2016年6月24日金曜日

1990年前後

1990年前後は昭和が終わり、平成となった時代である。個人的にも40代として、
いわゆる会社人間として、仕事に埋没し、だがその成果に喜びを感じていた時期
でもあった。
80年代後半からの様々な規制緩緩和による新しいビジネスへの取り組みがはじまり、
新規事業や新しい会社の設立など従来にはない社会の変化に身が高ぶる時代であった。
読売新聞の「昭和の時代」、アンドルー・ゴードンの「日本の200年」などを
はじめとしてその時期の情景に触れると、いささかの興奮を覚えるのは、私1人では
ないのでは、そんな思いがする。

「日本の200年」に以下の文章を見た。
日本と世界の時間の流れを1990年前後を境として区切るという発想は、説得的で
抗しがたい。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、二つのドイツが統一されたのは
90年だった。ソ連の帝国が分解したのは1989年で、ソ連自体が瓦解したのは
91年だった。日本では、ヨーロッパにおけるこのような革命的な変化の前後、
1989年1月に昭和天皇が死んだ。同じ年の7月、自民党は参議院選挙で惨敗した。
自民党の議席が参議院で過半数を割ったのは、結党以来初めてのことであった。
1990年には、80年代の投機的なバブルが劇的な形ではじけて、10年以上に
およぶ経済不況が始まった。90年代の世界的な文脈も、日本国内の時代的な精神も
ともに80年代とは大きく変わった。

確かに、自分の周りも大きな変化を見せていた。
多分、それは今の豊潤とした、しかし何かもう1つ面白さのない時代とは違う緊張感の
ある時代の空気の漂いがあった。

ふと、山崎正和氏の一文を思い出す。
なりふりかまわず生きているとき、人間はまだ文化を持っていない。生きるなりふり
に心を配り、人に見られることを意識し始めた時、生活は文化になる。
喫茶のなりふりを気遣えば茶の湯が生まれ、立ち振る舞いの形を意識すれば、
舞踊が誕生する。文化とは生活の様式だが、たんに惰性的な習慣は様式とは言えない。
習慣が形として自覚され、外に向かって表現され、1つの規律として人々に意識
されたときに、文化は誕生する。ところで何かを意識し表現することの極致には、
それを論じるという行為がある。舞踊が高度化すれば規範が芽生え、規範を
意味づける主張が生まれ、やがてその延長上に舞踊論が成立する。どんな生活習慣
もおきてを生み、掟は法に高まって法理論を形成する。文化が生活の意識化の
過程だとすれば、その最後の到着点にはつねに文化論がなければならない。
文化論は文化についての後知恵ではなく、文化そのものが自己を完成した形態
なのである。

今もてはやされる日本文化の良さ、しかしこの当時は、商業主義が蔓延していた時代
だったような気がする。だが、「なりふりかまわず生きているとき」という言葉が
似合う時代でもあった。

政治的、経済面でもこれも大きな変化を見せていた。
「昭和の終わりは長年続いた自由民主党による一党独裁支配の終わりの始まりを示す
画期となった。、、、自民党を一つにまとめていた冷戦という外的な強制力が、
もはや働かなくなってしまったことである。
金丸の腐敗ぶりは極端だったが、いかがわしい慣行は、それまで長年にわたって
自民党政権の影の面を形作っていた。冷戦の終焉を機に、自民党支持者たちは以前ほど
自民党批判を手控えなくなったし、マスコミも腐敗した政治家を大胆に攻撃するように
なった。批判が高まる中、金丸は、1992年10月議員辞職に追い込まれた。
、、、さらに、
自民党の政権失墜をもたらしたもう1つの要因は明らかに、日本経済繁栄の日々が
終わったことだった。長期に及んだ、世界でも類のない経済成長は、1990年代
の開始とともに終わった。トラブルの最初の兆候となったのは、株式市況の
混乱だった。それは、巨大な力を持っていた大蔵省の官僚たちが下した意識的な
政策決定によって引き起こされた。大蔵官僚たちは1985年にG7蔵相会議
のプラザ合意を受けて、投資と内需の刺激策の実施にとりかかっていた。
80年代末の時点でこの官僚たちは景気刺激策がもたらした地価と株価の高騰が
危険な程度まで達してしまった、と判断した。そこで彼らは投機的な投資の抑制と
バブルの穏やかな収束が図れるものと期待して、徐々に信用の収縮をはかった。
、、、、
ウォール街のダウ平均株価の日本版というべき東京証券取引所の日経平均株価は
1989年12月につけた4万円近くの高値から90年10月には2万円へと
一挙に半分と急落した。、、、、
金利の上昇にによって、何十もの不動産開発プロジェクトがとん挫し、地価の下落は
幾多の不動産会社の倒産を引き起こした。地価の上昇と株価上昇の螺旋的な循環
にとってかわって、バブルがはじけた。
1991年になっていったんは活況を取り戻したかに見えたが、翌年になると、
株式投機がもたらしたバブル景気が崩壊した影響が経済全般に及び不況がはじまった。
工業生産指数、卸売物価指数などが、軒並み低下し始めた。企業の景況感と
消費者マインドも委縮した。92年の夏には日経平均は14000円まで下落した」
となった。

幸い私自身は、まだバブルの余波の中で、自分で思う新しい事業が進められた。
仕事としては絶頂期にあったと思う。だが、盛者必衰の理は生きていた。90年
後半には、坂を滑り落ちていくごとき状態を味わうことになる。

だが、ゴードン氏も指摘し、当時の流れからも当然の対応をすべき課題は、
2016年現在も多くは、そのままである。
「景気が低迷し、金融部門が機能不全に陥るという、誰にも明らかな経済問題
に加えて、90年代が終わりになろうとしているときに、日本の政治家と国民は、
人口の動向と教育に関わる重大な社会問題に直面した。80年代から始まった
出生率の急激な低下は、90年代になっても食い止められることなく続いていた。
厚生省は若いカップルに子づくりを奨励するための様々な措置を打ち出した。
1つは1994年に策定された子育て支援の総合計画「エンゼルプラン」だったが、
出生率は99年までに1.34まで低下した。
さらには、
すでに80年代から悪質な「いじめ」や不登校が社会問題として指摘され、90年代
に入るとそれはさらにセンセーショナルな犯罪となって表れた。また「援助交際」
と呼ばれる新種の少女売春という現象が広がった。このように嘆かわしい若者の
行動のいくつかが90年代の社会問題化した。それにたいして専門家たちは、
このような道徳観念の欠如が広まった背景には物質主義が強まり家族関係が希薄
になったことによって心が危機状態に置かれている、ともいう。
だが、それは斬新なニュースを届けたいというマスコミの報道意欲とが相まった
結果、社会の荒廃ぶりについての報道が大げさになった、という面があったもの
と思われる。身の毛がよだつような犯罪は、決して新しくもなく、日本だけに固有
というわけではない」という指摘がある。

政治も広く事実を伝え、社会の変化に警鐘を鳴らすという使命があるべきメディア
もただの傍観者であった。少なくとも、様々な考えが社会に充満し、一部は当事者
としての想いが強く出すぎ、混乱をきたしていることもあるが、インターネットの
功罪でも、功というべきなのかもしれない。

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