2017年1月26日木曜日

不易流行 松尾芭蕉

芭蕉庵の近くに臨川庵という寺があり、そこにいた仏頂和尚(常陸鹿島の根本寺の住職
)について、芭蕉は坐禅を始め、悟道の印可を得たという。
 芭蕉は俳諧の理念をよく「不易流行」(ふえきりゅうこう)として説いた。研究者は
、次のように解釈されている。
「不易とは永遠不変であることであり、流行とはその時々に応じて変化することである
。しかし芭蕉は、芸術というものは一見相反するかに見えるこの二契機の二重奏的合奏
においてのみ、真に永遠たりうるものだ、と考えるに至ったのである。」(『松尾芭蕉
』 桜楓社 136頁)
「芭蕉は、俳諧に、その俳諧性(「新しみ」を大きな要素とする)を保持したままで、
和歌的な質の高い文学世界を獲得してみようという、前人未到の果敢な試みを実行しつ
つあったのである。その芭蕉にとって、「不易流行」はそのような方向を、最も的確に
表現し得る言葉であったのであろう。それゆえ、不易流行を和歌性、流行を俳諧性と把
握しても間違いないと思う。一句が和歌性と俳諧性の二つながらを獲得し得ている場合
、それは理想的な作品ということになるのである。」(復本一郎氏『芭蕉俳句16のキ
ーワード』日本放送出版協会 九十八頁)
 芭蕉は、おくのほそ道の旅の途中、羽黒山の麓で呂丸に、また山中温泉で北枝に初め
て不易流行を語った。
 その年、去来にも語った。

 「此年(元禄二年)の冬、はじめて不易流行の教えを説たまえり。魯町いわく、不易
流行の事は古説にや、先師の発明にや。去来いわく、不易・流行は万事に渡るなり。し
かれども、俳諧の先達これをいふ人なし。----宗因師一度そのこりかたまるを打破
り、新風を天下に流行しはべれども、いまだこの教えなし。しかりしよりこのかた、都
鄙(とい)の宗匠達古風を用ず、一旦流々を起せりといへども、又その風を長くおのが
物として、時々変ずべき道をしらず。先師はじめて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立
、また風は変ある事をしり、流行の句変ある事を分ち教えたまふ。」(『去来抄』)

 「俳諧の本体」と「風は変ある事」という、不変の本体と流行の風あることを説いた
。

 「魯町いわく、不易流行その元一なりとはいかに。去来いわく、此事弁じがたし。あ
らまし人体にたとへていはば、不易は無為の時、流行は坐臥・行住・屈伸・伏仰の形同
じからざるが如し。一時一時の変風これなり。その姿は時に替るといへども、無為も有
為も、もとは同じ人なり。」(『去来抄』)

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれているが、芭蕉は、それを禅的に解釈しなお
している。「不易」は「無為」の時というが、それは、坐禅ではない。流行は「坐臥」
とあって、坐は、流行にあるからである。根源的な絶対、平等、無であろう。「流行」
は相対、差別、有である。この二つは、別ではない。同じ人である。 
 芭蕉が不易流行の句として、「古池や」の外、次の二句をあげて、「此三句は、いづ
れも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句なり」と語った。(木導『水の音』の序文
)

 以下<  >は、復本一郎氏『芭蕉俳句16のキーワード』の解釈。その後が、私の
解釈である。

小松生ひなでしこ咲るいわほかな   守武
<巌には小さな松がはえているのみか、撫子までも咲いている。その風情のよさ>

春風や麦の中行(ゆく)水の音    木導
<春風吹き、麦はそよぐ。そして麦畑の中、小川のせせらぎが聞こえる> 
 芭蕉は、木導の「春風や」の句を「景曲第一の句」と称賛し、こう言った。

 「景気の句世間容易にする、もっての外の事なり。大事の物なり。(中略)
惣別(そうべつ)、景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成がたき故、つよくいまし
めおきたるなり。」(許六『宇陀法師』)

<ただ景色を詠んだだけの句を、皆簡単に作ってしまうが、論外のことだ。大体におい
て、景色を詠んだ句は、古い。一句に曲というものがなくては「新しみ」のある句とし
て成り立たないので、昔から注意を促されているのだ>

 これら三句が不易流行の句だとすると、仏教と同様の真実が詠みこまれているわけで
ある。「巌」は、生きていない場所。不生の場所。「小松生」生あるとは思えないとこ
ろ(不生)に、松やなでしこが生み出される。巌は「自己」、不生の自己。盤珪は特に
、その語のみで指導した。原始仏教では、解脱すると「生が尽きた」という自覚になる
という。自己から生み出される松、なでしこ。創造的な人間の本質を詠んだ。
「春風や」麦畑の中を行くのは作者、のはずなのに、「水の音」。風、水音とひとつに
なって畑中を行く。身心、自己を脱落したものがゆく。自我を忘れて、自然とひとつ、
自他一如、の境涯を詠んでいるので、自然を詠みながらも、人間の本質を詠んだ不易流
行の句だというのであろう。
不易流行の心は禅

