2016年11月4日金曜日

土門拳

宮沢賢治はカメラマンだと言ったのは草野心平だった。羅須地人協会に無一文裸一貫で飛びこもうとした草野らしい言い方だ。詩人にして賢治のシンパサイザーならではの炯眼だった。
 新宿に「学校」というバーがあって、そこは心平さんを中心にした「歴程」の詩人たちの溜まり場だったのだが、そこで賢治について心平さんや宗左近や高内壮介さんと雑談したことがあった。心平さんはその夜は上機嫌で胡麻塩頭をなでながら、ハハハ、君はまだ宮沢賢治を読んじゃいないんだよ、あれはね、縄文以来のカメラマンなんだよと、ぼくの質問を一笑に付した。
 その賢治を昨夜に綴って、ぼくはちょっと茫然としたままである。一夜をおいてもなんだかまだ目の中が霞んでいる。またまた風邪がぶりかえして、微熱のままに綴っていたこともあるだろうけれど、それよりもやはり賢治の未到の深さに入って、まだステーションに戻れないというのが正直なところだ。
 こういうときはどうしたらいいのだろうと思いながら、ああ、そうだ、北の人の続きは北の人がいい、それなら鈴木牧之や吉田一穂、北欧のカール・ブリクセンや『トナカイ月』のエリザベス・トーマス、あるいは山形の土門拳か秋田の土方巽だろうと思いはじめた。
 青森の太宰治寺山修司も視界に入ってくるけれど、二人はすでに採り上げたし、『北越雪譜』ではまだ早く、一穂の『古代緑地』や土方の『病める舞姫』は別の日にしたい気分だ。それにやはり日本人がいい。そこで土門拳をこれから書くことにする。まさに縄文以来のカメラマンの本物だ。
 土門拳とは会えなかった。会えなかった人などいっぱいいるが、しまった、会っておくべきだったと思う人が、そのなかにまた何人も何十人も、何百人もいる。エディターとしての日々を思い返しては、そういうことをよく悔やむ。土門拳はその一人である。時期からいえば会えなくはなかった。
 大辻清司さんに「イメージとは何か」という話をしてほしいと言われ、ぼくが桑沢デザイン研究所の写真科の講師になったのは1972年だった。すでに内外のモノクロームの写真集を片っ端から見続けていて、自宅にはカメラマンを同居させていたし、自分でも写真を焼くのが好きだったので(撮るよりDPEが好きだった)、引き受けた。見続けた写真集はさすがに欧米のものが多かったが、浜谷浩・木村伊兵衛・土門拳などの大御所と、高梨豊・森山大道・沢渡朔らの新しい日本の写真もよく見ていた。
 写真集というもの、見方があって、パラパラ見てはいけない。ゆっくり1ページずつを繰る。眼が止まったら、飽きるほどそれを見る。見終わったら、今度は少しスピードをあげて見る。パッとめくって、急に前の写真が気になりだすことが必ずあるだろうから、そのときは前を繰らないで、そっと頭の中でその気になる写真を思い浮かべ、そのうえでそこに戻る。こういうことをしたうえで、また最初からパラパラやる。お勧めだ。
 土門拳の写真集では『江東のこども』と『室生寺』が好きだった。むろん『ヒロシマ』も『筑豊のこどもたち』も『古寺巡礼』もゆっくり見た。
 見ていると、しだいにこちらの喉がカラカラになってくる。そこには名状しがたいほどの他を圧する力があったということだ。押しやる力ではない。求心力に似た引きこむ力なのである。最近、土門拳写文集なるものが小学館文庫から6、7冊出ていて、これは便利なのでときどき見ているのだが、文庫サイズになってもその力は変わらない。やはりすごい写真家だ。
 では、その土門の何を採り上げようか。ちょっと迷ったが、あえて写真集をはずして、『死ぬことと生きること』を選んでみた。土門が車椅子で撮り始めてからのエッセイ集である。杉浦康平さんがこの本の装丁をしているときに、横で見ていたという因縁もある。
