2017年7月24日月曜日

最古の温泉

1300年続く旅館…思わず圧倒される年月ですが、実際に日本には705(慶雲2)年から続く世界最古の老舗旅館があります。山梨県・西山温泉「慶雲館(けいうんかん)」。2011年に、ギネスブックに「世界で最も歴史のある旅館」として登録されました。実はその直前まで世界最古とされていたのは、石川県・粟津(あわづ)温泉の旅館「法師」(718年創業)でした。「慶雲館」の申請により、こちらは次点となりましたが、ギネスの上位を日本が占めることは驚くべき事実です。  
このような1000年超えの旅館が奇跡的に存続する背景には、有史以来、日本に息づく湯治(とうじ)の文化があります。「慶雲館」は天智天皇の側近・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子の真人(まひと)があたりを流浪し、湯を発見したことに始まります。真人は狩猟の途中で、岩の間から湧く湯に入ってみたところ心身の疲れが回復。後日その場所に自ら湯壺をつくったといいます。霊泉の噂は村々へ広がり、さらには遠く京の都で知られるまでに。758年にはこの霊泉の夢を見た孝謙(こうけん)天皇が、はるばる訪れて入湯。時代が下っても、武田信玄や徳川家康が訪れるなど、その威光は留まるところを知りません。また、前述の旅館「法師」の開湯は白山(はくさん)で修行した泰澄大師(たいちょうだいし)として知られています。大師は白山大権現の夢のお告げで霊泉を見つけ、病に苦しむ人々に役立てるため湯治宿を建てるのです。このように健康への憧れ、長命への願いが温泉に人を引き寄せるという本質は、今も昔も何ら変わりはありません。またそこには自然に湧き出す霊泉という、大いなるものへの信仰を伴い、古い湯治場の多くに、温泉寺や温泉神社などがあります。現代のような医薬品のない時代、心身をいたわるという実益と、なぜだかわからないが元気になるという温泉の神秘に人々は魅了され、宿はそのひとつの拠りどころとなったと言えるでしょう。  
和歌山県田辺市にある龍神温泉は、歴代の紀州徳川藩主の別荘地のような場所でした。藩主が建てた「上御殿(かみごてん)」(1657年創業)は、その趣を固くなに守り、今なお私たちは奥深い自然の中でのくつろぎを、時代を超えて味わうことができます。  
ところで、日本の交通網は織豊(しょくほう)政権下から近世にかけて全国的な整備が進みましたが、物資や人の行き来が増えると、峠や河川の難所、あるいは城下町など人々の滞留の多い場所に旅籠(はたご)などの宿泊施設が増えていきます。江戸時代には参勤交代で使われる宿も不可欠でした。寛政年間に中山道(なかせんどう)の木曽奈良井宿で生まれた「ゑちご屋旅館」(長野県・塩尻)や、元禄時代に大多喜(おおたき)城下で旅籠を営んだ「大屋旅館」(千葉県・大多喜)など、各地に続くそのような老舗もまた歴史の貴重な語り部です。  
江戸時代、それまで自由な移動が許されなかった庶民が、信仰を目的とする旅を楽しむことができるようになると、温泉や宿泊施設は日常に異なる風を呼び込んでくれる魅惑の場所になっていきます。また、多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が温泉地を訪れ、創作のインスピレーションを受けたり、実際にそこを舞台に詩作や執筆にいそしむことで、温泉地や宿泊施設はより多くの人々に知られ、愛されることにもなりました。  
石川県・山代温泉では、若き北大路魯山人が「あらや滔々庵(あらやとうとうあん)」などに長く滞在。温泉地という環境の豊かさ、人々が集い育む多様な文化、集積する富がもたらす余裕など、あらゆる条件が揃った老舗旅館は、日本の芸術や文化を涵養(かんよう)したともいえるでしょう。 「私は温泉にひたるのが何よりの楽しみだ。一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮らしたいと思っている」と書いたのは川端康成(「湯ヶ島温泉」)。川端でなくとも、そう感じる人は少なくないのではないでしょうか。世界に誇る老舗旅館の存続は、健やかで豊かな人生を願い、自然と和すひとときを求めてきた、この国の熱情と対をなしているのかもしれません。

慶雲館 創業705年

全世界が注目!深山幽谷のなかの最古の秘湯

無色透明、ほんのりと温泉特有の香りのするやわらかな湯が1300年湧き続けています。2006年の掘削事業で日本随一の自噴泉が堀り当てられたことは、世界最古湯のますますの威風を予感させて象徴的です。
明治時代初期の慶雲館の様子
標高800mの渓谷に挟まれた一帯は、深山幽谷(しんざんゆうこく)という言葉が似つかわしく、6種の風情異なる浴場での湯浴みは太古の息吹を感じる体験です。