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれている。芭蕉は表面的には禅を出さないが、
芭蕉は禅の印可を得ているので、『荘子』も、中国の思想そのままではなく、禅的に定
義しなおすであろう。禅では、「物我一如」「絶対即相対」「平等即差別」である。個
々の物は、差別あるもの、相対のものと思われているが、実は絶対、平等なる本来の自
己の姿である。俳諧は、絶対平等なる生命の躍動を、相対的な言葉で現すのだというの
が芭蕉の趣旨であろう。すなわち、俳諧は観念やただの風物、静寂を詠んだものではだ
めだ、眼前の事実、それは人間の真実、それを詠んだものでなければならない、という
のが芭蕉の説であると思う。
 以上に関連する類似の言葉をあげる。以下<  >は復本一郎氏の解釈(『俳人名言
集』)
「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐(なつ)かしくいひとるべし。」(『去来抄』)
<鄙俗性と文芸性を兼ね備えたもの>

「俳諧、和歌の道なれば、とかく直成(すぐな)る様にいたし候へ。」(『杉風書簡』
)
<理でなく、直ぐ。芭蕉は和歌寄り。>

「俳諧自由の上に、ただ尋常の気色(けしき)を作せんは、手柄なかるべし。」(『去
来抄』)
<和歌と同じ情趣や、事象を詠むことではないのである。あくまでも、和歌とは別種の
、俳諧の独自性がなければならない。>

 題材など自由に使うが、本来の姿を句に作る。

「見る処(ところ)花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」(
『笈の小文』)
<和歌で読むことを避けていた対象、心情も俳諧は詠む。そこに「花」「月」(すなわ
ち和歌の世界)と同質の美を発見>

「世道・俳道、これまた斉物(せいもつ)にして、二つなき処にてござ候。」(『虚水
宛書簡』)
<俗世間を生きる道と俳諧の道とは一つである。>

 特別の場所だけで俳諧があるのではなく、どこでも俳諧の世界である。以上の二つは
、すべての生活が、自己の本質上のことという禅と同じと思われる。

「高くこころをさとりて俗に帰るべし。」(『あかぞうし』)
 こころの真相を悟る、それは俗世のどこにでもあることがわかったので、俗世にあっ
て、こころの真相にもとづいて俳諧の道を行けという。
格に入りて格を出る

 「格に入りて格を出る」という。

 「格に入りて格を出ざる時は狭く、また格に入ざる時は邪路にはしる。格に入り、格
を出てはじめて自在を得べし。」(『俳諧一葉集』)

<格は基本。基本の段階で止まってもいけない、基本を無視すれば、でたらめ。基本を
マスターし、基本を抜けだしてオリジナリティを発揮する。>

 まず、指導者の指導で基本を学び、そして、いつか、その基本をふまえて、そこから
超えでていく。仏道も同じである。似た言葉を味わう。

 蕪村に次の言葉がある。

 『俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法
、最もかたし。』(蕪村 『春泥句集』)

 俗語を用いて、俗を離れて、深い人間の真相にせまるのは難しいことであろうが、そ
れが俳諧だという。
 道元禅師に次の言葉がある。他(世界、自然、もの)が、自己である。自他一如であ
る。自は、自我ではなく、根源的な自己である。もちろん、この「我」「心」は実体で
はなく、認識的、作用的である。

 「我を配列しおきて塵(尽)界とせり。--我を配列して我これを見るなり。」(『
有時』)
「心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆえ
に衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆえに衆生
なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。」(『仏性』)

 芭蕉が、元禄三年(四十七歳)に、牧童あてにあてた書簡でこういう。

 「世間ともにふるび候により少々愚案工夫これあり候て心を尽くし申し候。」
 (われら一門の俳諧も、はや古びましたので少々工夫するところあって、心を尽くし
ました。)
虚と実

 芭蕉は、「虚と実」もいう。いつも、同じ意味で使うとは限らないであろう。
『聞書七日草』

 元禄二年(四十六歳)『おくのほそ道』の旅で出羽の呂丸に語る。

 「花を見る、鳥を聞く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち
、これまた天地流行のはいかいにておもひ邪(よこしま)なき物なり。しかもうち得て
いふ人にいはば、この心とこしなへにたのしみ、南去北来、仁道の旅人となりて、起居
言動に身治まるを、虚に居て実に遊ぶとも、虚に入りて実にいたるとも、うけたまはり
はべる。」(『聞書七日草』)

 汚れた世俗に住みながら、そまらず人間の真実をよむ、俳諧に読めなくとも、身が治
まるということか。身が治まる、とは、エゴイズムにまみれないことであろうか。

『山中問答』

 次は、おなじく金沢の北枝に語ったもの。この場合、虚、実は意味が違うようである
。

 「虚に実あるを文章といひ、礼智といふ。虚に虚あるものは世にまれにして、又多か
るべし。此の人をさして正風伝授の人とするとて、翁笑ひたまひき。私いはく、虚に虚
なるものとは、儒に荘子、釈に達磨なるべし」(『山中問答』)

