバート・G・ポンティング(1870~1935)である。
「家の中で婦人の演じる役割について、人々の見解が分かれることはない。
彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。彼女は自分が実際に支配している
ように見えないところまで支配しているが、それを極めて巧妙に行っているので、
夫は自分が手綱を握っていると思っている。そして、可愛らしい妻が実際には
しっかり方向を定めていて、彼女が導くままに従っているだけなのを
知らないのだ」(「英国人写真家の見た明治日本」より)。
彼は、日露戦争に従軍し、帝政ロシアから「クロキンスキー」と恐れられた
猛将・黒木為楨(ためもと)陸軍大将(伯爵、薩摩藩出身)とも親しく交わったが、
同大将はこう述べたという。 「日本の婦人は非常に優しく、おとなしく、そして
謙虚で......(中略)一国の歴史の上で婦人の果たす役割は大きく、どこの国
でも、もし婦人たちが、何にもまして勇敢で優しく謙虚でなければ、真に偉大
な国民とは言えません。兵隊と同様に、日本の婦人は国に大きな貢献
をしているのです」
砲弾飛び交う血腥い(ちなまぐさい)最前線の司令部で、淡々と語られた日本
女性への感謝と尊敬。その場に居合わせた参謀将校たちも深く同意し、
「日本婦人はこれからもそうあってほしいものです」と全員で乾杯した
という。ポンティングが強い感銘を受けたことは言うまでもない。
現代日本の政府要人や経営者の中で、緊迫した仕事の現場において、
心からのこうした発言ができる人物は一体どれほどいるだろうか。
それが出来るようになった時、日本女性は、その本来の美質を如何
なく発揮できるのかもしれない。
日本文化の本質的な美点を活かす
明治期を中心に来日した外国人たちが気づいた、日本の本質的な美。
その価値は今も揺らぐことはない。我々日本人が忘れがちな、日本の
正統的な伝統や行動様式を、観光創造に活かしていくべきだろう。
世界に圧倒的な影響を及ぼし続ける“簡潔・明確・清純”という
日本文化の本質を生かした建築・まちづくり。美術・工芸など伝統産業
において、伝統に立脚した「ホンモノ」を現代に生かす努力。
「おもてなし」の主役である女性のあらゆる産業における活躍。
以上のような取り組みが考えられる。
ームに整然と体育座りしている修学旅行生(小学生)たちの姿”を挙げるなど、我々日
本人とは異なる視点からの日本評価に驚くことはとても多い。
「ジョハリの窓」を持ち出すまでもなく、「他国民は知っていても自国民は知らない自
国の姿」というものが産業・観光分野においても多々存在する。
また、バブル崩壊以降の長期低迷を通じて日本人がすっかり自信を失ってしまったのに
反し、諸外国においては今や“空前の日本ブーム”であり、その温度差が著しく拡大し
ているという現実もある。
そうした背景もあって、特に今年に入ってから、民放キー局の番組編成においても“外
国人から見た日本の魅力”をテーマにした番組が花盛りになっている。
そこで本稿では、“外からの視点で見た日本”という方向性を踏襲しつつも、それを歴
史的視点から捉え直し、幕末から昭和・戦前期までに日本を訪問した外国人が、日本の
どんな点に注目し、それをどのように評価してきたか、という点を検討してみたい。
それを通じて、日本や日本人が本来的に有していた美質で、今なお気がついていない点
はないか、あるいは、いつしか忘れ去ってしまったものはないか、などを確認し、そう
した美質を活用しての地方創生につなげることができればと願う次第である。
もちろん、日本を訪問した外国人と言っても、その質において多様である。
ここでは、一過性の旅行者ではなく、明確な問題意識を持って日本を訪れ、
長期滞在した人物に限定したい。それによって、表層的な“異国趣味”で
日本を礼賛するような向きを排除し、専門性をベースにした忌憚のない
評価・意見を抽出する。
こうした観点から今回調査した結果浮かび上がってきた彼ら共通の関心事・
評価ポイントは4つ、すなわち「建築」、「工芸」、「子ども」、「女性」
であり、これを順に見ていきたい。
日本文化の本質はどこに?タウトによれば、日本文化の本質は、
“簡潔”、“明確”、“清純”にある。
その典型例が伊勢神宮(外宮)や桂離宮であり、そこに見出される本質は、
日本各地に根づく伝統的な日本家屋や工芸品、さらには一般庶民の生活
様式の中に生き続けている。
そして、日本文化のこうした特質は時代を超えて“現代的”であり続け、
それを追求することこそが、日本が世界に貢献できる一番の道であると、
彼は喝破しているのである。
実際、19世紀末以降、日本のそうした本質的要素が、建築・美術・工芸
などの分野を中心に、欧米各国に革命的な影響を及ぼしてきたことは
歴史が証明する通りである。
タウトにとっての日本美は、神道にもとづく様式にあり、仏教伝来と
共に入ってきた中国由来の装飾的な様式は「未消化の輸入品で日本的
でない」と見做す。
そういう意味で、徳川将軍家の権勢を誇示すべく造成された日光東照宮
の豪華絢爛は、「俗悪」という評価になる。そこからの当然の帰結として、
明治以降の「文明開化」で中途半端に欧米化した日本の都市の街並みや
建築物に対する評価は厳しい。
興味深いことに、以上のような見方は、タウトに限ったものではなく、
“知日派”外国人に共通している。
都市の街並みに関して、「醜悪」「絶望的な全体感」など各人各様に
酷評する一方、地方の町村の家並みに関しては、日本の伝統が生きている
がゆえに高い評価となる。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850~1904)は、「日本の面影」
(1894)の中で、文学者らしい評価をしている。
日本の建築に関する発言で最も注目されるのは、「日本美の再発見」
(1939)などの著者で、ドイツの建築家のブルーノ・タウト
(1880~1938)である。
彼は言う。「桂離宮は、伊勢の外宮と共に、日本建築が生んだ世界標準
の作品と称してさしつかえない」と。
「名画のようなこの町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子
に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、青、金色のおびただしい
漢字とかなの賜物ではなかろうか」
ハーンによれば、“肉筆で書かれた”日本の表意文字(漢字・かな)
こそは、生き物として人に語りかけ訴えかけてくる魅惑的な存在であり、
それが町中にあふれていることの素晴らしさを彼は称賛しているのである。
