古代中国に端を発する「書」が日本で盛んになったのは平安時代。唐スタイルを忠実に伝えた空海(くうかい)に対し、日本的なアレンジを加えて“和様(わよう)”を確立した小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)は三蹟(さんせき)と称され、以後の「書」に影響を与えました。歴史上に輝く3人の名書家の作品と、三蹟キャラの道風クン、佐理クン、行成クンのここでしか見られない空想鼎談(ていだん)をのぞいてみましょう!-2014年和樂5月号より-
醍醐天皇も認めた、王羲之風の書の達人
894〜966年。醍醐(だいご)・朱雀(すざく)・村上の各亭に仕えた道風は、能書で知られた小野篁(たかむら)の孫で小野小町のいとこにあたる。王羲之にならって楷書・草書・行書に優れた道風の書は当代一と称され、佐理や行成に影響を与える。この書は醍醐天皇が延暦寺の僧円珍の没後36年目に、最高位「法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)」に昇格させ「智証大師」の諡(おくりな)を贈ると記した勅書。道風は当時34歳で「天皇御璽(てんのうぎょじ)」の朱文方印にふさわしい格調高い文字で能書ぶりをいかんなく発揮している。
小野道風『智証大師諡号勅書』所蔵/東京国立博物館蔵
若くして能書の頂点を極めた稀代の問題児
944〜998年。道風亡き後の書のリーダーが、27歳で円融天皇(えんゆうてんのう)から揮毫の下命を受けた佐理。その名声は中国・宋にも伝わっている。一方、生活は万事だらしなくて失敗が多い問題児。甥の藤原誠信(ふじわらさねのぶ)に宛てた「離洛帖」はその一端を表すもので、太宰大弐(だざいだいに)として九州に赴任する際に推挙してくれた摂政(せっしょう)・藤原道隆への挨拶を忘れ、非礼を詫びてうまくとりなしてほしいと書かれている。佐理はほかにも詫び状を残しており、スピード感にあふれ緩急自在な筆運びを見せる傑作書状が多いのも特徴。
清少納言も憧れた能書の貴公子
972〜1027年。王羲之や道風を私淑し、藤原道長の引き立てによって宮中で活躍した行成は、瀟洒(しょうしゃ)で優美な和様の完成者。詩歌に秀で、『枕草子』など多くの文献にその人気ぶりが記されている。唐の白居易(はくきょい)の詩文集『白氏文集』巻第65から8篇の詩を揮毫した書は、行成が47歳のときのもの。草書を交えた行書体で書かれ、格調高く洗練された和様の書は、伏見天皇の遺愛品であった。
藤原行成『白氏詩巻』所蔵/東京国立博物館蔵
ここからは道風クン佐理クン行成クンの空想鼎談!
行成:若輩(じゃくはい)の私から挨拶させていただきます。今日はずっと憧れ続けた心の師・道風サマにお会いできて夢のようです。
佐理:私が物心ついたころ、能書家といえば道風サマ。ようやく参内(さんだい)がかなったころ、同席を楽しみにしておりましたのに…
道風:病を得て、職を解かれたのじゃ。
行成:私の時代も道風サマが第一人者。関白の藤原道長サマも心酔されておりました。
道風:そなたたちは、見る目があるのう。
佐理:王羲之風の書はもとより、勅書をお書きになるとはさすがです。私など、粗相が多くて如泥人(じょでいにん)とそしられるばかりで。
道風:しかしその詫び状は秀逸じゃ。
行成:佐理サマの書は宋の国の太宗(たいそう)に献上されたほどですからね。
道風:行成の書は格調が高い。あの道長が目をかけたというのもうなずける腕前じゃ。
佐理:ところで道風サマはなぜ、烏帽子(えぼし)にカエルをのせているのですか?
道風:若いころ、おのれの才能のなさに嫌気がさしていたときに出会ったカエルは、私にとって王羲之に次ぐ師なのじゃ。
佐理:そんなバカな(笑)
行成:有名な話ですよ。自暴自棄になって雨の中を散歩していたとき、何度も何度も柳に飛びつこうとするカエルが道端にいた。
道風:はじめはバカなことだと思って見ていたが、やがて飛びつくとこができてのう。バカは自分だったと教えられたのじゃ。
佐理:なんだ、いい話なのですね。
行成:素晴しい教えです。たゆまぬ努力が大切だということがよくわかります。
佐理:実話なのですか?
道風:それが、よく覚えておらんのじゃ。
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