 解釈がむつかしいが、『二十五箇条』もあわせて読むと、こうなろうか。世俗にまみ
れながら、誠しやかにみせるのが文人、礼智。汚れた世俗に住みながら、おろかものと
みられて生きる者はまれである、いや多いかもしれぬ。そういう人こそ誠を伝える人だ
と芭蕉は笑った。私は言った「虚に虚なるものとは、儒教の荘子、仏教の達磨でしょう
」と。達磨は中国に禅を伝えた人、中国の禅の開祖。
『二十五箇条』

 次も、同じような芭蕉の言葉を伝える。

「虚実の事
 万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず。実は己を立て、人をうらむる
所あり。たとえば花の散るを悲しみ、月のかたぶくを惜しむも、実に惜しむは連歌の実
なり。虚におしむは俳諧の実なり。そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく
事なり。虚に実あるを文章と言ひ、実に虚あるを世智弁と言ひ、実に実あるを仁義礼智
と言ふ。虚に虚ある者は世にまれにして、あるひは又多かるべし。此人をさして我家の
伝授と言ふべし。」(『二十五箇条』)

 『二十五箇条』は、支考著。元禄七年六月落柿舎で去来に与えたという伝えもある。
芭蕉の言葉を伝えている。
 「虚に虚ある者」を芭蕉は肯定している。これを禅者(達磨を代表として)であり、
芭蕉の風としている。とすれば、「虚に虚ある者」という時の、前の「虚」は、無私、
無心で、後の「虚」は、それを飾らず、表に見せないことか。「実は己を立て、人をう
らむる所あり」というから、この「実」は、自我、虚飾、エゴイスティックな我執であ
る。「虚に実ある」とは、飾る文字である。「実に虚あるを世智弁」とは、誠実を装い
ながら、誠実がない世俗である。「実に実あるを仁義礼智」とは、道徳レベルである。
「虚に虚ある者」は、人目に隠れて見えないが無私、無心、無我の生き様であろう。世
俗から見れば、愚か者、無力の者に見えるが、内心は、無私の人であろう。
 芭蕉が、こういうことをいうことは、エゴイズム、煩悩障、そして、虚栄なく飾らぬ
生き方を問題にしていたのである。芭蕉も、仏教や禅の理屈の理解ではなくて、生き方
を問題にしていたのである。仏教は思想の思惟、研究ではなくて、生活、生き様にある
。
『笈の小文』

 「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花(かたち
)にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出
、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」『笈の小文』(元禄三年こ
ろ成る)

 見るもの、思うものすべて花であり、月である、という。花、月とは自己のたとえで
あろう。すべてが自己の世界、自己の光明という禅の自覚に通じる。そういう風に見ら
れないのは獣に等しい。自我の目で汚してみないで、自己を超えた天然に従い、天然に
帰れ。ここでも、エゴイズムを離れることを問題にしている。理屈の理解ではなくて現
実にエゴイズムを離れて、誠実に生きることが、芭蕉の生き方である。芭蕉の俳句には
、禅や仏教が根底にある。
『夜話狂』

 「実に居て虚をいふべからず。虚に居て実をいふべし。その人は虚実自在の人なり。
」『夜話狂』(支考、宇中編)

 この場合の「実」「虚」は、意味が違う。本来仏の身でありながら、けがすな、世俗
に住みながら誠を言え。そのような人が虚実をわきまえ自在に生きる人だ。
芭蕉と良寛

 芭蕉は、「本来の自己」すなわち、人間の本質、こころ、いのちの躍動を、言葉の裏
に、底に秘めた句を数多く作る。しかし、芭蕉は、それを禅とはいわず、「不易流行」
という言葉で言った。芭蕉の秘めた真意を当時わかるものがいようが、いまいが、門人
たちがあれこれ言っても、他の人が非難しても、芭蕉は、その秘密をあかさなかった。
後世の、わかる者を意識したとしか思えない。芭蕉に次の言葉があるのはこれを言うの
であろう。

 「俳諧に古人なし。ただ後世の人を恐る。」(不玉宛ての去来論書)

 芭蕉は当時の談林風の俳諧から完全に脱皮した。しかも、芭蕉の俳句は、単に自然を
うたう他の人の俳句とも違っていた。言葉の遊びではなく、単なる旅や自然を詠んだの
ではなく、人間をよんだ詩となった。芭蕉の句は、表面は全く、仏法、禅らしい匂いが
ないのに、実はまさに、禅である。この見事さに、良寛は気づいて、芭蕉を最高度に絶
賛する。良寛に次の詩がある。