 本書は冒頭に、「日本人としてのぼくは、どこの国よりも日本が大好きである。そして、日本的な現実に即して、日本的な写真を撮りたいと思っている」とある。ついでに米と味噌汁とコーヒーが好きで、パンと紅茶はダメとも、「ぼくは正真正銘の東北人だ」とも書いている。
 これはまさしく土門の心情もしくは身上である。土門はつねに日本人であることを繰り返し強調していた写真家だった。『古寺巡礼』には、「ひとりの日本人の、みずからの出自する民族と文化の再構成の書であり、愛惜の書であるつもりである」とさえ綴っていた。綴っていたというより、そういう「心情=身上」の火を吹いていた。
 こういうことは土門のどんな写真を見ても、すぐ伝わってくる。被写体が日本や日本人だからというのではなく、心の目がまさに日本になっていた。圧倒的な『室生寺』(1954)など、そこに無数の日本が肯定的に凌辱されている。室生寺橋本屋の奥本初代さんの話では、昭和14年から撮りはじめて30年後に雪の室生寺を撮るまで、土門は40回以上にわたって当地を訪れていた。
 カメラは室生寺が隠していたことまでを覗きこんでいる。カメラは光を待ち、呼吸を秘めている。カメラはいったん相手を掴んだら、雷が鳴っても相手を離さない。見ていると、さきほど言ったように、引きこまれ、ただただこちらは喘ぐだけになっている。こういう写真は日本の胸倉をつかむようにといえばいいのか、目で日本という対象をひんむいたといえばいいのか、ともかくそこには「日本」が誰も見たことのない息吹で躍如した。
 そもそも土門の写真は「とことん撮る」という本質に裏打ちされていた。写真においてとことん撮るとは、もうこれ以上は撮れないというところまで撮るということだ。
 とことん撮れば、当初のモチーフの条件や状態が変わってしまうこともある。光も変わってくる(土門はライティングは嫌いなので、たいてい自然光で撮っていた)。それでもかまわない。ともかく撮る。土門は「撮っても意味がなくなるまで撮る」と書いている。
 けれども、それだけ撮っていても、満足できない写真しかできないこともある。しかしながら、そこまでとことん撮っていれば、世の中には違った見方や異なった撮り方があるという格別のヒントにも、突如として出会えることが多いとも言う。その格別のヒントは、高僧の一言にあるかもしれないし、骨董屋のモノの持ち方や光のかざし方にあるかもしれない。あるいは誰かの無造作な写真の場合もある。
 その格別のヒントが一目でパッとわかるようになれればしめたもので、そのヒントによって次にまた「とことん撮れる」ようになる。新たなピントも合ってくる。土門は、いつもそういうことを考えていた写真家なのである。
 それにしてもわれわれは、何事も「とことん」をしていない。「とことん」していないから、決定的なヒントに出会えない。そこで自分がしていることにいつも自信がなくなり、それが写真であるなら、自分の写真がいつもぐらぐら、へなへなしてしまう。すべてのヒントに見放された一人よがりの写真になっていく。
 ところで土門は、こうしてとことん撮っていると、そのうちハッとする時があって、それが決め手の写真なのだということが瞬時に見えるようになるとも言っている。しかも、このときは瞬間的に題名まで浮かぶのだという。これには驚いた。自分が撮った写真をあとでベタ焼きを見てマーカーで丸をつけているようでは、その写真家はその場で何にも気がついていなかったということなのだ。
 土門拳は山形県の酒田に生まれた。貧しく育ったようだが、酒田は最上川が母なる川で、土門もその豊かな水量を呑んで育った。斎藤茂吉、井上ひさしに何かが通じる。でも、幼少時は孤独な餓鬼大将だっただけだと自分で書いている。
 もっとも7歳のときに一家揃って東京へ移住しているので、そこで“都会の野生児”が萌芽した。考古学者か画家になりたかったそうだが(モジリアニふうの絵を描いていた)、賢治同様に父親に反対され断念して職を転々とし、農民運動に関心を寄せたりしている。
