2017年10月4日水曜日

京都の和菓子

日本の美しい四季を和菓子で表現してくれる京都の老舗和菓子屋

優雅な姿と上品な味わいを生んだ京菓子には、京都の風物や歴史、文化が息づいています。洗練の道を一歩ずつ千年もの間歩み続けてきたからこそ、京都の老舗が手がける和菓子は最上の美を秘めているのです。

1 亀屋伊織 

1600年代初め 京都府・烏丸御池
DSC_2010

茶会に出される干菓子のみをつくり続けて400年

表千家・裏千家・武者小路(むしゃこうじ)千家、三千家のお家元御用達。京の町を襲った度重なる大火で、亀屋伊織の歴史を示す古い記録はすべて焼失しましたが、口伝では、徳川3代将軍家光公に「木の葉(このは)」という菓子を献上したときに、御所百官名(ひゃっかんな)のひとつ「伊織」の名を賜ったとのこと。
 
主人の山田和市さんは「干菓子がうつわに勝つようではいけません」と言います。茶の湯の精神に叶うかどうか、ただそれ一点だけを肝に命じて相変わりませずの干菓子づくりに励んでいます。スクリーンショット 2017-06-09 14.01.42桐箪笥は100年以上前のもの(右)

亀屋伊織(かめやいおり)

住所 京都府京都市中京区二条通新町東入ル
営業時間 9時〜16時
定休日 不定休(完全予約制)
備考 要予約・発送不可

2 末富

創業1893年 京都府・五条烏丸
スクリーンショット 2017-06-09 14.08.46タイマイ羹(左)、葛焼き(右)

伝統と革新によって茶人たちが絶大な信頼を寄せる

「末富のご主人に相談したら、なんとかしてくれる」。歴史の古い京都で、たくさんの茶人から最も頼りにされるのが、地下鉄五条駅近くに店を構える末富です。3代目主人の山口富蔵(とみぞう)さんは、NHKでの出演や各方面での講演などで、京菓子の広報活動にも努めてきました。それは山口さんの博識ぶりを見込んでの依頼です。研究熱心な山口さんは、若いころに和菓子の基本を徹底的に学び、それをベースに新しい京菓子の創作に取り組んできました。
「目の肥えた京都人は、奇をてらっただけの菓子には見向きもしない。古典の意匠もきちんと頭に叩き込んだ上で、品のある新しいデザインを提案しないといけません」と山口さん。末富は、老舗の「亀末廣(かめすえひろ)」で修業した初代が明治26(1893)年に暖簾分けを許され、「亀屋末富」を創業。現在の当主の時代になって、創造的な茶の湯菓子を手がけるようになったといいます。写真左の「タイマイ羹(かん)」は、琥珀と呼ばれる錦玉(きんぎょく)の寒天に大徳寺納豆(だいとくじなっとう)を散らしたもの。海亀の甲羅を模した美しさもさることながら、甘味と塩気のバランスが絶妙な逸品で、この美意識の高さには敬服せずにはいられません。
写真右は夏の定番「葛焼き(くずやき)」。シンプル極まるものだからこそ「本物の吉野葛の味わいをじっくり楽しんでほしいですね」とのこと。池田遙邨(ようそん)が描く大和絵の包装紙も抒情性に富んだ京都らしいもの。末富ブルーと呼ばれる澄んだ色彩感覚によって、包装紙からも末富に通底する美意識が伝わります。

3 塩芳軒

創業1882年 京都府・西陣
DSC_1758笹のつゆ

厳選素材で丹精込めてつくられる雅の和菓子

古式ゆかしい長暖簾を掲げる塩芳軒は、とりわけ老舗の風格がただようお店。初代当主は高家由次郎(こうけよしじろう)。明治15(1882)年、菓祖・林浄因(りんじょういん)の流れを汲む塩路軒から別家(暖簾分け)し、創業したと伝えられています。林浄因は、初めて中国から日本に饅頭を紹介した人物。その後、明治29(1896)年に元聚楽第(じゅらくだい)の一角である西陣に移転し、大正初期ころに現在の場所に店を構えました。
 