  この翁以前この翁無く
  この翁以後この翁無し
  芭蕉翁 芭蕉翁
  人をして千古の翁を仰がしむ

 芭蕉について現代のような文芸論があったわけではないのに、良寛は、芭蕉を理解し
絶賛したのである。禅者同志、理解しえたのであろう。
 のち、芭蕉は、死ぬすぐ前に「この道や行く人なしに秋の暮れ」という句をよんだ。
門人は多くいたが、芭蕉と同じ道をいく人は少ない、というさびしさが感じられる。自
己の生命を洞察する確かな目と、俳諧のわざとをともに備えて行く人はなく、我が生命
尽きようとする秋になった。良寛も、曹洞宗教団には真実の仏法を伝える僧侶がいない
と失望し、教団から離れて、教団を厳しく批判し、わかりあえる人のいない悲しみを漢
詩にうたった。良寛も当時の宗門から全く見放されていた。後世の人のために、多くの
漢詩などを残した。
 私たちも、五十年、百年も前に、同様のことを考えた人のいたことを今、知ることが
できる。我々も、今のエゴイズムにまみれた人に認められなくてよい。後世の眼ある人
をおそれよう。どうせ、千年の後、現在の個人名は、すべて忘れさられる。
禅と芸術

 絵画でも文学でも音楽でも、芸術はすべて、言葉で伝えられない真実を表現するもの
でがある。小説や俳句のような文字を使う芸術でも、言葉を超えたものを表現している
ものがあるとみるべきである。分析的でなく、直覚に訴える。そういう点で禅と芸術の
関連がある。芸術家は創造者である。
 自分の心が自覚したもの、事実を、言葉や絵や音で表現する。仏教者、禅者は己(す
べての人)が創造者であることを自覚し、それを日常の生活に表現する。自己生活化、
および他者救済行である。芭蕉の俳句は言葉を使うが、言葉そのものを伝えるものでは
ない。言葉の背後にある事実、人生の真理を伝えようとした。芭蕉がみつめたものは禅
者と同じものであった。また、生き方がそうであった。
 そのような観点から、芭蕉の俳句の言葉の背後にある人間の真実を読み取ってみたい
。(この後の記事に続く)

2017年1月20日金曜日

小野道風 三蹟

古代中国に端を発する「書」が日本で盛んになったのは平安時代。唐スタイルを忠実に伝えた空海(くうかい)に対し、日本的なアレンジを加えて“和様(わよう)”を確立した小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)は三蹟(さんせき)と称され、以後の「書」に影響を与えました。歴史上に輝く3人の名書家の作品と、三蹟キャラの道風クン、佐理クン、行成クンのここでしか見られない空想鼎談(ていだん)をのぞいてみましょう!-2014年和樂5月号より-
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醍醐天皇も認めた、王羲之風の書の達人

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894〜966年。醍醐(だいご)・朱雀(すざく)・村上の各亭に仕えた道風は、能書で知られた小野篁(たかむら)の孫で小野小町のいとこにあたる。王羲之にならって楷書・草書・行書に優れた道風の書は当代一と称され、佐理や行成に影響を与える。この書は醍醐天皇が延暦寺の僧円珍の没後36年目に、最高位「法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)」に昇格させ「智証大師」の諡(おくりな)を贈ると記した勅書。道風は当時34歳で「天皇御璽(てんのうぎょじ)」の朱文方印にふさわしい格調高い文字で能書ぶりをいかんなく発揮している。
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小野道風『智証大師諡号勅書』所蔵/東京国立博物館蔵

若くして能書の頂点を極めた稀代の問題児

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944〜998年。道風亡き後の書のリーダーが、27歳で円融天皇(えんゆうてんのう)から揮毫の下命を受けた佐理。その名声は中国・宋にも伝わっている。一方、生活は万事だらしなくて失敗が多い問題児。甥の藤原誠信(ふじわらさねのぶ)に宛てた「離洛帖」はその一端を表すもので、太宰大弐(だざいだいに)として九州に赴任する際に推挙してくれた摂政(せっしょう)・藤原道隆への挨拶を忘れ、非礼を詫びてうまくとりなしてほしいと書かれている。佐理はほかにも詫び状を残しており、スピード感にあふれ緩急自在な筆運びを見せる傑作書状が多いのも特徴。

清少納言も憧れた能書の貴公子

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972〜1027年。王羲之や道風を私淑し、藤原道長の引き立てによって宮中で活躍した行成は、瀟洒(しょうしゃ)で優美な和様の完成者。詩歌に秀で、『枕草子』など多くの文献にその人気ぶりが記されている。唐の白居易(はくきょい)の詩文集『白氏文集』巻第65から8篇の詩を揮毫した書は、行成が47歳のときのもの。草書を交えた行書体で書かれ、格調高く洗練された和様の書は、伏見天皇の遺愛品であった。
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藤原行成『白氏詩巻』所蔵/東京国立博物館蔵

ここからは道風クン佐理クン行成クンの空想鼎談!