 結局、賢治が亡くなった昭和8年に上野池之端の宮内幸太の写真場に住みこみ、そのあと名取洋之助の「日本工房」に見習い入社して、写真家として立つことを決意した。26歳である。
 日本工房とは、ずいぶんものすごいところに潜りこんだもの、ここはそのころ最もラディカルで本格的な報道写真集団だった。木村伊兵衛、原弘、亀倉雄策らがひしめいていた。日本宣伝誌「FRONT」もつくっていた。ただ土門はまだ考古学に憧れていて、当初から古いものを撮ろうとしていた。
 そこで考える。古いものを撮っているのは報道ではないのか。古いものを撮っても、それはニュースではないのか。古いものは「新しい日本」ではないのか。
 この答えはどこにもなかった。写真家たちにも、日本工房にも、報道社会にも、答えられる者はいなかった。そんな写真など、誰も見たことがないからだ。そこで土門拳がこれに挑むことになる。
 いつも建っている寺の門、昔からの仏像、ただの壷、部屋の中で立ち塞がる襖、舞台で次々に動いていく文楽、雨が落ちる社の屋根、しーんとしたままの庭の苔、誰も上り下りしていない石段‥‥。ここにはどんなニュースもない。
 が、土門はこれらを撮りつづけた。しかるに、このニュースにならない写真から、たとえば室生寺の真底が、土門によって“報道”されたのだ。古いものこそニュースだったのだ。
 ぼくは、昭和16年に32歳の土門が文楽を撮りはじめたことに、いろいろな意味で感服している。新橋演舞場が皮切りだった。
 まず、昭和16年という時代情勢だ。日米が開戦した年である。こんな時期に土門は文楽にこだわった。次にこのさなか、よりによって文楽を選んだことだ。たんに選んだのではなく、人形浄瑠璃というものだけを選び切った。いまでは歌舞伎も文楽も能も茶の点前も、なんでも適当に写真になっているからべつだん驚かないだろうが、この時期に報道写真家集団を出身した写真家が、わざわざ被写体としては退屈至極な文楽を選んだことは、とても恐ろしい。それも、動いてなんぼの文楽をモノクロームに止めてしまうのだ。しかも、注文で撮ったのではない。誰から頼まれたのでもなかった。
 しかし土門はあえて文楽に絞ったのである。そこからきっと「未知の日本」と「揺動する日本」が見えてくることを確信していた。
 実は、土門は見抜いていたのである。第301夜の有吉佐和子『一の糸』にも触れておいたように、この時期の文楽は分裂騒ぎのなか、名人たちが「最後の光芒」を放っていたのだった。その光芒は絶望的な光芒でもあり、また、まさしく「死ぬことと生きること」を問うた光芒でもあった。
 たとえば、昭和17年1月の大阪文楽座での写真。ここには豊竹古靱太夫の櫓下披露の手打ち式が写っている。太夫の古靱太夫と三味線の鶴澤清六が紋下の床に坐り、人形遣いたちが舞台に並んでいる。古靱太夫と清六はのちに訣別する仲である。もし二人が訣別すれば、吉田文五郎と古靱太夫の顔合わせも見られなくなる。この写真には、その暗雲の予兆が無言に張りつめて、不気味な緊張を訴えている。
 それほどの写真なのに、これらの文楽の写真はなんと30年をへて、昭和47年に田中一光の渾身の造本と構成によってやっと写真集になった。それまでのあいだ、「写された文楽」は土門の手元でじっと黙って眠っていた。ぼくはこの、土門にひそむ「時熟する待機」というものにも感服している。
 本書もそうなのだが、土門には豪語を吐くクセがある。雪がほしくて室生寺の宿屋で待ちつづけていたといったような伝説も、いくつもある。
 その豪語のひとつに、「アマチュア時代というものはぼくには一日もなかったのだ。ぼくは最初からプロだったのだ」があった。
 これは土門拳を知るうえでも、これから写真家をめざす者にも、また仕事に不満をもつ者にも聞かせたい豪語だ。いったい土門は、なぜ最初からプロだったのか。