塩芳軒の生菓子は、高雅な気品に加え、全体バランスのよさが特徴。茶人たちに批評され、淘汰されてきた意匠には、揺るぎない強さがあります。小さな形にほどよく四季の風情を詰め込む。その表現がいかにむずかしいことか。塩芳軒は時代ごとに伝統を見つめ直し、時代の風を取り入れながら、あらたなる和菓子づくりに取り組んでいるのです。その元になっているのは、お客様との対話。時代に流されず、顔の見える関係を大切にする老舗です。

4 鍵善良房

創業1700年代前半 京都府・祇園
DSC_1858のコピー甘露竹

「くずきり」も有名。京都人が愛する祇園の名店

創業当時から祇園の花街(かがい)で、お茶屋や料亭、南座などの御用を賜ってきました。もとの屋号は「鍵屋良房(かぎやよしふさ)」。代々当主の名前に「善」の字が入っていたため「鍵屋の善さん」から「鍵善」と呼ばれるようになったそう。12代目主人が木工芸の人間国宝・黒田辰秋(くろだたつあき)と親しく、黒田が手がけた店の内装や大飾棚も有名です。写真の甘露竹(かんろたけ)は季節限定の水羊羹。瑞々しい青竹は夏の手土産にも最適です。

5 川端道喜

創業1503年 京都府・北山
DSC_2157川端道喜の水仙粽・羊羹粽 吉野葛をねり、笹の葉で包んで井草で手巻きした粽2種。要予約。

朝廷への献上菓子をつくった名門

応仁の乱以後、京都が戦乱で荒れ果てていた時代。財政難に苦しんだ朝廷に毎朝、塩餡で包んだ餅を献上したという道喜。東京遷都までの約350年間、ずっと続けられていたそうです。創業当時からの名物が「御粽司(おんちまきつかさ)」を代表する水仙粽と羊羹粽。京都御所には今も専用の道喜門が残されていて、宮中とのゆかりが深い道喜は、老舗の中でも特別な存在です。DSC_1629

川端道喜(かわばたどうき)

住所 京都府京都市左京区下鴨南野々神町2-12
営業時間 9時半~17時半
定休日 水曜(完全予約制)

6 亀末廣

創業1804年 京都府・烏丸御池
亀末廣の乞巧奠・星のたむけ 6月末までに予約。7月6日、7日(年により変動)に受け取る。7種類杉盆入り

200年変わらぬ格式ある菓子舗

初代は伏見醍醐(ふしみだいご)の釜師だったという亀屋源助(げんすけ)。こちらも御所や二条城にも菓子を納めた老舗のひとつで、特別注文の菓子は、そのたびごとに新しい木型がつくられたとか。1回だけ使って用済みとなった干菓子の木型を集めて額に仕立てたという亀末廣の看板は、格式と伝統を表しています。左ページの「星のたむけ」は、宮中の乞巧奠(きっこうでん)の供饌(ぐせん)をヒントに意匠化された、七夕限定の美しい和菓子です。

亀末廣(かめすえひろ)

住所 京都府京都市中京区姉小路車屋町東入ル車屋町251
営業時間 8時半~18時
定休日 日曜・祝日・正月(年末のみ要予約)

7 柏屋光貞

創業1806年 京都府・東山安井
DSC_2138柏屋光貞の行者餅 宵山の1日だけ販売。7月1日〜10日予約。7月16日に受け取る。3個入り

年に一度、祇園祭宵山だけの「行者餅」

祇園祭宵山(7月16日)の一日限り「行者餅」(ぎょうじゃもち)を売り出す柏屋光貞。京都に疫病が流行っていた文化3(1806)年、聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の山伏として大峰山(おおみねさん)で修行中だった柏屋の祖先4代目利兵衛(りへえ)が、夢のお告げによって、山鉾(やまほこ)に献じたという無病息災を願う霊菓。祭礼と暮らしが密接に関わる京都ならではの行事菓子です。節分にだけ売り出される「法螺貝餅(ほらがいもち)」も厄除けの菓子。

柏屋光貞(かしわやみつさだ)

住所 京都府京都市東山区東大路松原上ル4丁目毘沙門町33-2
営業時間 10時~売り切れ次第
定休日 日曜・祝日(ただし、節分、祇園祭の宵山の場合は営業)予約で完売の時

