この本では、200年間を歴史のスパンとして、ヨーロッパにおける産業革命を はじめとして、アメリカ合衆国の成立など社会変革が進化していたこの時期に、 同時代としての日本にとっても当然変革の波に洗われ続けた時代として描いている。 その構成として四つの時代に分割している。第一は徳川体制の成り立ちから倒幕に 到る時代。第二は近代革命(武士による革命としての明治維新)の1868年から 1900年代初頭の時代。第三は帝国日本の興隆から崩壊という1910年代から 1950年の時代。第四は戦後日本と現代日本という1952年から2000年 までの時代であるが、1980年代前後を働き盛りとして生き抜いた人間としては、 その社会、政治変化は、回顧の想いも含め興味深く読める。 また、アンドルー・ゴードン氏は、日本を特殊な国としてとらえるのではなく 「日本という場で、たまたま展開した特殊「近代的」な物語」を記述することであり、 「特殊日本的な物語」を語るのではないと言っている。 日本の歴史、文化や政治体制など、が外部とのつながりでまたは強制的な力によって、 どのように変化し、進化してきたのか、そんな視点からこの本を見ると今までの 歴史教科書とは違った文脈が見えてくる。これを国内の深層的な視点から見ている 和辻氏の日本倫理思想史とあわせるとさらに深みが増すように感じられる。 以下のゴードン氏の発言はそれを物語るものであろう。 「私がここで言いたかったことは、日本固有だと思われていることが、実は世 界の近現代史と深く関係しているグローバルな事象だということです。そのことをさら に明らかにしようと考え、外国から導入されたミシンという道具と日本女性の関わり方 にフォーカスしてみました。それをまとめたのが、『ミシンと日本の近代―― 消費者 の創出』です。外国からもたらされた「能率と合理性」のための道具であるミシンを、 日本の女性たちが受け入れ、他方では自分たちの文化も保とうとして抵抗し、複雑に屈 折しながら生活自体を変容させていく姿が、驚くほどよく見えてきました。西洋から日 本へのミシンの導入は、近代化のグローバル展開が日本でローカル化されるプロセスだ ったのです。それが、「日本の近現代史は、世界の近現代史と不可分だ」と私が言う意 味です」。 さらに言えば、2000年以降は、インターネットの拡大による情報の拡散の速さや 物理的なものの移動と量の大きさや速さが格段に進んできた。出来れば、2000年 以降の具体的な記述があるとさらに面白く読めるのでは、と思う。 ゴードン氏が言いたかったことが本文にもあるが、日本人として長く培われてきた 「心のDNA」を、日本人固有の物として継承していきたい。 「戦後の復興から予想だにしなかった豊かさに至るこの歴史は、軌跡と模範の 物語だったのか、脅威的なグローバルな怪物の登場の物語だったのか、それとも 徳の喪失と伝統的価値観の風化にかんする悲話だったのか。これらの見方 すべてが、日本国内で、そして世界中で表明された。そのすべての見方の背後に 横たわっているのは、日本を、非常に違った、さらには独特な違いを持った場所と みなす、誤った考え方である。日本が味わってきた様々な経験は、たしかに 興味深いがさほど例外的ではない、ととらえるべきであろう。日本の経験は 近代性と豊かさとの取組みという、ますますグローバル化しつつあるテーマの、 他とはちょっと趣を異にする一つの具体的な表われだったのである。」 その記述からもう少し日本の外的な流れの中での動きを見ていくと、 その1)文字とこうした外来の思想と制度は、奈良・平安の時代(8世紀から12 世紀)に古典的日本文明の成果を生み出す基礎となった。アジア大陸との宗教面・ 経済面での重要な関係は、中世期(13世紀から16世紀)を通じて継続された。 このように、近代がはじまる前の100年以上の間、日本の人々と渡来人は、 アジア大陸の様々な文化形態を導入し日本の環境に順応させる、という作業を 続けていたのである。 それらの文化形態のうち、宗教、哲学、政治にかかわる営為の中で伝統的にとりわけ 重要な位置を占めたのは、仏教と儒教だった。、、、、、、、 古代から近代にいたるまで、儒教思想の道徳観と政治観は、日本社会で重要な意味 を持ちつづけた。儒教は、支配者たちにとって、倫理的にも知的にも最高の資質を 備えた役人を登用することがいかに必要かを強調した。道徳心の涵養は、家庭内で 子供が両親、とりわけ父親にたいして孝行と尊敬の義務を果たすことからはじまる、 とされた。広く学問を修め慈悲の心を身につけた者こそが、他人の上に立ち、 導く資格を持つものだとされた。 