慶雲館

上御殿 創業1657年

紀州徳川家が愛でた往時の姿を山間に守り伝える

弘法大師空海が拓いた秘湯、和歌山県・龍神温泉。こんもりとした山々と清流を望む地に、紀州徳川家の祖・徳川頼宣が惚れ込んで建てた宿で、上御殿と名付けられました。
撮影 小西康夫
当時使われた「御成りの間」の姿もそのままに、現在も宿泊が可能です。それは代々の当主の手厚い管理があってのこと。磨き抜かれた江戸時代初期の空間がもたらす安らぎと、日本三美人の湯と讃えられる、名湯の心地よさにも感動がひとしおです。

上御殿

あらや滔々庵 創業1639年

惜しみなく芸術が配された美の宿

初代の荒屋源右衛門(あらやげんえもん)は、加賀大聖寺(だいしょうじ)藩主の前田利治から湯番頭を任ぜられ、以後も代々藩主を迎えてきたことからその由緒が推し量られます。
大正時代には趣味人の15代当主が、まだ無名の魯山人のパトロン的役割を担いました。館内には魯山人の書画や器はもちろんのこと、現当主好みの芸術作品もごく自然にそこに調和しています。芸術を愛し、芸術に愛された希有な宿として、隅々に美を感じる滞在が叶います。

あらや滔々庵

2017年7月13日木曜日

鮎鱧

京都には、室町時代から寺社の門前に料理を食べさせる茶屋がありました。茶屋といっても、次第に食事や酒をサービスするようになり、桃山時代後期(16世紀)には、東山には宴会ができるような料理屋があったことがわかっています。
江戸時代中期(18世紀)になると、洛中には続々と料理屋ができました。中でも『生簀料理屋』が人気で、高瀬川の近くには何軒もの店がありました。そこでは生簀に鰻や鯉、鮒などを入れておき、生きた魚を料理しました。
そのころの京都の料理屋で、魚といえば川魚。海から魚を運ぶには、内陸の都・京都は遠かったのです。たとえば、鯖街道の起点である小浜から京都・出町柳まで、十八里(約70㎞)ほどあります。鯖やぐじ(アカアマダイ)など、海の魚に塩をして、担って歩き始めると、京都でちょうどよい塩梅になる距離でした。運ぶ人は、寝ないで歩きづめに歩いたといいます。
同じく江戸中期の文人・大田南畝が著書に引用した狂歌に、京都の名物を歌った『水、水菜、女、染物、みすや針、御寺、豆腐に、鰻鱧、松茸』があります。江戸の名物、『鮭、鰹、大名屋敷、鰯、比丘尼、紫、冬葱、大根』に比べると、川魚をもっぱら料理する京都と新鮮な海の魚が使える江戸の違いがくっきり。その好みの違いは今も受け継がれています。鱧の字も見えるので、骨の多い鱧を料理する技術がすでにあったことが推測されます。

朝廷への献上品だった高貴な魚、鮎

海から遠い京都で、魚を食べようと思えば、近くの川の魚か生命力の強い海の魚、ということになります。流通事情のいい現代では考えられない輸送の苦労が、そこにはありました。
鮎は1年しか生きないことから年魚とも、香りがよいので香魚とも書きます。神功皇后(じんぐうこうごう)が釣りをして戦勝を占ったときにあがったので、鮎という字になったという話も『古事記』『日本書紀』にあり、古くから食べられてきた魚です。朝廷への献上品でもありました。現在、日本の淡水魚でいちばん食べられているのは鮎で、全漁獲量の4分の1にのぼります。鮎は中国にも韓国にもいますが、これほど珍重する国はないようです。胡瓜や西瓜を思わせる香りも、清冽な味も、短い一生も、日本人好みなのでしょう。
鮎は秋の彼岸のころ下流へ下り、河口近くの浅瀬に産卵して死んでしまいます。稚魚は海へ下って冬を越します。春になると川を遡ってきます。菜種鮎、桜鮎と呼ばれる稚鮎のときには動物性のえさを食べるので、生臭みがあり、魚田(味噌を塗って田楽仕立てにすること)にする人も。葉桜から菖蒲のころになると苔しか食べなくなり、鮎らしい香りと味になります。7月には顔が小さく見えるほどに成長します。
京都では保津川や桂川など、鮎で知られる川が多いのですが、琵琶湖にいる鮎には特徴があります。7、8㎝にしかならず、皮も薄くて、苦みもほどほど。琵琶湖を海の代わりとして、竹生島のあたりで越冬します。まだ小さいお正月ごろに獲って、氷魚と称しました。白い体の色からの名前です。塩ゆでにしたものを、昔は錦市場あたりでよく売っていたそうです。
焼き台で盛大に鮎を焼く『草口食なかひがし』
書家・陶芸家で食に詳しかった北大路魯山人は、大正末期に京都・和知川から鮎を運び、東京の星岡茶寮(ほしがおかさりょう)で出して評判になりました。貨物列車に人間も乗せて、木桶に入れた鮎に柄杓で水をかけ続けさせ、生きたまま運んだのが画期的でした。京都では鮎が桂川から鮎桶で運ばれてきて、「ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながら担いでくるのである」と魯山人が書いています。この運び方が今のエアーポンプの働きをして、鮎を活かしていたのでしょう。魯山人は鮎の活かし方を知っていました。