8 本家玉壽軒

創業1865年 京都府・西陣
DSC_2125本家玉壽軒の紫野 和三盆を使った落雁で、甘味と大徳寺納豆の両方の風味が楽しめる。1箱15個入り

京菓子文化を育てた寺院の御用達

京都の菓子舗はまた、寺社とともに伝統を守ってきました。本家玉壽軒は、その昔、井筒屋嘉兵衛(かへえ)という名で呉服屋のかたわら和菓子を手がけてきましたが、明治ごろに菓子に専念。屋号は妙心寺(みょうしんじ)の初代管長が名付けたそう。創業当時からの妙心寺や大徳寺をはじめ、現在は南禅寺(なんぜんじ)、龍安寺(りょうあんじ)、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)など、格調高い菓子づくりで多数の御用を務めています。

9 鶴屋吉信

創業1803年 京都府・西陣
DSC_2120鶴屋吉信の御所氷室 この美しい涼菓は、5月〜8月末ごろまでの限定販売。28枚杉盆入り

京都所司代(しょしだい)に認可された「上菓子屋」

初代鶴屋伊兵衛により創業。京都所司代に認可された「上菓子屋仲間」に所属する菓子司として、御所や宮家、茶道家元、寺社の御用達として人気を博してきました。吉信の吉は「吉兆」、信は「信用」を意味し、菓子づくりにおける理念を表現。「御所氷室(ごしょひむろ)」は氷を模した純白のすり琥珀に、丹波大納言小豆(たんばだいなごんあずき)を散らした、気品あふれる干菓子。本店とウェブショップのみの扱いです。

2017年8月6日日曜日

こうもり穴、百間堤

平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。

四ツ子川の「百間堤」(大津市大物地先)

百間堤
百間堤
 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
地元住民による案内板
地元住民による案内板
 「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。
集落用の用水路
集落用の用水路
 百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。

こうもり穴(大津市八屋戸地先)

こうもり穴出口
こうもり穴出口
 JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山集落に入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)の庭石が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を進みます。集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の山荘住宅に向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴」とよばれるトンネルがありました。
 湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に周辺の発掘調査が行われました(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1986『国道161号線バイパス・湖西道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面をさかのぼるように、長さ約310mのトンネルが見つかりました。そのうちの約245m分は完全なトンネルで、ひと1人がかろうじて立って歩けるほどの幅と高さでした。トンネルの内部は所々にロウソクを立てたと思われる穴や窪みもありましたが、土器などの人工遺物は見つかりませんでした。
 地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、その由来や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在では、山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解消するために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の守山の、水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(1992)頃までは中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まってしまったようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。

周辺のおすすめポイント

山中の歓喜寺薬師堂
山中の歓喜寺薬師堂
 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られたいくつかの郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されたとされ、今日に至っています。また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡も残されています。(濱 修)