これに関し、以下の日本倫理思想史で和辻氏が書いている記述を読むともう少し その背景がわかるのでは、と思う。 「明治時代の倫理思想」について描いている。 封建制の崩壊、国民的国家の樹立は、開国の方針とは全然逆の攘夷の立場において 成就したと信じていた人も少なくなかったであろう。然るに明治維新の思想的立場を 表示した五箇条の御誓文は、全然攘夷の立場などを放棄して、ヨーロッパの近代 国家に追いつこうとする規制を示したものであった。、、、 しかし王政復古は、単に武家執権の以前に帰ったというだけではなかった。それは 開国と必然に結びついている近代的国民国家への急激な転向であった。その際 皇位の伝統は、国民的統一を表示するものとして実際に作用する力を持って いたのである。開国の事実と、封建組織の崩壊、国民的国家の形成の事実とを、 密接に連関したものと認め、そこに明治時代の社会の最も著しい特徴を見出す のである。 右のような特徴を明治時代の初期に逸早く反映したのは、明六社の人々の思想 であった。福沢諭吉、加藤弘之、中村敬宇、西村茂樹、西周、津田眞道、森有禮、 神田孝平など。 特に福沢諭吉の想いは、二世紀半にわたる鎖国状態がもたらした文明の遅れを、 取り戻すという問題への取り組みであった。、、、、 政府の指導者たちは、西洋の文明に対する目を開いていた。だから、知識を世界に 求めることは初めから明治政府の方針であった。しかし廃藩置県の仕事の終わる ころまでは、攘夷の旗印のもとに糾合された様々な思想運動、即ち水戸学風の尊王 攘夷論や山陽風の楠公崇拝や国学風の国粋主義などに凝り固まった連中に対して、 相当に強い発言権を与えていた。そのもっとも著しいのが大教宣布である。 それは一時神道を国教とするのではないかという疑念を呼び起こしたほど狂熱的な 烈しさを示したが、しかしその底力は儒教や漢学に及ばなかった。 福沢は、「学問のすすめ」を描いた。 人は生まれながらにして貴賤上下の差別を持ったものではない。万民は皆同じ位 である。しかし実際はそうでない。このため、「有様」の問題と「権利通義」の 問題とに分けて説明した。これにより、人権の平等の考えを展開した。さらには、 この考えを「国と国の間柄」に広げ、国は同等なることを説いた。 「いかに弱小であっても、一国はその独立の存在を保つ権利を持っている。 しかしその独立の権利を確保しうるのは、ただ「国中の人民の独立の気力」である。 だから「外国に対して我が国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、 国中の人々を貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、各その国人たち の分を盡さざるべからず」もしこの権利を侵害しようとするものが現れてくれば、 「日本国中の人民、一人残らず命を捨ててそれに抵抗すべきである。 これらの啓蒙運動により日本人に国民的国家の意義を理解させようとした。 また、「文明論之概略」では、文明を国民集団の主体的精神的な方面から捉え様 とした。「個人の知徳がどれほど進歩してようとそれが直ちに文明なのではなく、 国民一般の知徳の進歩のみが文明と呼ばれるとした。特に智の働きにおいては、 人の数よりも智力の質が重要であり、ヨーロッパの文明の優れている点を明確にした。 その2)何世紀ものあいだに、神道の神官たち、仏教の僧侶たち、儒学者たち (それにこれら3者の役割をひとりで同時にこなした者たち)は、神道の神々と それら神々への信仰と、仏教および儒教の伝統との統合化をはかった。 8世紀以降、仏教寺院と神道の神社がしばしば隣接して建てられるようになった。 中世には、仏はいろいろと姿を変えて神々として現れるのだとする新しい教義も 打ち出された。徳川時代の初期には、儒学者の中にも、同じように神道信仰と儒教の 信条の類似性を強調する動きがあった。 (この辺は日本倫理思想史に詳細に描かれている。神道と儒教が生活に密接な位置を 占めていた。) グローバルな視点からみると、日本列島は、比較的発展の遅れた後進地域であった。 日本は、東アジア域外の政治関係や経済関係には、ほとんど組み込まれていなかった。 資本主義の萌芽は顕著にみられたし、政治危機の兆しも広範囲におよんでいたが、 近い将来に経済、社会、政治体制、文化が革命的な変換を経験するとは、だれにも 思いもよらなかったはずである。だが、1900年の時点になると、日本はすでに 多面的な革命を経験し、欧米以外では最初に、そして当時では唯一、産業革命を 経験した国でもあった。、、、、、、、、 近代はまた、ジェンダー役割に新たな展開と不確実性をもたらした。 