生命力の高い鱧は京都で手に入る貴重な海の魚

鱧の名前の謂れは、はむ(食う、嚙む)からとも、はみ(蝮)に似ているからとも。大きいものは2m以上になります。生命力が強く、流通が発達する前は、大阪や明石、淡路から京都まで生きて届いた貴重な海の魚でした。祇園祭や大阪の天神祭にはかかせない食材で、祇園祭は別名鱧祭りともいいます。
「梅雨の水を飲んで太る」といわれて、入梅から祇園祭の7月が旬です。また、8月の産卵後9月下旬から11月末までも、黄金鱧といって脂がのる第二の旬です。
鱧の新しいメニューを繰り出してくる『祇園大渡』
鱧は縄文時代から食べられていました。各地の貝塚から鱧の骨が出てくるのです。平安時代には干物にして朝廷に献上されていました。江戸中期の寛政7(1795)年に出た『海鰻百珍(はむひゃくちん)』には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及しています。天保11(1840)年の『包丁里山海見立角力』という食材の番付では、鱧が東方(魚)の関脇で、人気のほどがわかります。最高位の大関が鯛、西方(野菜)の大関は椎茸、勧進元は鰹だし、差添人はだし昆布です。この時代、相撲に横綱はありませんから、鱧は魚の第2位。人気がしのばれます。明治時代以降、きものの問屋が多く集まる室町通あたりでは、祇園祭に来る客を鱧寿司などでもてなしたため、鱧の知名度が上がりました。
『祇園にしむら』は、鱧切りでなく柳刃で骨切りをする。
ぎょっとする外見に似ず、鱧の身は白くて美しく、脂もほどよくて、だしは濃厚。鯛と並んで、京都の人が好きな食材です。味もよいのですが、なにしろ精の強い魚なので、それを食べることで夏をつつがなくやり過ごしたいという期待も込められていたに違いありません。
鱧も鮎も時期によって味の違いがはっきりわかる魚です。食べて京都の季節を感じる魚、それが鱧と鮎なのです。
左/まるで清流を泳いでいるような焼き鮎の姿は、『光安』。右/『阪川』の鱧しゃぶ。ほんの少し火が入ったところが美味。

最

2017年7月3日月曜日

国家的な祭祀の場となってきた伊勢神宮と出雲大社。その本殿建築は日本最古の様式を今に伝えていますが、構造は異なります。比べてみると、その特徴が明快です。

伊勢神宮は“穀倉”に基づく「唯一神明造り」

一般的な神社建築のひとつが「神明造り」ですが、そのなかでも伊勢神宮の正殿はほかでは用いられない特別な様式であるため、「唯一神明造り」と一般に呼ばれています。 これは古代の高床式穀倉が宮殿形式に発展したもの。屋根は「切妻」(本を伏せたような傾斜の屋根)の茅葺で、出入り口は「平入り」、柱を地中に埋める掘立式で、棟持柱が特徴。檜の素木を材にした直線的でほとんど装飾のない簡素な美しさが、2000年もの間〝常若〟であり続ける伊勢神宮を象徴しています。

出入り口はこの向きに

屋根の傾斜面側に出入り口がある「平入り」という形式。

同じようでいて違う内宮と外宮。「千木」の様式も異なります

内宮の千木の先端は地面と水平の内削ぎで、風穴はふたつ半。外宮は、先端は地面に垂直に切られた外削ぎで風穴はふたつ。神域の通行も右側通行(内宮)と左側通行に区別されるなど、内宮と外宮で違いがある。

出雲大社は“住居”に近い「大社造り」

出雲大社の本殿の構造は「大社造り」。屋根の頂部の棟から、両側に屋根が流れ、妻(山形が見えるほう)に出入り口がある「妻入り」が特徴のひとつです。内部は奥行き、間口ともに約11mの正方形の空間で、中央には神聖な「心御柱」が立ち、ほか9本の柱で田の字形につくられています。
柱は礎石の上に立っていますが、鎌倉時代以前は根元が地面に埋まった掘立柱形式でした。屋根は檜皮葺、棟の上には鰹木と千木が上がっています。礎石から千木の先端までの高さが約24m。古代はさらに高かった可能性があり、平安時代から鎌倉時代にかけては倒壊が7度に及んだことが記録に残っています。
現在の本殿は、時代によって細部に変化している部分がありますが、基本的な様式は古代のものと変わっていません。日本の住居の起源とする見方もあり、日本建築史を語る上でも貴重な存在なのです。

檜皮葺の屋根が重厚。軒の厚さは約1m!