アクセス

◆百間堤
【公共交通機関】JR湖西線志賀駅・比良駅下車徒歩30分

◆こうもり穴
【公共交通機関】 JR湖西線志賀駅下車徒歩15分

2017年7月24日月曜日

最古の温泉

1300年続く旅館…思わず圧倒される年月ですが、実際に日本には705(慶雲2)年から続く世界最古の老舗旅館があります。山梨県・西山温泉「慶雲館(けいうんかん)」。2011年に、ギネスブックに「世界で最も歴史のある旅館」として登録されました。実はその直前まで世界最古とされていたのは、石川県・粟津(あわづ)温泉の旅館「法師」(718年創業)でした。「慶雲館」の申請により、こちらは次点となりましたが、ギネスの上位を日本が占めることは驚くべき事実です。  
このような1000年超えの旅館が奇跡的に存続する背景には、有史以来、日本に息づく湯治(とうじ)の文化があります。「慶雲館」は天智天皇の側近・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子の真人(まひと)があたりを流浪し、湯を発見したことに始まります。真人は狩猟の途中で、岩の間から湧く湯に入ってみたところ心身の疲れが回復。後日その場所に自ら湯壺をつくったといいます。霊泉の噂は村々へ広がり、さらには遠く京の都で知られるまでに。758年にはこの霊泉の夢を見た孝謙(こうけん)天皇が、はるばる訪れて入湯。時代が下っても、武田信玄や徳川家康が訪れるなど、その威光は留まるところを知りません。また、前述の旅館「法師」の開湯は白山(はくさん)で修行した泰澄大師(たいちょうだいし)として知られています。大師は白山大権現の夢のお告げで霊泉を見つけ、病に苦しむ人々に役立てるため湯治宿を建てるのです。このように健康への憧れ、長命への願いが温泉に人を引き寄せるという本質は、今も昔も何ら変わりはありません。またそこには自然に湧き出す霊泉という、大いなるものへの信仰を伴い、古い湯治場の多くに、温泉寺や温泉神社などがあります。現代のような医薬品のない時代、心身をいたわるという実益と、なぜだかわからないが元気になるという温泉の神秘に人々は魅了され、宿はそのひとつの拠りどころとなったと言えるでしょう。  
和歌山県田辺市にある龍神温泉は、歴代の紀州徳川藩主の別荘地のような場所でした。藩主が建てた「上御殿(かみごてん)」(1657年創業)は、その趣を固くなに守り、今なお私たちは奥深い自然の中でのくつろぎを、時代を超えて味わうことができます。  
ところで、日本の交通網は織豊(しょくほう)政権下から近世にかけて全国的な整備が進みましたが、物資や人の行き来が増えると、峠や河川の難所、あるいは城下町など人々の滞留の多い場所に旅籠(はたご)などの宿泊施設が増えていきます。江戸時代には参勤交代で使われる宿も不可欠でした。寛政年間に中山道(なかせんどう)の木曽奈良井宿で生まれた「ゑちご屋旅館」(長野県・塩尻)や、元禄時代に大多喜(おおたき)城下で旅籠を営んだ「大屋旅館」(千葉県・大多喜)など、各地に続くそのような老舗もまた歴史の貴重な語り部です。  
江戸時代、それまで自由な移動が許されなかった庶民が、信仰を目的とする旅を楽しむことができるようになると、温泉や宿泊施設は日常に異なる風を呼び込んでくれる魅惑の場所になっていきます。また、多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が温泉地を訪れ、創作のインスピレーションを受けたり、実際にそこを舞台に詩作や執筆にいそしむことで、温泉地や宿泊施設はより多くの人々に知られ、愛されることにもなりました。  
石川県・山代温泉では、若き北大路魯山人が「あらや滔々庵(あらやとうとうあん)」などに長く滞在。温泉地という環境の豊かさ、人々が集い育む多様な文化、集積する富がもたらす余裕など、あらゆる条件が揃った老舗旅館は、日本の芸術や文化を涵養(かんよう)したともいえるでしょう。 「私は温泉にひたるのが何よりの楽しみだ。一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮らしたいと思っている」と書いたのは川端康成(「湯ヶ島温泉」)。川端でなくとも、そう感じる人は少なくないのではないでしょうか。世界に誇る老舗旅館の存続は、健やかで豊かな人生を願い、自然と和すひとときを求めてきた、この国の熱情と対をなしているのかもしれません。

慶雲館 創業705年

全世界が注目!深山幽谷のなかの最古の秘湯

無色透明、ほんのりと温泉特有の香りのするやわらかな湯が1300年湧き続けています。2006年の掘削事業で日本随一の自噴泉が堀り当てられたことは、世界最古湯のますますの威風を予感させて象徴的です。
明治時代初期の慶雲館の様子
標高800mの渓谷に挟まれた一帯は、深山幽谷(しんざんゆうこく)という言葉が似つかわしく、6種の風情異なる浴場での湯浴みは太古の息吹を感じる体験です。

慶雲館

上御殿 創業1657年

紀州徳川家が愛でた往時の姿を山間に守り伝える

弘法大師空海が拓いた秘湯、和歌山県・龍神温泉。こんもりとした山々と清流を望む地に、紀州徳川家の祖・徳川頼宣が惚れ込んで建てた宿で、上御殿と名付けられました。
撮影 小西康夫
当時使われた「御成りの間」の姿もそのままに、現在も宿泊が可能です。それは代々の当主の手厚い管理があってのこと。磨き抜かれた江戸時代初期の空間がもたらす安らぎと、日本三美人の湯と讃えられる、名湯の心地よさにも感動がひとしおです。

上御殿

あらや滔々庵 創業1639年

惜しみなく芸術が配された美の宿

初代の荒屋源右衛門(あらやげんえもん)は、加賀大聖寺(だいしょうじ)藩主の前田利治から湯番頭を任ぜられ、以後も代々藩主を迎えてきたことからその由緒が推し量られます。
大正時代には趣味人の15代当主が、まだ無名の魯山人のパトロン的役割を担いました。館内には魯山人の書画や器はもちろんのこと、現当主好みの芸術作品もごく自然にそこに調和しています。芸術を愛し、芸術に愛された希有な宿として、隅々に美を感じる滞在が叶います。