20世紀の前半には、政治テロと暗殺、海外への帝国主義的侵略と進出が起き、 そして1世紀あたりの殺戮行為の発生量において史上群を抜く世紀となった20世紀 の中でも最悪の部類に入る数々の残虐行為をもたらした戦争が起きた。21世紀が はじまる時点までに、日本はすでに世界でももっとも豊かな社会の1つになって いたが、国民は、経済を活性化すること、若い世代を教育し年老いた世代を扶養する こと、そして国際社会で建設的な役割を担うこと、といった新たな、しかし困難な 課題に直面した。 (この本では、女性、ジェンダーの記述がかなりある。日本の歴史関連書ではあまり 語られていないが、その視点の違いを感じる) その3)明治国家は、宗教を統制することに関しては一貫して積極的な役割を担った。 神道の場合は、重要な伊勢神宮天皇家の間には以前から長年にわたって 結びつきがあったとはいえ、1868年以前には、いわゆる「神道」の実践 国家と密接な関係を持つことはなく、地域の集落ごとの鎮守を祀るための 分散化された地方レベルの神社を中心におこなわれていた。明治の初期には 政府は神道を司る官庁組織を日本の歴史では初めて設置した。1868年には 神祇官を設置し、次いで1870年には大教宣布にかんする詔書を発布して、 神道、すなわち「神ながらの道」を、国を導く国教とする旨を宣言した。 その後、神道を司る行政機関の格付けは下げられたが、神道こそはすべての 日本人を統合する古くからの宗教だとする認識は、その認識を普及させる 貯めの諸制度ともども、明治期の近代国家の建設者によって、紆余曲折を ともないながら、あらたに作り出されたのである。この一連の措置により 1871年をピークとして多くの寺院や仏像、遺跡が破壊された。 (古代から戦前までの人にとって、天皇への忠誠、心の原点としても生きていた のではないのだろうか) その4)明治期の日本で目がくらむような速さで進行した変化は、様々な反応を 引き起こした。、、、変化に対する乱することへの恐れ、ジェンダー秩序が 混乱することへの恐れ、「われわれ日本人とは何者か」という問いへの答え を求めたいという文化的な関心、という三つの領域で表面化した。、、、、 しかし、改革を目指そうとした様々なプロジェクトの背後に潜んでいたのは、 日本国内の住民と国外の人々を分け隔てする論理だった。この論理から、 一連の問いかけが派生した。われわれがこのような変革をおこなっている 究極の目的はいったい何なのか?我々は鉄道を建設したり、ヨーロッパ式の 憲法を採択しているが、日本人に固有なアイデンティティを持っているのか? 持っているとしたら、それはいったい何か?政教社の創立者たちは、日本が いわゆる文明への道をたどるにつれて、西洋化が「我日本人をして国民の性格を 失わせしめ日本在来の分子を悉く打破して」しまうのではないか、と懸念した。 何よりも重要なのは、天皇に政治的、文化的なよりどころを求めることで、こうした 恐怖や不安への対処が図られてことである。 (日本人としてのアイデンティティ、明治期は外的な要因からであったが、 浮遊する現代でも、この問いかけがあるべき時期なのでは) 戦後は大きく変わる。それは物質面、精神面、あらゆる点で戦前までの共通意識が 消え去ったように思う。 その5)かって1920年代と30年代には、複数の社会的緊張、地主と 小作農の間、財閥のオーナーと困窮した労働者の間、都市と農村の間の 緊張など、は、日本を破壊的な戦争へと突き進ませることになった一触即発 の不安定要因の一環をなしていた。第2次大戦後の高度成長期になると、 新旧の社会的な分断は、以前に比べていくぶんか一触即発的でなくなった。 以前から続いていた格差や、形を変えて現れてた格差は、政府の政策に よって制御された。 また、日本は均質的な人々が住む国であって、そこでは、拡大し続ける 近代的な中間階級の生活の恩恵と社会保障の分け前がほぼ全員にある程度 まで保障されているのだ、とする強力な文化的なイメージも、そうした格差を 緩和するのに一役買った。 マスメディアは、日本国民が抱くこのような経験の共通意識を増幅させる ことによって戦後の社会史で重要な役割を演じた。、、、、、 このメディア漬けの環境の中で、中間階級の生活はこうあるべきだという 標準化されたイメージは広範囲に広がった。、、、、、 メディアが流す日常の番組もまた、教育水準の高い都会の中間階級の一家族 の生き方を、すべての日本人が経験していることの典型であるかのように 描き出した。、、、 通常の番組も大きなイベントの報道も、日本の戦後の近代的な生活が、 先進資本主義世界には共通なグローバルな近代文化の一環をなしている ことを明らかにした。 