緻密な檜皮が、屋根の木材を風雨から守る。檜皮は職人により竹の釘で丹念に留められている。

千木や鰹木を守る伝統の「ちゃん塗り」

屋根の装飾に施された漆黒の塗装は「ちゃん塗り」という伝統技法。銅板を保護する役目が。

なんと伊勢と出雲は鳥居の形も異なります!

伊勢神宮の鳥居は立てた柱を結ぶ材(貫)は短く、上に載る材(笠木)に傾斜がない。出雲大社は笠木とその下の材(島木)に反りがあり、貫は円柱を貫いている。

2017年7月1日土曜日

生姜糖

神話と民藝の里「出雲」と、手仕事とコーヒーの町「松江」。山陰きっての散策パラダイスを旅してみませんか?和樂8・9月号の出雲・松江特集と合わせてお読みください。

來間屋生姜糖本舗

300年変わらぬシンプルな甘さ。生姜(しょうが)の辛みと香りをきかせた銘菓は板チョコのような形。これを手で小さく割っていただきます。
「かつては松江城のお殿様やお姫様たちも召し上がったそうですよ。その当時から材料も製法もまったく変えずにつくり続けています」
優しい甘さとキリッとした生姜の辛みが特徴の「生姜糖(しょうがとう)」。口に入れるとサラサラ溶けて、新鮮な生姜の香りが口いっぱいに広がります。コーヒーにも抹茶にも合うし、紅茶にひとかけら落とすのもたまらなくおいしい――この銘菓をつくっているのが、正徳5(1715)年創業の老舗「來間屋生姜糖本舗(くるまやしょうがとうほんぽ)」。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した伝説が伝わる斐伊川(ひいかわ)の近くで、300年前から店を構えています。
趣のある看板が目印。店内には昭和のはじめと思われるころの写真も。
「生姜糖の材料は、ここ出西地方でしか収穫できない幻の“出西生姜(しゅっさいしょうが)”と水と砂糖だけ。材料を煮詰め、型に流して固めればできあがり…というシンプルなお菓子です」と話すのは、11代目当主の來間 久(くるまひさし)さん。
えっ、それだけですか?…と思わず口にしてしまったところ、「つくっているところを見てみますか?」と有難いお言葉。白衣にマスクに白帽子の完全装備で工房に入れていただきました。
水と砂糖と生姜の絞り汁を煮たて、少し冷まして透明になったものを、板チョコのようなかたちの銅型に流します。
ものの数分で固まったところを型からはずすと、板チョコ状の生姜糖の出来上がり。キラキラと輝いてとってもきれい!
いちど溶けた砂糖を再結晶させているからだそうで、その出来立てをパリンと割って口に入れると、サクッとほどけてフレッシュな味わいです。が、「まだ味が若いでしょう? 少したつと辛みが落ち着いておいしい生姜糖になりますよ」と來間さん。このあとは、工房のみなさんが丁寧に薄紙で包み、袋や箱につめて…とすべて手作業で仕上げます。
「袋や箱のデザインも昔のまま。看板やパッケージに使われている來間屋の文字デザインも、何代目かの当主が考えたそうです」
レトロなパッケージは昔のまま。生姜糖1枚袋入り473円、1枚箱入り486円(ともに税込み)。2枚3枚セットや抹茶糖とのセット、小さく割って個包装したものも人気です。
そんな來間屋生姜糖本舗が建っているのは、「木綿街道」と呼ばれる古い町並みの一角。江戸後期に木綿の集散地として栄えた地域で、商家の面影を残す黒瓦(くろがわら)やなまこ壁、出雲格子(いずもごうし)と呼ばれる格子窓の町家が並んでいます。江戸の風情を伝える町を散策しながら、真っ白な生姜糖をひとかけ口に放り込めば、懐かしくて優しい甘さで心が満たされる。これが300年変わらぬ手づくりの味なのです。
11代目当主の來間久さんとお母さまの定子さん。お店の最寄り駅は、出雲と松江をつなぐローカル線“一畑電車(いちばたでんしゃ)”の雲州平田駅(うんしゅうひらたえき)。

來間屋生姜糖本舗
(くるまやしょうがとうほんぽ)

住所 島根県出雲市平田町774
TEL 0853-62-2115
営業時間 9時~19時 
定休日 不定休 

2017年6月30日金曜日

雨に似合う花

雨だからこそ美しく咲く花もあります。しっとりと雨に濡れる風情に心を動かされるのは日本人の美意識ゆえでしょうか。梅雨の季節ならではの花めぐりも楽しいものですね。

紫陽花(あじさい)

くすんだ紫陽花の色は太陽の下よりも雨雲の下のほうが映えます。花のグラデーションがぼかしの効果になって、美しい風情を醸し出します。
紫陽花イメージ

変化する花の色

紫陽花は色が変化するのが特徴。土壌が酸性だと青系に、アルカリ性だと赤系になります。日本は火山地帯で雨も多く弱酸性なので青系が主流です。アルカリ土壌の欧州では赤系が大半なので、鮮やかな青紫の色は日本ならではの美しさです。