行成:若輩(じゃくはい)の私から挨拶させていただきます。今日はずっと憧れ続けた心の師・道風サマにお会いできて夢のようです。
佐理:私が物心ついたころ、能書家といえば道風サマ。ようやく参内(さんだい)がかなったころ、同席を楽しみにしておりましたのに…
道風:病を得て、職を解かれたのじゃ。
行成:私の時代も道風サマが第一人者。関白の藤原道長サマも心酔されておりました。
道風:そなたたちは、見る目があるのう。
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佐理:王羲之風の書はもとより、勅書をお書きになるとはさすがです。私など、粗相が多くて如泥人(じょでいにん)とそしられるばかりで。
道風:しかしその詫び状は秀逸じゃ。
行成:佐理サマの書は宋の国の太宗(たいそう)に献上されたほどですからね。
道風:行成の書は格調が高い。あの道長が目をかけたというのもうなずける腕前じゃ。
佐理:ところで道風サマはなぜ、烏帽子(えぼし)にカエルをのせているのですか?
道風:若いころ、おのれの才能のなさに嫌気がさしていたときに出会ったカエルは、私にとって王羲之に次ぐ師なのじゃ。
佐理:そんなバカな(笑)
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行成:有名な話ですよ。自暴自棄になって雨の中を散歩していたとき、何度も何度も柳に飛びつこうとするカエルが道端にいた。
道風:はじめはバカなことだと思って見ていたが、やがて飛びつくとこができてのう。バカは自分だったと教えられたのじゃ。
佐理:なんだ、いい話なのですね。
行成:素晴しい教えです。たゆまぬ努力が大切だということがよくわかります。
佐理:実話なのですか?
道風:それが、よく覚えておらんのじゃ。

日本版CCRC

日本版CCRCに求められること

2015年7月27日
ジュゼッペ・ヴェルディは「ナブッコ」、「椿姫」、「アイーダ」など数多くのオペラを残した19世紀を代表するイタリアの作曲家である。そのヴェルディが自らの最高傑作と謳った作品は、ミラノに建つ「音楽家のための憩いの家(以下、憩いの家)」(※1)と呼ばれる福祉施設である。
年金制度などが整備されていないその当時、音楽家の老後というのは一部を除いてかなり悲惨だったようである。自身も苦労と挫折、貧しさに苦しんだ過去を持つヴェルディは、大成した晩年、様々な慈善活動に取り組んだ。そして最後の作品として、引退した音楽家たちが尊厳を保ったまま平和に人生を全うできるようにと「憩いの家」を建設したのである。「憩いの家」では今現在も50人以上の老音楽家たちが共同生活を送っており、人々は親しみを込めて「Casa Verdi(ヴェルディの家)」と呼んでいる。
「憩いの家」では全室個室のうえ、音楽練習室やパイプオルガンを備えたホール、レストラン、ジム、礼拝堂まで完備され、定期的なホールコンサートや希望者を募ってのオペラ鑑賞も提供されている。また音楽以外にも絵や彫刻のカルチャーコース、物語を作るコース(老化を遅らせる効果が期待されている)など、様々なプログラムが実施されているようだ(※2)
こうした充実した設備やプログラムについては、国内の一部の有料老人ホームでも見られる点かもしれない。しかし、そのような施設とは決定的に異なる点が、「憩いの家」では音楽を専攻する学生たちを入居させている点である。かつての名音楽家たちに直接教えを乞うことができるという点で、「憩いの家」は多くの学生たちを惹きつけている。
名教師たちを訪ね、外部から通ってくる学生も多く、老音楽家たちも後継者の指導に励んでいる。そのため高齢者向け施設というよりはむしろ、音楽という価値観を共有する同志が集う場になっているという(※3)
国内では、大都市圏を中心に高齢者向け施設の圧倒的な不足が見込まれていることから、地方への移住を含む「日本版CCRC」構想(※4)が、「まち・ひと・しごと創生基本方針2015」(※5)の戦略に盛り込まれるなど、新たな高齢者のすまいについて検討が進められている。地元住民や子ども・若者などの多世代と交流・共働する「オープン型」の居住を基本とし、高齢者が地域社会に溶け込めるようにと計画されてはいるものの、現時点では具体像についてイメージしづらい。大学との連携も検討されているが、都心回帰により利用率の低下した地方の既存施設を利用したシルバーカルチャースクールと化す懸念はないだろうか。若い世代を地方に呼び込む具体策についての言及も少ないようだ。
「憩いの家」が100年以上も支持されてきた背景には、高齢者と次世代との橋渡しが音楽という専門性を介してうまく機能してきたことがある。多世代交流・共働を試みる「日本版CCRC」構想にも、高齢者と若い世代との双方を惹きつけ続けるコンセプトの設定が重要となろう。
【参考文献】
加藤浩子[2003]『人生の午後に生きがいを奏でる家』中経出版
(※1)http://www.casaverdi.org/en/index.html
(※2)加藤[2003]
(※3)加藤[2003]
(※4)まち・ひと・しごと創生本部「日本版CCRC構想(素案)」PDF
(※5)まち・ひと・しごと創生本部「まち・ひと・しごと創生基本方針2015-ローカル・アベノミクスの実現に向けて-」(平成27年6月30日)PDF
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2017年1月19日木曜日