 写真を始めたてのころ、土門は借り物のカメラを使ってはモノを撮り、町の一角を撮っていた。自分がモノを見たとたんに、そこにカメラがぴたりと吸いつくための訓練をしたかったからだ。それも半分は空シャッターで、しかも連日、ほぼ1000回のシャッターを切った。しかし近くのモノばかりでは訓練が足りないと気がついた土門は、空に突き出る広告塔を撮る。広告塔「ライオン歯磨」の「ラ」や「歯」にレンズを向け、手の構えのスピードを変えては何百枚も撮りつづけたのだ。やがて一瞬にして、広告塔の「歯」が切り刻むようなピントで撮れるようになっていた。
 一方、自分が好きなモノを見続けた。土器、茶碗、芝居、のれん、家屋、子供、自転車、道路、花などだ。
 これだけの準備のうえ、土門は初めて写真を撮る。それも好きなものを撮る。ここからがすでにして写真家土門拳なのだ。出来上がった写真は、すべて土門がそのように撮りたかったという写真ばかりとなった。これはまさしくプロなのだ。なるほど、土門は最初からプロとして写真を撮っていたということになる。
 これは「方法の発見」への執着ということでもある。また、対象にはアマもプロもないということなのである。
 土門はこういうふうにも豪語していた。有名な言葉だ。「いい写真というものは、写したのではなく、写ったのである。計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真が出来る。ぼくはそれを鬼が手伝った写真と言っている」。
 そうなのだ、が手伝った写真なのである。鬼気迫る写真というわけではない。鬼気迫っていたのは土門拳であって、そこに去来する鬼気が何かを助けて、写真そのものが鬼の撹乱の外まで出てきたということだ。鬼とは「抱いて普遍、離して普遍」の、その普遍がやってくるギリギリの時空の隙間のことなのだ。
 助手たちの証言によると、土門はいつも「一番大事なことは、ギリギリまで待つことなんだ」と言っていたという。待機である。が、待機ではあるけれど、ただ待っているのでもない。何かと勝負しながら待っている。その勝負手を握っているのが鬼なのだ。そういうときは、鬼もうっかり手伝ってしまうものらしい。
 土門拳は肖像写真や人物写真にも独自の写風を出した。その前提になっていたのは、ポーズを注文しないこと、ライトをつけないこと、この二つだった。
 高見順の撮影に鎌倉の自宅に行った。書斎で撮ることをすぐ決めると、その部屋をすばやく観察する。光の具合などではない。そんなことは瞬間的に決められる。高見順らしさを象徴している特徴を見つける。ではそれを背景に撮ったりするのかというと、そうではない。ただ、その話題を振り向ける。
 高見順の机には槍の穂先のような尖った鉛筆が1ダース以上も筆立てに入っている。原稿用紙は200字詰だ。これは作家としてめずらしい。「へえ、200字詰をお使いですか」と話しかけ、「いや10年くらい前からで」と答えた瞬間にシャッターを切る。「鉛筆はHBですか」と聞いて、答えようとした瞬間にシャッターを切る。カメラはあくまで高見順の顔か、バストショットだけ。べつだん鉛筆や原稿用紙を入れたいわけではない。けれども、作家は自分の得意なものを喋ろうとすれば、それが作家の貌なのだ。
 土門はこうも書いていた、「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る」。土門はいつまでも、この声を撮ろうとしてきたのである。それも仏像の声さえも――。
 土門拳は昭和35年の51歳のときザラ紙で100円の定価で出版した『筑豊のこどもたち』を刊行すると、そのあと脳出血で倒れ、右半身が不自由になった。