紫陽花はガクが美しい

花びらのように見えるのはガクの部分。中心部に小さな花を咲かせます。てまり状に咲いているのは「西洋アジサイ」。日本が原産の「ガクアジサイ」は額縁のように周囲だけに花が咲きます。
紫陽花のガクイメージ
もともと紫陽花は日本固有の植物。長崎出島に来たオランダ人シーボルトが、恋人の「お滝さん」にちなんで「オタクサ」という学名を付けて海外に初めて紹介しました。それが品種改良され、日本に逆輸入されたのが西洋アジサイです。

紫陽花の名前の由来

もともと日本では「集真藍」(あずさあい)といい、これが「あじさい」に変化しました。やがて、白居易の詩から「紫陽花」という字が当てられるようになりました。色の変化から「七変化」(しちへんげ)という別名もあります。
東京周辺では鎌倉の「明月院」があじさい寺として有名ですが、その他にも紫陽花の名所は多数あり、6月はあじさい祭りが各地で開催されます。

花菖蒲(はなしょうぶ)

野花菖蒲(のはなしょうぶ)が改良されてできたアヤメ科の園芸植物で、一般的に菖蒲というと花菖蒲のことを指し、端午の節供の菖蒲湯に使われる菖蒲はサトイモ科の別の植物です。

花菖蒲、あやめ、かきつばた、見分けられますか?

「何れ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」ということわざがありますが、これはどれも美しくて優劣つけがたいという意味。花が咲くころ各地でイベントが開催されますが「菖蒲まつり」だったり、「あやめ祭り」だったり、いろいろです。

それぞれの花を見分けるポイント

・花菖蒲...水辺などの湿ったところに群生する。
花の色が多様。青紫や赤紫、白や絞りなど、大きな花をつける。
花の真ん中に黄色い斑がある。花茎が葉より長い。
花菖蒲イメージ
・あやめ...山野に生える。水がなくても生育する。
紫色の花を咲かせる。真ん中に黄色い斑があるが、それが網目模様になっている。
あやめイメージ
・かきつばた...水湿地に群生する。青紫色の花を2、3個つける。
中心にある短い花びらのような部分(内花被片)の先が尖って直立している。
かきつばたイメージ
・菖蒲...湿地に生える。菖蒲湯に使われる菖蒲は、株元近くに黄色っぽい細長い花をつける。
菖蒲イメージ
これを覚えておけば、「菖蒲と言いながら実はあやめ」「あやめじゃなくてかきつばた」などと見分けられて、鑑賞の楽しみが増えるかもしれません。
東京近郊では、江戸川河川敷に広がる「小岩菖蒲園」、江戸時代からの名所として安藤広重の浮世絵にも描かれた「堀切菖蒲園」など、たくさんの名所があります。

2017年6月22日木曜日

下賀茂神社

下鴨神社の境内に広がる「糺の森(ただすのもり)」のことを教えてくれたのは、先斗町(ぽんとちょう)にある片泊まり(かたどまり)の宿「三福(みふく)」の先代のご主人だった。ご自分で撮影された糺の森の写真を見せてくれたのだが、原生林の木の枝に鳥が止まっているように思えたので、そう告げると、数日後、「あなたがおっしゃったように山鳩が写っていました」という手紙付きで、大きく引き延ばした写真が自宅に届いた。

 
そういうわけで、糺の森を歩くときは、木々を見上げながら鳥を探す。なにせ縄文時代から残る森である。鳥や動物以外にもいろんなものが住んでいそうだ。目に見えるものも、見えないものも。 住宅地から神社へと導く原生林は「境界」だ。こうした神域と俗世の〝間(あわい)〟を、京都にいると感じることがある。鎮守の森。祭りの夜。路地。橋。池。少し油断すると違う世界に引っぱりこまれそうな、ゾクッとするような瞬間が、なくはない。おそらく目に見えないものに対する畏怖を京都の人たちは自然に感じているのではないだろうか。東京の街は夜中でも明るくて、境界がわかりにくい。京都は神社仏閣の数も多いし、参拝する人も多い。街を歩けば、屋根の上に、家族を守る鍾馗(しょうき)さまの姿を見つけるはずだ。
 
糺の森から下鴨神社本殿でお参りして、帰りには河合神社(かわいじんじゃ)で美人祈願もすませれば清らかな気持ちに。でも、出町(でまち)商店街に出て、「出町ふたば」の豆餅をほおばれば、もう俗世にどっぷりだけど。

糺の森下鴨神社(ただすのもりしもがもじんじゃ)

住所/京都市左京区下鴨泉川町59
TEL/075-781-0010
参拝時間/6時〜18時(季節によって若干異なる) ※糺の森は散策自由

京都下鴨のお散歩記事はこちらから!