春日大社の黄金の太刀

【どんな番組ですか?】
刀剣女子も惚れ込む、日本の刀剣のルーツとも言われる平安時代末期、藤原頼長が奉納した一振りの至高の国宝「黄金の太刀」が、春日大社1200年目の記念すべき式年造替に完全復元されました。息を呑む刀身の輝き、鞘の猫のデザインの螺鈿細工と眩い金無垢の色、それを寸分違わず復元した人間国宝を含む5人の名匠達のドキュメンタリー。復元された太刀は、今は神様の元に置かれている為、二度と見ることは出来ません、貴重な映像記録が放送されます。

【番組の見どころは?】
今回、NHKの独占取材で、初めて目にする復元された毛抜形太刀の刀身、螺鈿細工、貴重な映像記録を堪能できる。
科学調査で分かった、今回復元される「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでん けぬきがたたち)」が、ほぼ純金で出来ていた。金メッキでは無かった。金無垢と螺鈿細工の見事な融合鞘にピッタリ合う、刀身を作る月山流5代目の月山貞利さんの迫力。人間国宝、北村昭斎さんのミリ単位の螺鈿彫刻、そして完成した「復元 金地螺鈿毛抜形太刀」。眩いばかりの至高の太刀に思わず息を呑む。

【この番組を企画したきっかけは?】
2008年春日大社を記録した番組「神々が降り立った森で」を制作し、現場の音と雅楽で神様の気配を感じて頂いた。
今回は、日本人の精神性の象徴でもある「刀」の復元、現代に今一度、日本人の技術力と発想力、そして何より神様への感謝の気持ちを現場の空気感が記録された映像で感じとってもらえたらと企画しました。

【心に残った言葉は?】
人間国宝の北村昭斎さんが「今から800年前によくこの様な細かい技術で至高の太刀を作ったなと、復元しながら感心してますよ」「私には・・難しいな・・・」
皆さんため息をつきながら、復元作業に取り組んでおられました。

【この番組を取材するなかで新しい発見や、驚いたことはありましたか?】
太刀を作りあげるのにこれほどまでに、分担され、細かな作業があることに驚きました。
研ぎで刀は決まるとも言われていて、今回はとても細かくて小さななるたき砥石で丹念に仕上げる人間国宝の姿、顕微鏡でミリ単位の彫金を施す白金師、螺鈿彫刻、どれも失敗の許されない厳しい世界。大変貴重な匠の技術が途絶えることなく継承されていることに感嘆しました。

【見てくださる方に一言】
金無垢の眩さ、直刃の美しさ、太刀が作られ春日大社に奉献された、歴史的な背景。
そして匠たちの「神業」、色々なものが集約された毛抜形太刀を堪能して下さい。
今回は平安時代に無もなき職人が作り上げた「金地螺鈿毛抜形太刀の技」VS「現代の名匠の技」構図がたまりません。共通しているのは「神様への思い、どんなに細かな所も手を抜かないストイックな精神性」日本人の精神世界も感じられる。番組になっております。

(番組ディレクター 鈴木 和弥)

番組内容

春日大社 よみがえる黄金の太刀~平安の名宝に秘められた技~
世界遺産の一つ奈良・春日大社では昨年、20年に一度の大規模修繕である、式年造替が行われた。中でも注目されたのが、ご神宝である国宝「金地螺鈿毛抜形太刀」の復元だ。経年劣化によって錆ついたこの太刀を復元するため、最新科学で分析した結果、多くの部分にほぼ純金が使われた、類を見ない豪華な刀であることがわかった。復元に携わるのは人間国宝級の職人たち。平安の名宝に秘められた神聖で高度な技と格闘した3年の記録。

2017年1月6日金曜日

江戸を歩く

江戸前、江戸っ子、江戸風情。どれもきっぱりさっぱりとした言葉です。粋でいなせでせっかちで、人情味があってお人よし。そんな愛すべき人々が住み、行き交った江戸という町は、なんと魅力にあふれていたことでしょう。江戸で創業し、江戸が東京と呼ばれるようになって久しい今も、当初の情熱や心意気をもち続ける店には、私たちを惹きつける特別なものがあります。日本各地から江戸入りし、そこをわが町としながら腕を磨いた職人たち。新しいもの好きな江戸っ子を満足させ続けた、匠の技や味。当時のにぎわいや面影を見つけに、江戸の老舗散歩へ出かけましょう。