 これで土門はカメラを大型カメラに切り替える。そのなかで生まれていったのが『古寺巡礼』である。言葉による和辻の巡礼(第835夜)とはとことん異なった巡礼だった。和辻は眼で掴んだ古寺を綴ったが、土門は手で掴める古寺を撮った。
 しかし59歳のとき(いまのぼくの歳であるが)、仕事先の萩でふたたび脳出血で倒れた。萩の乱だった。そのまま九州大学付属病院でのリハビリが1年間続いた。ついで長野の奥鹿教湯に転居した。誰もが再起不能を噂していたが、土門は不屈の力で蘇り、車椅子での撮影にがむしゃらに向かっていった。
 こうして63歳のとき、30年の堆積を問うた『文楽』が駿々堂から発行されたのだ。みんな、万歳を叫んだものだ。それからである、本書が築地書館で準備され、杉浦康平が土門拳に「死」と「生」を書いてもらって、これを野に放ったのは。
 みんなが、鬼はいまなお元気に遊んでいると知ったものだった。
傘を回すこども 東京・小河内村 1935

適正な距離というものがある。絵を見る場合なら、作品の対角線の1・5倍がそれだ。画家が絵を見直す場合、それくらいの位置に立って全体をチェックするかららしい。ただし、大勢の人が詰めかける展覧会となると、適正な距離を保って眺めるのは難しい。たとえば、絵の対角線の長さが1メートルだとする。「それでは1・5メートルの距離から見ればいいんだな」と絵の前から離れたとたんに、他の人の頭が5つも6つも割り込んでくる。あわてて、絵に近寄ろうとしても、もう遅い。ゆっくり、絵を見るなんてことはとてもできない。
_B6A9749
人を集めている展覧会の場合、わたしはどうしているか。雨の日の朝、車を運転して出かけていく。そうして朝一番の空いている時間に適正な距離から絵を眺める。芸術の鑑賞とは絵と自分自身の対話だ。芋の子を洗うような混雑のなかに身を置くのではなく、静かな空間で落ち着いて見なくてはならない。車を使うには、もうひとつ理由がある。美術館のなかには「車でないと行きにくい」ところがある。日本でも世界でも、市街地から外れたところにすばらしい美術館があったりする。そういうところへ行く時、唯一の公共交通機関であるバスが、日に2本しか来ない、といったケースがある。そうなると、時間が気になって、絵を見ている余裕はなくなる。やはり、芸術作品はゆったりした空間で、時間を忘れて楽しむものだ。

土門拳がとらえた〝肖像〟を味わいに酒田へ

山形県酒田市にある土門拳記念館は、市街地から離れた飯森山公園のなかにある。公園の入り口から記念館のほうへ進んでいくと、背景に鳥海山が浮かびあがる。空、山、風といったものが美術館を包む空間になっている。記念館の建物は人工池(白鳥池)に面していて、池の周りには桜、藤棚といった緑が植えられている。池は白鳥、シラサギが泳ぎ、風が吹くと、水面に波が立つ。いつ出かけていっても、記念館とそれを取り巻く景色はフォトジェニックだ。飯森山公園と記念館はまさしく調和している。開設は1983年。ひとりの作家をテーマにした写真専門美術館の草分けだ。土門は酒田の名誉市民第1号になった時(1974年)、全作品7万点を郷土に贈った。市はそれをもとにして記念館を作った。公園を整備したのもまた同じ年である。
_B6A9406-min
土門拳記念館のモダンな建築には、周囲の自然景観を内外から楽しむ工夫が。晴れた日には「出羽富士」とも呼ばれる鳥海山を望む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
土門拳は報道写真、ポートレート、仏像、風景など、さまざまなジャンルで仕事をしている。戦後日本を代表する写真家と言っていい。彼の口癖は「写真は気力で撮る」。言葉にある通り、土門は対象に挑みかかる姿勢でシャッターを押した。