2017年6月21日水曜日

幸福度?

http://president.jp/articles/-/22327

日本で最も幸福な都道府県は、ダントツで沖縄県だという。沖縄の平均年収は全国最低で、失業率は全国最悪だ。どうすればお金がなくても幸せになれるのか。幸せをつかむ近道を、「幸福学」が解き明かす──。

「幸せですか」だけで幸福度は測れない

私は、幸せになるための仕組みを学術的根拠に基づいて体系化する「幸福学」の研究者です。その目的は誰でも幸福になれるようにすることです。
厄介なのは「幸福」の定義が曖昧なことです。個人差は大きく、言語が違えば意味も変わります。たとえば英語の「happy」と日本語の「幸せ」は同じではありません。「happy」は「幸せ」よりも「嬉しい、楽しい」という意味が強い。また「幸せ」は持続的な心の状態ですが、「嬉しい」「楽しい」はその場の気分や感情をあらわすものです。そのため心理学では「well-being(幸福、福利、健康)」という言葉で、幸福の研究が行われてきました。また、文化的背景や国民性によっても、幸せの感じ方には差があります。たとえば国別に幸福度調査をすると、日本より西洋諸国のほうが「自分は幸福だ」と感じる人の割合が高い傾向があります。10段階で幸福度を聞くと、西洋のピークは8だけですが、日本では5と8の2カ所に山ができます。
こうした調査は一定の手法に基づいて行わなければ定量的な比較ができません。心理学の世界で最も広く使われているのは、「ディーナーの人生満足尺度」です。考案したエド・ディーナーは2008年まで34年間、米国イリノイ大学の教授を務めていました。彼は「幸福学の父」と呼ばれています。
「ディーナーの人生満足尺度」のポイントは、「あなたは幸せですか」といった単純な質問ではなく、5つの質問に7段階で回答してもらうことで、「幸福」という言葉の曖昧さや、直近の気分の影響を受けにくくしているところです(図1)。この調査では自分が今どれくらい幸福と感じているかという「主観的幸福度」がわかります。たとえば各種調査によれば、中国の大学生より日本の大学生が、日本の大学生よりアメリカの大学生のほうが「主観的幸福度」は高いようです(図2)。
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なぜ収入が上がっても幸せになれないのか

では、そもそも人が「主観的幸福」を感じる要因とは何でしょうか? 真っ先に思いつくのはお金、すなわち収入です。たしかに収入が高ければ高いほど、住居や食事、衣服や嗜好品にたくさんのお金をかけて贅沢ができます。
ところが、プリンストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマンは、10年に驚くべき研究結果を発表しました。それは、「感情的幸福は、年収7万5000ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5000ドルを超えると比例しなくなる」というもの。米世論調査会社のギャロップが08年から09年にかけて調査したデータを分析し、得られた結論です。
1ドル100円で換算すると、7万5000ドルは日本円で750万円。ただ、アメリカ人は日本を含むアジア諸国の人よりも金銭欲が高い傾向にあるのかもしれません。よって、日本では年収500万~600万円程度でしょうか。これは日本人男性の平均所得511万円(14年)とほぼ同じ水準です。
なぜ「収入が高いほど幸せ」とはならないのか。その理由は、お金によって満たされるのは、あくまでも「生活満足度」だけで、「幸福度」ではないからです。「生活満足度」は、「幸福」をつくる要素のひとつにすぎません。
「生活満足」は持続時間の短い感情的満足です。家やクルマ、外食などの消費で得ることができますが、次第に飽きてしまうものです。一方、「幸福」とは、「生活満足」だけでなく、長期かつ安定的に心を満たしてくれるものです。友人とのつながり、築き上げた家族、今まで歩んできた人生の歴史に抱く充実感。これらは「お金では買えないもの」だと言えます。
「生活満足度」は他人と比べられるもの、「幸福度」は他人と比べられないもの、という言い方もできるでしょう。人間の金銭欲、他人との比較欲は際限がありませんから、どんなに豪華な家やクルマを所有していても、それを超える豪華なものが目に入れば、満足度は下がります。しかし、人とのつながりや人生の充実は、他人との比較で簡単に価値が揺らぐものではありません。
平均以下の低収入では、衣食住に問題を抱え、幸福度は低くなってしまうでしょう。しかしある程度の収入――ひとつの目安として7万5000ドル――に達すると、基本的な生活には支障がなくなります。つまり、それ以上の収入は「生活満足度」を引き上げることはあっても、「幸福度」にはあまり寄与しないというわけです。
年収が高ければ「快適」であり「便利」にはなりますが、それは必ずしも「幸せ」とは関係ないようなのです。