現代において、諸外国の若い世代が、漢字のタトゥーを入れることを
好んでいるのと一脈通じるものがあろう。
伝統工芸の光と影と
幕末期にスイス政府を代表して条約交渉のため訪日したエメェ・アンベール(1819~19
00)は、日本の工芸品を絶賛する。
「私はその特性を、上品な風格にあると断定する」「江戸の職人は真の芸術家である」
(「絵で見る幕末日本」より)。
しかし、その後の「開国」で、日本の伝統工芸をめぐる状況は一変する。
アメリカの人文地理学者で、明治期にたびたび訪日し、人力車で全国を駆け巡った
エリザ・R・シドモア(1856~1928)は、「シドモア日本紀行」の中で、こう指摘する
。
「西洋の手本や教育、貿易上の無知な注文は、島帝国ニッポンに芸術的荒廃をもたらし
ました。外国の指図に従っているところはどこも素朴な製品の質が低下して俗悪となり
、しかも安っぽくなりました」と。
女はその典型を、当時すでにイギリスのスタッフォードシャーと並ぶ世界的陶磁器産地
として有名になっていた瀬戸(周辺)の陶磁器(瀬戸物)に見出す。
「名古屋や瀬戸は粗悪な装飾の磁器茶壺によって豊かになり幸せになりました。
つまり、芸術が消えるということは産業が潤うということです!」
その一方において、シドモアは、三重県伝統の「萬(ばん)古焼(こやき)」のクオリティ
の高さを絶賛する。それは、“四日市萬古焼の父”と称された山中忠左衛門が、地元の
貧農救済のための事業構想として、萬古焼の革新・普及に尽力していた時期
とも合致する。
彼女は言う。「憂うべき名古屋窯業界の悪夢の真っただ中にあって、この製造は
とても嬉しいことです」と。
日本の伝統工芸の抱える問題に対するこうした指摘は、タウトやハーンはもとより、
イギリスの旅行作家イザベラ・バード(1831~1904)の「イザベラ・バードの
日本紀行」(1880)においても、重大な問題としてたびたび登場する。
現代に通じる、伝統産業の選択し得る2つの方向性が明確に彼らの分析に共通
するのは、「母親が乳幼児を背中におぶって外出する(仕事に行く)こと」
の積極的意義である。タウトは「ニッポン」(1941)の中で指摘する。
「母親に背負われた幼児が母のする動作を絶えず見守っているのを私はよく
観察したことがあるが、彼らは母親のどんな動作も見逃さず、これらの意味
が大して説明も要せずに自然に彼らの心に刻まれるのである。
漁師の女房は、その夫達と一緒になって船を浜へ引き上げるために、身を屈める。
すると子どもは、母に背負われたままでその複雑錯綜した動作を共にしながら、
泣き叫びもせず、その一部始終をわき目も振らずに見つめている」看て取れよう。
驚嘆すべき日本の子ども
“知日派”外国人たちは「日本の子ども」を絶賛する。
日本の子どもは、幼児の時から親と一体となって行動することを通じ、社会性
を涵養しており、それが、「他国民の場合に比して物分かりよく悧巧な点で、
はるかに優っている」(タウト、前掲書)という好結果を招いていたようだ。
これは現代日本でも見出される現象である。筆者の知人に、ある有名企業の
社長秘書がいるが、彼女は、子どもが生まれて以来、その子をおぶって出社
し続けており、オフィス内や公共の場所で見るその子の様子は、まさに
タウトが観察したのと同様なのである。
「待機児童問題」が深刻化している現代日本であるが、やり方次第で、今後
解決し得る可能性を感じさせる事例である。
日本を支える主役は「女性」
戦後民主教育を受けた我々は、明治民法下の日本女性に関して、差別・抑圧
された存在という否定的な捉え方をしがちである。
しかし、少なくとも、彼女たちと同時代の欧米知識階級から見る限り、
状況は異なる。
シドモアは、同じ女性の立場でこう明言する。
「結婚法、離婚法、財産法は、欧州女性が守られている以上に立派な権利
を日本女性に保障しています。家族の生活と威厳は変わりなく保たれ、
家庭プライバシーも油断なく守られ、外人は神聖な家族の中心人物が女性
であることを見抜くことはできません」(前掲書)
また、バードも言う。「日本の妻はよく働きますが、単調で骨の折れる
仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働くのです」
(前掲書)
このテーマに関し、最も熱心な考察を行ったのは、イギリスの写真家
ハーバート・G・ポンティング(1870~1935)である。
「家の中で婦人の演じる役割について、人々の見解が分かれることはない。
彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。彼女は自分が実際に支配している
ように見えないところまで支配しているが、それを極めて巧妙に行っているので、
夫は自分が手綱を握っていると思っている。そして、可愛らしい妻が実際には
しっかり方向を定めていて、彼女が導くままに従っているだけなのを
知らないのだ」(「英国人写真家の見た明治日本」より)。
彼は、日露戦争に従軍し、帝政ロシアから「クロキンスキー」と恐れられた
猛将・黒木為楨(ためもと)陸軍大将(伯爵、薩摩藩出身)とも親しく交わったが、
同大将はこう述べたという。 「日本の婦人は非常に優しく、おとなしく、そして
謙虚で......(中略)一国の歴史の上で婦人の果たす役割は大きく、どこの国
でも、もし婦人たちが、何にもまして勇敢で優しく謙虚でなければ、真に偉大
な国民とは言えません。兵隊と同様に、日本の婦人は国に大きな貢献
をしているのです」
砲弾飛び交う血腥い(ちなまぐさい)最前線の司令部で、淡々と語られた日本
女性への感謝と尊敬。その場に居合わせた参謀将校たちも深く同意し、
「日本婦人はこれからもそうあってほしいものです」と全員で乾杯した
という。ポンティングが強い感銘を受けたことは言うまでもない。
現代日本の政府要人や経営者の中で、緊迫した仕事の現場において、
心からのこうした発言ができる人物は一体どれほどいるだろうか。
それが出来るようになった時、日本女性は、その本来の美質を如何
なく発揮できるのかもしれない。
日本文化の本質的な美点を活かす
明治期を中心に来日した外国人たちが気づいた、日本の本質的な美。
その価値は今も揺らぐことはない。我々日本人が忘れがちな、日本の
正統的な伝統や行動様式を、観光創造に活かしていくべきだろう。
世界に圧倒的な影響を及ぼし続ける“簡潔・明確・清純”という
日本文化の本質を生かした建築・まちづくり。美術・工芸など伝統産業
において、伝統に立脚した「ホンモノ」を現代に生かす努力。
「おもてなし」の主役である女性のあらゆる産業における活躍。
以上のような取り組みが考えられる。
2016年4月6日水曜日
道元の教え
1.道元の教え、坐禅