あらや滔々庵

2017年7月13日木曜日

鮎鱧

京都には、室町時代から寺社の門前に料理を食べさせる茶屋がありました。茶屋といっても、次第に食事や酒をサービスするようになり、桃山時代後期(16世紀)には、東山には宴会ができるような料理屋があったことがわかっています。
江戸時代中期(18世紀)になると、洛中には続々と料理屋ができました。中でも『生簀料理屋』が人気で、高瀬川の近くには何軒もの店がありました。そこでは生簀に鰻や鯉、鮒などを入れておき、生きた魚を料理しました。
そのころの京都の料理屋で、魚といえば川魚。海から魚を運ぶには、内陸の都・京都は遠かったのです。たとえば、鯖街道の起点である小浜から京都・出町柳まで、十八里(約70㎞)ほどあります。鯖やぐじ(アカアマダイ)など、海の魚に塩をして、担って歩き始めると、京都でちょうどよい塩梅になる距離でした。運ぶ人は、寝ないで歩きづめに歩いたといいます。
同じく江戸中期の文人・大田南畝が著書に引用した狂歌に、京都の名物を歌った『水、水菜、女、染物、みすや針、御寺、豆腐に、鰻鱧、松茸』があります。江戸の名物、『鮭、鰹、大名屋敷、鰯、比丘尼、紫、冬葱、大根』に比べると、川魚をもっぱら料理する京都と新鮮な海の魚が使える江戸の違いがくっきり。その好みの違いは今も受け継がれています。鱧の字も見えるので、骨の多い鱧を料理する技術がすでにあったことが推測されます。

朝廷への献上品だった高貴な魚、鮎

海から遠い京都で、魚を食べようと思えば、近くの川の魚か生命力の強い海の魚、ということになります。流通事情のいい現代では考えられない輸送の苦労が、そこにはありました。
鮎は1年しか生きないことから年魚とも、香りがよいので香魚とも書きます。神功皇后(じんぐうこうごう)が釣りをして戦勝を占ったときにあがったので、鮎という字になったという話も『古事記』『日本書紀』にあり、古くから食べられてきた魚です。朝廷への献上品でもありました。現在、日本の淡水魚でいちばん食べられているのは鮎で、全漁獲量の4分の1にのぼります。鮎は中国にも韓国にもいますが、これほど珍重する国はないようです。胡瓜や西瓜を思わせる香りも、清冽な味も、短い一生も、日本人好みなのでしょう。
鮎は秋の彼岸のころ下流へ下り、河口近くの浅瀬に産卵して死んでしまいます。稚魚は海へ下って冬を越します。春になると川を遡ってきます。菜種鮎、桜鮎と呼ばれる稚鮎のときには動物性のえさを食べるので、生臭みがあり、魚田(味噌を塗って田楽仕立てにすること)にする人も。葉桜から菖蒲のころになると苔しか食べなくなり、鮎らしい香りと味になります。7月には顔が小さく見えるほどに成長します。
京都では保津川や桂川など、鮎で知られる川が多いのですが、琵琶湖にいる鮎には特徴があります。7、8㎝にしかならず、皮も薄くて、苦みもほどほど。琵琶湖を海の代わりとして、竹生島のあたりで越冬します。まだ小さいお正月ごろに獲って、氷魚と称しました。白い体の色からの名前です。塩ゆでにしたものを、昔は錦市場あたりでよく売っていたそうです。
焼き台で盛大に鮎を焼く『草口食なかひがし
書家・陶芸家で食に詳しかった北大路魯山人は、大正末期に京都・和知川から鮎を運び、東京の星岡茶寮(ほしがおかさりょう)で出して評判になりました。貨物列車に人間も乗せて、木桶に入れた鮎に柄杓で水をかけ続けさせ、生きたまま運んだのが画期的でした。京都では鮎が桂川から鮎桶で運ばれてきて、「ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながら担いでくるのである」と魯山人が書いています。この運び方が今のエアーポンプの働きをして、鮎を活かしていたのでしょう。魯山人は鮎の活かし方を知っていました。