その6)1980年代の後半、日本の民間企業の行動は国内でも国外でも、 一段と活気を帯びる。企業は一斉に猛烈な勢いで設備投資を行った。 1985年から1989年までの期間、総固定資本形成は、毎年のGNPの 30パーセント近くに上ったが、これは、高度成長がピークにあった60年代 当時の投資率に匹敵する率だった。 日本人が、世界中を見まわして、自分たちの成功と幸運にますます自信を深めた のはすこしも不思議ではなかった。、、、、、 唐津の分析は、いわゆる「日本人論」とよばれる執筆活動のジャンルにおける 言説の典型であった。日本人論の特徴は、思想、美意識、社会、経済組織、 政治文化の伝統から、脳の片側を別の側よりも頻繁に使う傾向の有無などに かんする神経生物学的な特徴に至る様々な領域で、日本固有の独自性を強調する ことにある。日本人論は、すくなくとも三宅雪嶺や岡倉天心などの明治中期の 思想家たちやフェノロサなどの当時の外国人観察者にまで遡る長い歴史 を持っている。日本経済が1980年代を通じて繁栄を続けるのと並行して 「日本人論」の言説をつくりだし広める文化産業も繁栄した。そうした、 言説は、従来の言説と同じように、日本人全体がひとつにまとまっていることを 強調する一方、日本社会に存在する様々な重要なちがいや緊張について 言葉を濁した。 特に、以下の指摘は個人としても意識してきたことでもある。 その7)日本と世界の時間の流れを1990年前後を境として区切るという発想は、 説得的で抗しがたい。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年、二つのドイツが 統一されたのは90年だった。ソ連の帝国が分解したのは1989年で、ソ連自体 が瓦解したのは91年だった。日本では、ヨーロッパにおけるこのような革命的な 変化の前後、1989年1月に昭和天皇が死んだ。同じ年の7月、自民党は参議院選挙 で惨敗した。自民党の議席が参議院で過半数を割ったのは、結党以来初めてのことであ った。1990年には、80年代の投機的なバブルが劇的な形ではじけて、10年 以上におよぶ経済不況が始まった。90年代の世界的な文脈も、日本国内の時代的な 精神もともに80年代とは大きく変わった。 ・「長崎市民の会」は天皇に関する一切のタブーの廃止を求める署名活動を展開した。 これには40万人近くの署名が集まった。このような行動は、戦前には思いも よらなかったはずである。、、、、 ・新天皇自身は、天皇の役割を象徴的なもに限定する戦後憲法の規定を尊重することを 誓った。様々な世論調査の結果は国民の圧倒的多数が、象徴的な君主としての 天皇を支持しており、それ以上でもそれ以下でもなかった。 ・嘆かわしい若者の行動のいくつかが90年代の社会問題化した。それにたいしては このような道徳観念の欠如が広まった背景には物質主義が強まり家族関係が希薄 になったことによって心が危機状態に置かれている、ともいう。 (1989年は個人的にも忘られない年である。仕事、社会的な動きでもこの年を 1つの契機として静かに変革は進んで行った。この文にもあるように天皇への意識も 変わり、日本人としての良さも過去の遺物としてどこかに忘れ去られていく、 そんな感じが強くなった。) なお、現在メディアなどで盛んに言われていることは、すでに1980年代に顕著 になりつつあった。これは、読売新聞の連載である「昭和時代」にも多く指摘 されている。 この本での指摘が40年弱経っても、解決されるどころか、ますます悪い方向へ 行っている現実を見れば、政治の不在、社会解決の努力がどこにあったのか、 考えさせられる。 幾つかの関連の指摘を抜き出せば、 ・人口の高齢化に伴う福祉サービス、コスト増加も、1980年代に浮上した重要な 政治問題の一つだった。 ・1980年代と90年代を通じて、平均寿命はゆっくりとではあるがさらに上昇を 続ける。一方、合計特殊出生率(平均的な女性が一生に産む子供の数)は、低下 の一途をたどった。1990年には出生率が史上最低の1.6まで低下すると、 将来さらにつづく見込みの出生率の低下をめぐって懸念の声が沸き起こった。 ・さらに、人々の耳目を集めた新しい社会問題のひとつは、小中学校で残忍な いじめが増えたことである。 ・80年代の大半の時期を通じて、もてるものと持たざる者の格差が広がるという 問題は、大半の日本人の目には処理可能な、些細な問題と映った。 |
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