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。
道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に既に、悟りがある
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。
「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
また、「宝慶記」には、
「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は
如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、
只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると
答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を
見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの
世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。
正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、修証これ
一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。
「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと
言っている。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の
足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、
坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。
道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定することではないか、とも思え
る。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、誰にでも、仏に
なる素質を持っている、と解するが、道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま
仏性と考えている。
道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、
それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ
変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。
道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。
そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。
死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。
元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。
生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。
正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。
正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。
「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)
「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。
「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」
これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。
「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。
正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に
書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、
雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下に
あてなさい。風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。
また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。
日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的なことから日常茶飯事のことまで
追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で壁に向かい坐禅する
ことで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。
道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の願い(仏の世界への
旅立ち)を叶えられるという時代に、「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。
道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に既に、悟りがある
と言う。「修証一如」、つまり修行することと悟りを開くことは1つである。
「正法眼蔵随聞記」には、
「道元禅師が説かれた。仏道修行で最も重要なものは、坐禅が第1である。
学問が全くない愚かで鈍根のものであっても、坐禅修行の成果は聡明な人
よりもよく現われる。だから、学びとは只管打坐して、他の行いに関わるべき
ではない。」と言っている。
また、「宝慶記」には、
「参禅は身心脱落なり、、、祇管に打坐するのみなり」とあるが、道元は