 土門はこんなことを言い残している。「写される人に押されては、ろくな写真は出来ない。写される人が『あなた任せ』の心境になるまで押し切らなければ駄目だ。気力第一である」気力、気力とつぶやきながら相手を見つめ、粘りに粘って写真を撮ったのだろう。画家の梅原龍三郎は土門がなかなか撮影をやめないので、しびれを切らして、腰掛けていた籐椅子を振り上げ、床にたたきつけたという。それでも、土門は少しもあわてず、「もう1枚」と、怒っている梅原の表情を撮った。記念館にはその時の梅原のポートレートもある。
_B6A8909-min
酒田のシンボル、山居倉庫。明治26(1893)年建造の土蔵造りの米蔵が12棟連なり、現在も農業倉庫として活用。二重構造の屋根、日よけや風よけになる欅並木など、自然を利用した低温管理の工夫が。一部はカフェや土産物店として営業。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
土門には「古寺巡礼」「筑豊のこどもたち」「風貌」「文楽」といった作品があるが、見逃してはならないものはポートレートの数々だろう。そこには土門が放った気力の気配が写っている。赤痢菌を発見した志賀潔、作家の谷崎潤一郎、川端康成、幸田文、評論家の小林秀雄、画家の藤田嗣治…。いずれもニコニコと笑っている姿ではない。放心していたり、レンズをにらみつけたり、不機嫌な顔をしていたり…。現在、雑誌で見かける名士と違い、当時の人たちはサービス精神を持ち合わせていなかったのだろう。それぞれが勝手気ままにふるまっている。プロのカメラマンが写真を撮ってくれるからといってありがたがる人種ではなかった。土門はひと癖もふた癖もある人々と勝負をして写真を撮った。険悪なムードを乗り越えて、作品に仕立て上げたのである。そうして、写真ができあがると、不機嫌だった文化人たちは態度を変えた。彼らが見たのは、程度のいいスナップ写真ではなく、人間の内面を写した肖像画だったからだ。

土門拳記念館の居心地

_H7Q3473-min
水に浮かぶかのように設計された記念館。30年以上前のものとは思えない現代的な建築が、秀峰・鳥海山を眺望する自然とも調和。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
土門拳記念館の魅力は写真作品だけではない。土門の友人でもある芸術家たちやその子らがドリームチームを組んで、記念館を作り上げている。設計、館内インテリアは谷口吉生、彫刻はイサム・ノグチ、銘板や入館チケット等のデザインは亀倉雄策、庭園設計は勅使河原宏。わたしは亀倉、勅使河原両氏にインタビューしたことがあるけれど、よほど相手を認めない限り共同作業なんてやろうとしない人たちだった。そんな巨匠が土門拳のためにひと肌脱いだのである。また、これとは別に、土門が使っていた筆箱、硯箱など文房具が展示されることがあるが、愛用した筆箱の作者は人間国宝の黒田辰秋だ。日常生活でも、一級の芸術品を使っていたのである。
_B6A9762-min_B6A9367-min
華道草月流三代家元の勅使河原宏による庭を望むスペース。愛用のカメラなどの展示も。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
展示は時々、変わる。ポートレート写真の他にも大作「古寺巡礼」「室生寺」が特集されたり、昭和の息づかいを伝える「筑豊のこどもたち」が展示されることもある。どれであっても、作品を細部まで見つめていると、いつの間にか時間が経ってしまう。土門拳記念館は時間を忘れる美術館だ。最後にもうひとつ付け加えると、館内のソファ、椅子はいずれも居心地が良すぎる。一度、座ったら、なかなか立ち上がることができない。写真を見る時間の他に、ソファで休憩する時間も想定しておかなくてはならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