幸せになる近道は「非地位財」の追求

幸福について「持続性」という観点からもう少し考えてみましょう。
経済学者のロバート・フランクは周囲との比較で満足を得るものを「地位財」、他人との相対比較とは関係なく幸せが得られるものを「非地位財」と整理しました。「地位財」の具体例は、所得や貯蓄、役職などの社会的地位、家やクルマなどの物的財。一方の「非地位財」は、健康、自由、愛情などです。この2つの違いについて、心理学者のダニエル・ネトルは著書『目からウロコの幸福学』で、「幸福の持続性が異なる」と論じています(図4)。
図では「結婚」が両者の間にあります。これは「結婚」が、「他人に自慢できる配偶者」「家庭を持っているという社会的ステータス」という意味では地位財であり、「パートナーとの絆」「家族への無償の愛、つながり」という意味では非地位財だからです。
重要なのは、地位財による幸福は長続きしないのに対し、非地位財による幸福は長続きする、という点です。「少しでも年収を上げたい」は地位財の獲得を目指す志向ですが、それでは幸福が持続しません。
それなのに、なぜ人はついつい地位財の獲得に走ってしまう――目の前にぶらさがった具体的な餌に飛びついてしまう――のでしょうか。フランクは、人間は自然淘汰に勝ち残って進化してきた生物だから、と説明しました。子孫を残すために重要なのは「競争に打ち勝つこと」。だから人間は、競争に勝つと嬉しくなるようにできている。そのため、他人との比較優位に立てる「地位財の獲得」を目指してしまう。
しかし現代社会では、生存競争にそこまで躍起になる必要はありません。平均年収を超える程度までは「地位財」を目指し、それ以降は幸福の持続性が高い「非地位財」を追求するのが、幸福をつかむ近道かもしれません。

87個の質問を「寄与度」で並べ替え

「地位財」「非地位財」の分類を踏まえたうえで、幸せになるためにはどんな要素が重要なのでしょうか。そのヒントとなりそうなのが、私が研究している「幸せの因子分析」です。
因子分析とは、たくさんのデータの間の関係を解析する「多変量解析」のひとつです。物事の要因をいくつか求め、そうした複数の要因がその物事にそれぞれどれくらい寄与しているかを数値化します。私の研究ではインターネットを通じて集めた1500人に、29項目・87個の質問に答えてもらうことで、自分が幸せだと感じるのに大きく寄与している心的要因をリストアップし、大きく4つに分類しました(図5)。当然、これらの大半が「非地位財」に関連しています。
第1因子は「やってみよう!」因子。自己実現と成長の因子です。自分の強みがあるかどうか、そして強みを社会で活かしているかどうか、そんな自分は「なりたかった自分」であるかどうか、そして、よりよい自分になるために努力してきたかどうか、といったような項目が並んでいます。大きな目標を持っていること、大きな目標と目前の目標が一致していること、そして、そのために学習・成長しようとしていることが幸せに寄与しているのです。
第2因子は「ありがとう!」因子。つながりと感謝の因子です。第1因子が自己実現や成長など自分に向かう幸せだったのに対し、第2因子は他人に向かう幸せだといえます。
また第2因子については、興味深い発見がありました。実は「友達(親密な他者)の人数が多いかどうか」自体は、幸福にあまり関係しません。関係が深いのは「多様な友達がいること」だったのです。多数ではなく多様。つまり、いろいろな職業、年齢、性格、国籍の友達がいる人のほうが、そうでない人よりも幸せを感じられるのです。毎日を職場と家庭の往復に終わらせている人は、幸せになりづらいのです。
第3因子は「なんとかなる!」因子。前向きと楽観の因子です。「楽観性」や「気持ちの切り替え」は先天的な気質だと思われるかもしれませんが、私の経験からは、そうとも言い切れません。私は子どもの頃は内向的・悲観的・神経質でしたが、今ではむしろ真逆の気質です。これは上京をきっかけに、もっと明るく、ポジティブで、積極的な人間になろうと決意し、サークルや部活動、バンドなどに精力的に参加したからだと思います。最初は疲れましたが、確実に性格が変わりました。
米国で盛んな「ポジティブ心理学」によれば、物事を前向きに解釈する人、外交的な人ほど幸福を感じやすく、反対にネガティブな態度を取り続けている人は幸福を感じづらくなることがわかっています。主観的に幸福な人は、そうでない人に比べて、病気になりにくく、寿命が長く、収入が多いというのです。気質や性格は、行動で変えられます。悲観するのは端的に損です。
第4因子は「あなたらしく!」因子。独立とマイペースの因子です。これは「地位財」に目がいくのを抑えるという点で重要です。たとえば「自己実現と成長」を目指すとき、「あいつより出世する」というのは間違い。人の目を気にせず、自分のペースで努力することが幸せを長続きさせるコツです。