生命力の高い鱧は京都で手に入る貴重な海の魚

鱧の名前の謂れは、はむ(食う、嚙む)からとも、はみ(蝮)に似ているからとも。大きいものは2m以上になります。生命力が強く、流通が発達する前は、大阪や明石、淡路から京都まで生きて届いた貴重な海の魚でした。祇園祭や大阪の天神祭にはかかせない食材で、祇園祭は別名鱧祭りともいいます。
「梅雨の水を飲んで太る」といわれて、入梅から祇園祭の7月が旬です。また、8月の産卵後9月下旬から11月末までも、黄金鱧といって脂がのる第二の旬です。
鱧の新しいメニューを繰り出してくる『祇園大渡』
鱧は縄文時代から食べられていました。各地の貝塚から鱧の骨が出てくるのです。平安時代には干物にして朝廷に献上されていました。江戸中期の寛政7(1795)年に出た『海鰻百珍(はむひゃくちん)』には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及しています。天保11(1840)年の『包丁里山海見立角力』という食材の番付では、鱧が東方(魚)の関脇で、人気のほどがわかります。最高位の大関が鯛、西方(野菜)の大関は椎茸、勧進元は鰹だし、差添人はだし昆布です。この時代、相撲に横綱はありませんから、鱧は魚の第2位。人気がしのばれます。明治時代以降、きものの問屋が多く集まる室町通あたりでは、祇園祭に来る客を鱧寿司などでもてなしたため、鱧の知名度が上がりました。
祇園にしむら』は、鱧切りでなく柳刃で骨切りをする。
ぎょっとする外見に似ず、鱧の身は白くて美しく、脂もほどよくて、だしは濃厚。鯛と並んで、京都の人が好きな食材です。味もよいのですが、なにしろ精の強い魚なので、それを食べることで夏をつつがなくやり過ごしたいという期待も込められていたに違いありません。
鱧も鮎も時期によって味の違いがはっきりわかる魚です。食べて京都の季節を感じる魚、それが鱧と鮎なのです。
左/まるで清流を泳いでいるような焼き鮎の姿は、『光安』。右/『阪川』の鱧しゃぶ。ほんの少し火が入ったところが美味。

2017年7月3日月曜日

国家的な祭祀の場となってきた伊勢神宮と出雲大社。その本殿建築は日本最古の様式を今に伝えていますが、構造は異なります。比べてみると、その特徴が明快です。

伊勢神宮は“穀倉”に基づく「唯一神明造り」

一般的な神社建築のひとつが「神明造り」ですが、そのなかでも伊勢神宮の正殿はほかでは用いられない特別な様式であるため、「唯一神明造り」と一般に呼ばれています。 これは古代の高床式穀倉が宮殿形式に発展したもの。屋根は「切妻」(本を伏せたような傾斜の屋根)の茅葺で、出入り口は「平入り」、柱を地中に埋める掘立式で、棟持柱が特徴。檜の素木を材にした直線的でほとんど装飾のない簡素な美しさが、2000年もの間〝常若〟であり続ける伊勢神宮を象徴しています。

出入り口はこの向きに

屋根の傾斜面側に出入り口がある「平入り」という形式。

同じようでいて違う内宮と外宮。「千木」の様式も異なります

内宮の千木の先端は地面と水平の内削ぎで、風穴はふたつ半。外宮は、先端は地面に垂直に切られた外削ぎで風穴はふたつ。神域の通行も右側通行(内宮)と左側通行に区別されるなど、内宮と外宮で違いがある。

出雲大社は“住居”に近い「大社造り」

出雲大社の本殿の構造は「大社造り」。屋根の頂部の棟から、両側に屋根が流れ、妻(山形が見えるほう)に出入り口がある「妻入り」が特徴のひとつです。内部は奥行き、間口ともに約11mの正方形の空間で、中央には神聖な「心御柱」が立ち、ほか9本の柱で田の字形につくられています。
柱は礎石の上に立っていますが、鎌倉時代以前は根元が地面に埋まった掘立柱形式でした。屋根は檜皮葺、棟の上には鰹木と千木が上がっています。礎石から千木の先端までの高さが約24m。古代はさらに高かった可能性があり、平安時代から鎌倉時代にかけては倒壊が7度に及んだことが記録に残っています。
現在の本殿は、時代によって細部に変化している部分がありますが、基本的な様式は古代のものと変わっていません。日本の住居の起源とする見方もあり、日本建築史を語る上でも貴重な存在なのです。

檜皮葺の屋根が重厚。軒の厚さは約1m!