日本橋人形町の打ち刃物店「うぶけや」

まず始めは、日本橋人形町の打ち物刃物専門店「うぶけや」。そもそもの創業は1783年、大坂といいますが、江戸時代の後期に江戸に出店。右書きの看板や木枠のガラス戸、ショーケースを境にした畳敷きの小上がり・・・と、江戸時代の創業が多い人形町でも、当時のお店の面影が色濃く残っている数少ない老舗です。
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神田川から南、新橋あたりまでの中央通を中心とした一帯は、手に仕事をもった職人や商人が暮らした地域。日本橋は江戸開府と同時に架けられ、その翌年には日本橋が五街道の基点に定められます。ゆえに、江戸時代の日本橋一帯は商業の中心となり、富と力をもつ大商人も生まれました。 しかし三井や丸井といった大店(おおだな)が並ぶなか、職人がコツコツものをつくって売る「うぶけや」のような店も少なくありません。この町を活気づけ、気風(きっぷ)がよくて人情に厚い江戸っ子気質を育んだのは、そうした職人や商売人たち。日本橋では、ビルの合間に昔の風情を残してたたずむ老舗めぐりが可能です。
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写真左は江戸の趣味風流名物をくらべたかわら版です。「うぶげや」の店名、見つけられますか?

うぶげや

住所/東京都中央区日本橋人形町3-9-2 地図
TEL/03-3661-4851
営業時間/9時〜18時
定休日/土・日・祝日
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佃島の江戸名物、佃煮の「天安」

さて、田園地帯にあった荒れた城と土地を急ピッチで大改造し、江戸を一大都市として整えていった徳川幕府ですが、なかにはこんな人情話も。本能寺の変が起こった際、わずかな手勢で堺にいた家康の三河への脱出を手助けしたのが、摂津国佃(せっつのくにつくだ)村の漁民。家康はそんな彼らを江戸に呼び寄せ、隅田川の石川島という小島続きの干潟(ひがた)を埋め立てた土地と、隅田川と河口一帯の漁業権を与えて恩返しをしました。その埋立地が佃島です。
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漁業権は江戸城へ魚菜を献上するためのものでしたが、隅田川の漁量は豊富で、余った魚介は日本橋の河岸で売れました。地代も店(たな)費もかからず、小魚や貝類を煮た佃煮商売も発展。宵越しの金は持たない(持てない)のが江戸庶民といわれていますが、佃島での暮らしぶりはなかなかのものだったよう。落語の「佃祭」という噺(はなし)で、幸せに暮らす女の嫁ぎ先が佃島である、と描かれたことからも想像できます。そんな佃煮発祥の地である佃島で、天保8(1837)年に創業したのが「天安」。はじめは漁期に腐らない副菜が必要だったことと、時化(しけ)て漁ができないときのための保存食として、小魚や貝類を塩で辛く煮込んだものでしたが、次第に?油やざらめで甘辛い味付けに。上方の味から、江戸の好みに変わりました。
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佃島と対岸の明石町(あかしちょう)を結ぶのは、日に何度も往復する渡し船。今からちょうど50年前の昭和39年、東京オリンピック開催に伴う都市整備で佃大橋が開通すると廃止されましたが、「天安」のすぐ近くには、〝佃の渡し〟の常夜燈(じょやとう)が今でも残っています。また、近年再開発も進む佃島ですが、家々が建ち並ぶ狭い路地、玄関先の植木鉢、猫の日向ぼっこ・・・など、まだまだ江戸風情を感じることができるのです。

天安(てんやす)

住所/東京都中央区佃1-3-14 地図
TEL/03-3531-3457
営業時間/9時〜18時
定休日/大晦日・元日
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前半はここまで。後半では歌川広重の名所江戸百景にもゆかりのある『亀戸』や江戸の風流と文化を今も残すエリアである『靖国通り』まで足を運んでみましょう!
後半の江戸散歩はこちらから!


 江戸散歩の続きに出かける前に、江戸の成り立ちを見てみましょう。
天正18(1590)年8月1日、駿河国(するがのくに)からの国替えで徳川家康が入場したのは、武蔵野(むさしの)の一隅にあった本丸だけの簡素な城。城下には八重洲(やえす)の河岸(かし)と麹(こうじ)町あたりに粗末な民家がいくつかあるだけという、のどかな田園地帯でした。徳川幕府が開かれたのはその13年後。千年の歴史と贅(ぜい)を尽くした文化をもつ京都や、寺内町(じないちょう)から発展した大坂とは異なり、江戸は国家統治のためにつくられた町だったのです。河川や道路の整備改修、造成や建設工事などで常に人手が必要だったことや参勤交代などもあり、江戸は日本各地から人が流入することで都市の形態をととのえていきました。そうして、それ以前に根付いた文化をもっていなかったこの町は、諸国の文化を吸収しながら、バラエティに富んだ江戸ならではの文化を生み育(はぐく)んでいったのです。その文化の豊かさは、当時の手技や好みを今に伝える老舗の数々に見ることができます。
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さて、亀戸・九段へ足をのばしましょう