日本の「幸福度」は世界順位で53番目

あらためて「幸せの4つの因子」を見渡すと、いかに幸福にとって「お金」が一部の要素にすぎないかがわかると思います。「収入が増えれば、幸せになれるはずだ」と仕事ばかりに目を血走らせるのは、遠回りの愚行です。4つの因子を念頭において行動すれば、より効率的に幸せになれるはずです。
経済的な繁栄が幸福と連動しないことは、国連が今年3月に発表した「世界幸福度報告書」でも証明されています。日本は世界の実質GDP(国内総生産)ランキングでは、アメリカ、中国に次ぐ第3位ですが、幸福度ランキングでは53位でした。
幸福度ランキングの第1位はデンマーク、2位はスイス、3位はアイスランドで、アメリカは13位、イギリスは23位、フランスは32位、イタリアは50位で、日本はその下でした。
また内閣府の「幸福度に関する研究会」の報告によると、日本人の1人当たり実質GDPは1960年代から増え続け、この50年で六倍になりましたが、「生活満足度」はほとんど変わっていないのです(図6)。内閣府が調査している「生活満足度」は、幸福度そのものではありませんが、ひとつの指標として大いに参考となる結果です。


日本のワースト3は群馬、福島、新潟

年齢や地域、家族構成や性別などの属性によっても幸福の感じ方は違います。たとえば年齢。実は人間は年を取れば取るほど、自然に幸せを感じやすくなるようにできています。
図7を見てください。これは、ディーナーがまとめた「感情」と「人生の満足度」に関する世代別の結果ですが、年を取れば取るほどネガティブな感情は減退し、満足度は上がっています。また、図8を見ると、多忙で子どもの出費などに苦しむ40代では人生の満足度が一旦下がるものの、60代以降は概ねどのような状況の人でも満足度が上がることがわかっています。「年寄りは卑屈で不機嫌」というイメージは、大きな誤解だといえます。
これは加齢によって脳の働きが変化し、細かいことを考えるための脳の神経回路が衰えて、全体的なことしか考えなくなるからだとみられています。これはネガティブなことではなく、むしろ「脳の全体関係化」「第3因子(前向きと楽観の因子)の獲得」とでもいうべきことだと思います。
加齢による「人生の下り坂」はネガティブイメージですが、むしろ上りのような苦しさはなく、ゆっくりと見晴らしを楽しみながら歩いていけます。人は、年を取るほどに幸福度が上がっていく存在なのです。
住んでいる地域によっても幸福度には差が出ます。2014年、私は博報堂と共同で、日本国内の地域別の幸福度を測定する「地域しあわせ風土調査」を行いました(図9)。その結果は驚くべきものでした。ベスト3は沖縄、鹿児島、熊本。九州・沖縄地方の幸福度が高く、全体的には「西高東低」となりました。沖縄県の平均年収は全国の都道府県でも最下位。失業率も5%近くと全国最悪です。所得と主観的幸福度が比例しないことがわかります。
一方、ワースト3は群馬、福島、新潟でした。関東近郊の群馬と福島は、東京と物質的な面で比較してしまう人が多いのかもしれません。
次に、男女の幸福度の差です。一般的に世界中多くの国では、男性より女性のほうが、主観的幸福度が高い傾向にありますが、日本はそれが特に顕著。日本は女性が男性よりずっと幸せな国なのです。なお女性が感じる幸福度は、「未婚」より「既婚」、「子どもなし」より「子どもあり」、ありの場合は「3人」が最も幸せという結果でした。

「貧乏子沢山」はなぜ幸せなのか

こうした結果は、これまで見てきた「地位財」と「非地位財」、「幸せの4つの因子」という考察と整合性があります。つまり、「結婚や子どもの存在は主観的幸福度に比例する」と考えられます。「家族をつくる」は前述した、多様な人とつながりを持つ幸せに含まれるアクションのひとつです。
がむしゃらに働いて、出世を目指す、そういう生き方は「地位財」を増やすだけで、その幸福は持続しません。仕事はそこそこでも、家族や友人との時間をしっかり持てているほうが、「非地位財」を増やせるはずです。極論すれば、「可処分所得の多いお一人様」よりも、「貧乏子沢山」のほうが、幸せになりやすい。そのことは数々のデータが示している通りです。
もちろん、配偶者や子どもは「愛情を注げる他者とのつながり」を担保する存在のひとつにすぎません。独身であっても、支え合う仲間や信頼できる友人が相当数いれば、幸せな人生を過ごすことは十分に可能なはずです。
誤解してほしくないのですが、私は「結婚して子どもをつくらなければ幸せになれない」とか「沖縄の人のように暮らすのが一番だ」と主張したいわけではありません。大切なのは、幸福のメカニズムを知り、今の暮らしを振り返ることです。なぜ既婚者や沖縄の人の主観的幸福度が高いのか。その理由を考えることが重要だと思います。
これまで日本は、欧米型の資本主義を手本にしてきました。そのひとつの到達点は「カネで買えないものはない」というライフスタイルです。しかし、それで高められるのは「生活満足度」であって、「幸福度」ではありませんでした。いま地方への「Uターン」に注目が集まっているのも、そうした価値観からの揺り戻しでしょう。だからこそ、世界中で「幸福学」が流行しつつあるのです。私の研究が、みなさんの働き方や暮らし方を見直すきっかけになれば嬉しく思います。