緻密な檜皮が、屋根の木材を風雨から守る。檜皮は職人により竹の釘で丹念に留められている。

千木や鰹木を守る伝統の「ちゃん塗り」

屋根の装飾に施された漆黒の塗装は「ちゃん塗り」という伝統技法。銅板を保護する役目が。

なんと伊勢と出雲は鳥居の形も異なります!

伊勢神宮の鳥居は立てた柱を結ぶ材(貫)は短く、上に載る材(笠木)に傾斜がない。出雲大社は笠木とその下の材(島木)に反りがあり、貫は円柱を貫いている。

2017年7月1日土曜日

生姜糖

神話と民藝の里「出雲」と、手仕事とコーヒーの町「松江」。山陰きっての散策パラダイスを旅してみませんか?和樂8・9月号の出雲・松江特集と合わせてお読みください。

來間屋生姜糖本舗

300年変わらぬシンプルな甘さ。生姜(しょうが)の辛みと香りをきかせた銘菓は板チョコのような形。これを手で小さく割っていただきます。
「かつては松江城のお殿様やお姫様たちも召し上がったそうですよ。その当時から材料も製法もまったく変えずにつくり続けています」
優しい甘さとキリッとした生姜の辛みが特徴の「生姜糖(しょうがとう)」。口に入れるとサラサラ溶けて、新鮮な生姜の香りが口いっぱいに広がります。コーヒーにも抹茶にも合うし、紅茶にひとかけら落とすのもたまらなくおいしい――この銘菓をつくっているのが、正徳5(1715)年創業の老舗「來間屋生姜糖本舗(くるまやしょうがとうほんぽ)」。スサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治した伝説が伝わる斐伊川(ひいかわ)の近くで、300年前から店を構えています。
趣のある看板が目印。店内には昭和のはじめと思われるころの写真も。
「生姜糖の材料は、ここ出西地方でしか収穫できない幻の“出西生姜(しゅっさいしょうが)”と水と砂糖だけ。材料を煮詰め、型に流して固めればできあがり…というシンプルなお菓子です」と話すのは、11代目当主の來間 久(くるまひさし)さん。
えっ、それだけですか?…と思わず口にしてしまったところ、「つくっているところを見てみますか?」と有難いお言葉。白衣にマスクに白帽子の完全装備で工房に入れていただきました。
水と砂糖と生姜の絞り汁を煮たて、少し冷まして透明になったものを、板チョコのようなかたちの銅型に流します。
ものの数分で固まったところを型からはずすと、板チョコ状の生姜糖の出来上がり。キラキラと輝いてとってもきれい!
いちど溶けた砂糖を再結晶させているからだそうで、その出来立てをパリンと割って口に入れると、サクッとほどけてフレッシュな味わいです。が、「まだ味が若いでしょう? 少したつと辛みが落ち着いておいしい生姜糖になりますよ」と來間さん。このあとは、工房のみなさんが丁寧に薄紙で包み、袋や箱につめて…とすべて手作業で仕上げます。
「袋や箱のデザインも昔のまま。看板やパッケージに使われている來間屋の文字デザインも、何代目かの当主が考えたそうです」
レトロなパッケージは昔のまま。生姜糖1枚袋入り473円、1枚箱入り486円(ともに税込み)。2枚3枚セットや抹茶糖とのセット、小さく割って個包装したものも人気です。
そんな來間屋生姜糖本舗が建っているのは、「木綿街道」と呼ばれる古い町並みの一角。江戸後期に木綿の集散地として栄えた地域で、商家の面影を残す黒瓦(くろがわら)やなまこ壁、出雲格子(いずもごうし)と呼ばれる格子窓の町家が並んでいます。江戸の風情を伝える町を散策しながら、真っ白な生姜糖をひとかけ口に放り込めば、懐かしくて優しい甘さで心が満たされる。これが300年変わらぬ手づくりの味なのです。
11代目当主の來間久さんとお母さまの定子さん。お店の最寄り駅は、出雲と松江をつなぐローカル線“一畑電車(いちばたでんしゃ)”の雲州平田駅(うんしゅうひらたえき)。

來間屋生姜糖本舗
(くるまやしょうがとうほんぽ)

住所 島根県出雲市平田町774
TEL 0853-62-2115
営業時間 9時~19時 
定休日 不定休