諸国からの出入りも多く、発展を続けていた江戸では、町の案内書、いわばガイドブックは必然でした。挿絵入りで80の名所旧跡が紹介された「江戸名所記(えどめいしょき)」や、親子3代が40年もの歳月をかけて完成させた全649図の「江戸名所図会(ずえ)」など、さまざまなガイドブックが人気を博します。歌川広重(うたがわひろしげ)もそのブームにのり、119枚の絵で当時の江戸名所をほぼ網羅した「名所江戸百景」を刊行。そのなかに、「亀戸天神境内」という1枚があります。垂れる藤の花や青々と描かれた松の向こうに、亀戸天神を象徴するこんもりとした太鼓橋(たいこばし)や、藤棚の下で花見をする人々の姿が。梅や藤の花の季節には、小船で隅田川から小名木川(おなぎがわ)、横十間(よこじっけん)川を上って亀戸天神の西門前に上がり、人々は花見参拝を楽しんだとか。

くず餅ひと筋200余年! 亀戸天神の「船橋屋」

広重が「亀戸天神境内」の絵を完成させた安政3(1856)年の約50年前にこの地で開業したのが、くず餅ひと筋200余年の「船橋屋」です。奈良や京都でいただく本葛による葛餅とはまったく異なるのが、「船橋屋」をはじめとする関東流のくず餅。湯で練った小麦のでんぷんを蒸し、黒蜜ときな粉をかけたものをいいます。発祥は諸説あるようですが、そのひとつが「船橋屋」。初代の勘助(かんすけ)は、花見でにぎわう亀戸天神の参拝客を見て何か振る舞えないかと考案したのが、故郷の良質な小麦を使ったくず餅でした。
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はじめは境内の茶店で出していましたが、瞬(またた)く間に江戸名物のひとつと数えられるほどの評判となり、明治中期には鳥居近くの現在地に立派な店をもつまでに。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や永井荷風(ながいかふう)、吉川英治(よしかわえいじ)などの文化人も幾度となく店を訪れ、この素朴な味を堪能したといいます。
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亀戸天神の鳥居が面している蔵前橋通りには「船橋屋」のほか、〝天神まんじゅう〟や〝天神せんべい〟と看板を掲げる店や、のり、漢方薬、甘栗、炒り豆屋などがあり、参拝客が行き交う江戸時代の亀戸の様子が目に浮かぶよう。そしてふと目を上に向けると、「船橋屋」の瓦屋根からは、にょっきり東京スカイツリーが。江戸と東京、新旧の姿が入り交じる、なんとも楽しい老舗散歩です。

船橋屋(ふなばしや)

住所/東京都江東区亀戸3-2-14 地図
TEL/03-3681-2784
営業時間/9時〜18時
定休日/無し
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江戸~明治の政治と文化を伝える「九段下 玉川堂」

さて、九段下(くだんした)や神保町(じんぼうちょう)界隈も、江戸の風流と文化を残すエリア。日本橋川に架かった俎橋(まないたばし)のたもとの靖国通りに間口を開ける「九段下 玉川堂」も、筆や和紙、墨など書道具を専門とする老舗です。
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この店の創業は文政元(1818)年。当時は、現在のホテルグランドパレス周辺の飯田町中坂に店を構えていました。江戸時代は今の靖国通り(当時の九段坂)より中坂のほうが町人町としてにぎわいを見せ、神保町や駿河台は直参旗本のお屋敷町。神田川畔には高杉晋作や桂小五郎が通った齋藤弥九郎道場があり、『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴は中坂で寺子屋を開校。彼の『馬琴日記』には、「玉川堂に筆を40本注文しに行った」など、玉川堂の名前が頻繁に記されていて、この店の繁盛ぶりがうかがえます。そのころの九段坂の上からは、品川沖に入る船や富士山の勇姿も望めたとか。
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明治維新後、中坂から現在地へと移った「玉川堂」ですが、当時店の裏には旗本屋敷跡の広い庭と池があり、そこで「玉川亭」という貸席を開いていました。書画会や勉強会、会議など、ここに通った文化人は数多く、現在の日本医科大で助手をしていた野口英世(のぐちひでよ)の渡米歓送会が開かれたりも。二松学舎(にしょうがくしゃ)で漢文を勉強した夏目漱石は学校帰りに九段坂を下りて寄り、?町に屋敷があった永井荷風はここで尺八の稽古をし、晩年までよく店を訪れたとか。もちろん名だたる書家も玉川堂製の筆を贔屓(ひいき)にしてきました。

九段下玉川堂
(くだんした ぎょくせんどう)

住所/東京都千代田区神田神保町3-3 地図
TEL/03-3264-3741
営業時間/10時〜18時
定休日/日曜・祝日
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江戸時代は政治、維新後は学業の町でもあった九段界隈は、同じ町人町であっても日本橋や下町とは趣の異なる、文化の薫り高い町です。関東大震災や東京大空襲などで幾度も町の様子は変わりましたが、東京には、江戸時代に創業し、江戸の味や江戸の職人技を継承する老舗が100を超えて残っています。それらは伝統を守るだけでなく、創業当時の心意気を胸に時代とともに躍進してきたからこそ、現代も愛されているのです。そんな老舗を訪ねながら、江戸っ子の暮らしぶりや当時の町のにぎわいに思いをめぐらす散歩は楽しいものです。