如浄に身心脱落とはなにか、と問うている。これに対して、如浄はそれは坐禅であり、
只管に打坐する時、見る、などの五感の対象への執著などを離れるからであると
答える。対象にかかわり、これに執著することが、自己と世界の真実の姿を
見る眼から覆い隠す。坐禅に打ち込むとき、このあり方から脱して、ありのままの
世界をありのままに見ることが成就するであろう」とある。
正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。仏法には、修証これ
一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
「修証これ一等なり」とは、修(修行)と証(証悟)とは一つ同じもの。
「本証」とは、本来の悟り。修行のただ中がそのまま本来の悟りそのものと
言っている。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで自身の
足元をみることを勧める。単に坐禅する行為のみ留まらず、「行、住、
坐、臥」の全ての日常行為が仏道に通じると言っている。
道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定することではないか、とも思え
る。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」は、誰にでも、仏に
なる素質を持っている、と解するが、道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木虫類に至るまで、そのまま
仏性と考えている。
道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に姿を現していて、
それ以外には、季節の現れ方はないと言う絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに現れていて、何一つ
変わることはない。そう思えば、心は非常に涼しいという境地を詠んでいる。
道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に中に仏なければ生死に
まどわず」生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。
そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、
すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、
絶対的な今しかない。
死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う
こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて
死以外のこともありえない。
元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番
悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより
おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや
さずして、生死をはなれ、仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから
明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、
仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして
忘れること。
生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解
することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。
昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。
健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。
正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。
正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。
「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。(道元の詠み方より)
「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。
「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」
これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅ということは
大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常こそ世の道理である。
このことがわかり、而今を全機に生きるならば「生死なし」である。
これは物質的な生死は人間だれしも避けられないが、それを厭いまた
願うという執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。
「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。
正しい坐禅の心得
正法眼蔵の中に、「坐禅儀」「坐禅箴」として、坐禅のやり方が具体的に
書かれている。
「坐禅は静処よろし。坐にくあつくすべし。風焔をいらしみことなかれ、
雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし」
静かな場所でやりなさい。座布団のようなかなり分厚いもので、背骨の下に
あてなさい。風や煙があたってはいけないし、雨に打たれて行うのもよくない。
さらに坐禅するのに以上の事を意識して適当な場所を確保するべきである。
また、坐禅は「帰家穏坐」とも言われる。
日頃、世間からの様々な刺激を受け、営利的なことから日常茶飯事のことまで
追いまわし、振り回されている生活から、静かな部屋で壁に向かい坐禅する
ことで、本来望んでいる自分に帰ってくる、のだ。
この所作は、マインドフルネスのやり方と相通じている。